猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

愚かな指導者にどうやって引導を渡すか—頑迷な現状維持派にはあえてアメを与えよ—

アセモグルとロビンソンによれば国家の経済発展をもたらす最たる要因は政治的・経済的制度であるという。

 

より具体的には自由民主主義のような包括的な政治制度と自由主義的な経済的制度を有する国家は発展し、対象的に権威主義的な収奪的政治制度や奴隷制や中央司令型計画経済といった収奪的な経済制度のもとでは、国家は発展できないとする。

 

したがって、国家が発展するには収奪的な制度から包括的な制度へと移行しなければならないが、これがそう簡単にはいかない。なぜなら、制度が異なるということは、国家が発展するかどうか、そしてその発展の果実をどう分配するか、誰が権力を握るかといったもろもろの要素で異なる帰結を生むためである。その結果、既存の既得権益層が権力を失う可能性があるため、既得権益層は仮にそれが国に発展をもたらすものだとしても、新たな制度の導入を拒むのである。

 

では、既得権益層が反対する中でどうやって包括的な制度を導入すればいいのか。

 

制度の変革は容易ではないとしながらも、アセモグルとロビンソンは以下の条件を挙げる。

 

まず、第一に、ある程度集権化された秩序が存在し、既存の体制に挑戦する社会運動が無法状態に陥らないこと。第二に、伝統的政治制度の中でも多元主義がわずかでも導入されていること、が制度変革に必要な条件として挙げられている。

 

しかし、包括的制度を信奉する制度変革側が圧倒的なパワーを持っていて、収奪的制度支持派の抵抗を乗り越えることができるのであれば苦労はないが、実際はそのパワーが伯仲しているか、多くの場合は収奪的制度支持派のほうがパワーを持っている(なぜなら収奪的制度支持派が現在の政府を担っているため)。

 

また、仮に包括的制度を支持する現状変革派のほうがパワーが大きくても、制度変革に大きな抵抗が予想される場合、多大な犠牲を払わなくてはならないかもしれない。

 

そのため、可能な限り制度変革は穏便に進めたいわけだが、それにはどうすればいいのか。

 

その一つのカギが「安心供与」である。安心供与とは、現状変革によって権力や利益を失うことを怯える相手に対して、一定の権力や利益の保全を約束することで現状変革に同意させることを指す。

 

包括的制度によって国全体や国民の厚生が増大することが明確であれば、その制度を採用するほうが合理的である。それでも、そうした制度が採用されないのは、収奪的制度の現状で恩恵を享受している既得権益層は新たな制度のもとでは利益が失われることを怯えるからにほかならない。

 

包括的制度を信奉する現状変革派のほうが圧倒的なパワーを持っているのであれば、抵抗を気にする必要はない。現状変革に同意しないのであれば、力づくで屈服させればいいだけの話だからである。

 

しかし、それができないのであれば、相手に一定の利益や権力を提供することで相手の懸念を払拭させ、現状変革へ同意させることができる。

 

もちろん現実はこれほど単純にことは進まないだろうし、頑迷な収奪的制度支持派に利益や権力を供与するなんて、心理的にも納得しがたいところがある。

 

しかし、包括的制度を導入するという大目標を可能な限り低いコストで成し遂げようとするのであれば、現状維持派には穏便に表舞台から退いてもらう必要がある。そのときに、積年の恨みとばかりに収奪的制度派を処罰したり虐待するようなことが予想されるのであれば、彼らは必死に抵抗するだろう。

 

収奪的制度支持派は現状から恩恵を受けているから現状を支持するのはもちろんであるが、それ以上に現状が変革されるとそれによって多大な不利益を被る(場合によって命も取られる)という怯えがあるからこそ現状変革に踏み出せないという側面がある。

 

包括的制度支持者がいかに収奪的制度を支持する現状維持派に安心を供与できるか、それが制度変革をスムーズに進める政治的な知恵であるように思う。

 

参考文献

ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』早川書房、2013年

S.P.ハンチントン(坪郷實・中道寿一・藪野祐三訳)『第三の波—20世紀後半の民主化—』三嶺書房、1995年

なぜわれわれは不満なのか—歴史認識を考える—

第2次世界大戦の敗戦後、米国を中心とする連合国によって日本の政治指導者の戦争犯罪が処罰された。確かにそれは罪刑法定主義に反するなど、法的には多くの問題を抱えた裁判ではあったが、それでも、サンフランシスコ平和条約で日本への賠償を役務に限るとしたことなど、日本に対する責任追及は、少なくとも第1次世界大戦時のドイツに比較するとずいぶんと寛大な処置であった。

 

なぜこのような寛大な処置になったのかといえば、そもそも当時の日本に金がまったくなく損害賠償を支払う能力がなかったこともあるが、それは以上に第1次世界大戦後にドイツに課した損害賠償額があまりに巨額で、かえってそれがドイツを追い詰め、ナチスの台頭を許し、ひいては第2次世界大戦の一因になってしまったという反省が連合国側にあったからに他ならない。

 

吉田茂首相など当時の日本の指導者が、役務による賠償方式は日本の販路開拓にもつながるのであり、賠償とはいえ日本が再び経済的に発展するための必要経費だと述べていたことは、連合国の処置が寛大だったとの認識が当時の日本政府にあったことを意味している。

 

では、今のわれわれは連合国の処置が寛大であったと深く感謝しているか、と言われれば、否、と答えざるをえない。自主憲法論や戦後の謝罪疲れ、従軍慰安婦南京大虐殺等をめぐる歴史認識問題などを見ると、むしろ米国が主導して築いた国際的な戦後秩序に対して今の日本では反感のほうが強いのではないか。いや、多くのサイレントマジョリティは戦後秩序には満足していて(私も満足組である)、表に出てくる声だけを拾うと、戦後秩序への反発は強くなっているように感じられる。

 

連合国、というか米国が寛大な処置になるよう奔走したにもかかわらず、結局日本は連合国の処置に感謝することはなかった。第1次世界大戦後のドイツを反省に日本を追い詰めないように寛大な処置にしたというのは論理的にはもっともで、そして確かに日本が再び戦争をせず、そして今後も少なくとも日本から戦争を仕掛ける可能性が限りなく低いことを踏まえると、経験的にもその処置の正しさは証明されていると言ってよい。

 

日本が再び戦争をしない、という東アジアの国際秩序の安定という目的は達成できたが、それでも戦後秩序への日本の支持を獲得するまでには至らなかった。少なくとも日本が第2次世界大戦時に戦争相手国に与えた損害に比べればはるかに甘いともいえる処罰であったにもかかわらず、日本の中で不満が高いことが歴史認識の問題の難しさを示しているといえる。

 

では、なぜわれわれは不満なのか。

 

その原因を探る一助になるのが、これまでのブログの記事でも何度か紹介した心理学のプロスペクト理論である。

 

プロスペクト理論では何を獲得したか(利得を得たか)、何を失ったか(損失が発生したか)の判断は、「参照基準点」によって決まるとされる。参照基準点を基準にして、そこから新たな利益を得れば「利得」を得たと認識され、反対に何かを失えば「損失」が発生したと認識されることとなる。

 

しかし、この参照基準点は客観的な基準に基づいて定まるのではなく、本人の認識によって決まる点が厄介である。特にプロスペクト理論では、人は利得を得たときはすぐにそれを当たり前の状況(参照基準点)と認識する一方で、失ったときでもすぐにその状態を受け入れない(参照基準点にしない)とされる。

 

このように、人は何かを得ると最初は満足したり、感謝したりするかもしれないが、すぐにそれは当たり前の現状と認識され、満足感や感謝の念は忘れられてしまう。

 

日本は米国の主導する戦後秩序の恩恵を最も享受した国の1つだろう。ドイツのように東西に分裂させられることはなかった。日本の戦争責任を追及する声の中には昭和天皇戦争犯罪を問うたり、日本が再び戦争ができないよう経済的にも低発展状態にとどめておくべきといった、より苛烈な処罰を求める声も多かった。それは米国国内もそうだし、豪州や東南アジアなど戦争や日本の統治によって大きな被害を受けた国々ではとても反日感情が強かったのである。それを超大国である米国がとりなして寛大な処罰へと落ち着いたのであった。

 

米国によって導入された民主主義や資本主義は間違いなく日本の発展に寄与した。国際的な通商レジームなど米国が提供する国際公共財の利益を日本は享受した。客観的に見れば、日本は米国や連合国、そして彼らが提供する国際秩序にもっと満足感を感じても不思議ではない。

 

しかし、心理学的には利得はすぐに当たり前のものと認識され、感謝や満足の念はあっという間に霧散してしまう。

 

さらに現在では戦後秩序と今日の日本の低迷が因果的に結びつけられて認識されるようになってきているように思われる。資本主義や自由主義によって日本に伝統的に存在していた道徳観や共同体が破壊されてしまったとか、自虐史観を植え付けられて自信を喪失してしまったとか、押し付けられた憲法を改正すべきとか。あたかも戦後に米国から導入された価値観や制度がなくなれば、再び本来あるべき日本が復活する、と言わんばかりである。

 

日本は戦後秩序から恩恵を受けているのだから、本来であればもっと戦後秩序に満足し、そして感謝してしかるべきであるが、心理学的にわれわれは戦後秩序の恩恵は当たり前の現状と認識する一方で、現在発生している諸課題(特に道徳や共同体といった価値や理念に関する要素で一層)は戦後秩序によって引き起こされていると因果的に結びつけられることで、戦後秩序とそれをもたらした米国の政策にむしろ反発を強める結果となっている。これは米国の政策決定者も想像していなかったことであろう。さらにいえば、第2次世界大戦の歴史認識をめぐる問題や対立が、戦争終結から70年を経ても残存していることは想像できなかったであろう。

 

では、米国や連合国はどうすべきだったのか。恐らく、あれ以上にバランスのとれた処罰方法はなかったであろう。

 

米国の中にも日本を自陣に入れる観点から、日本の処罰に反対する意見もあったらしい。しかし、あれほどの被害を引き起こした日本の責任を全く問わないということは政治的にほぼ不可能だっただろう。

 

戦争を引き起こした国を秩序の安定という観点から不処罰にした事例は世界には存在した。その代表例がナポレオン戦争後のフランスである。フランス革命を「輸出」しようとして欧州全体を巻き込む戦争を引き起こしたフランスに対して、当時の大国であるオーストリアや英国はフランスを処罰するのではなく、欧州の秩序の担い手の一員として招き入れることを選択した。当時は戦争は違法ではなかったので、そもそも法的、倫理的に戦争の責任を問うという発想があまりなかったこともあろうが、それ以上に欧州の秩序を安定させるためにはフランスという大国が再び秩序の支持者になり、秩序の構成メンバーになってくれる必要があったからである。

 

しかし、秩序の安定を優先して日本を不処罰にするという選択肢を連合国が選択することは不可能であったろう。その最たる要因が、民主主義の普及である。ナポレオン戦争終結時の19世紀初頭には世界に民主主義国は存在しなかった。政治や外交はエリートが担ったのであり、そのため、大衆の声を無視して合理的判断に基づいて外交を遂行することは可能であった。

 

だが、第2時世界大戦時は違った。米国をはじめ主要な連合国は民主主義国であったから大衆の処罰感情を無視することはできなかった。そもそも武力紛争自体が違法化されつつある時代であり、第2時世界大戦自体、反全体主義の戦争として善と悪の戦いと認識されていたから、悪事を働いた国を全く処罰しないということは政治的に不可能だっただろう。むしろことの成り行きを見れば、より厳しい処罰が日本に課せられた可能性は十分あったのであり、処罰はするものの寛大な処罰にとどめる、というのが最もバランスがとれた恐らく唯一の方法だったに違いない。

 

米国の築いた戦後秩序は日本にとって有益なレジームである。われわれとしては不満もあるが、客観的に見れば、より苛烈な処罰の可能性もあり得たことを踏まえ、戦後秩序の利点により目を向けるべきであろう。どんなに不満があっても戦後秩序から抜け出すことが日本にとってプラスになるとはとうてい思えないのである。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

大沼保昭『「歴史認識」とは何か』中公新書、2015年。

 

イレデンティズムを持った覇権挑戦国、中国 —危険な覇権挑戦国、されど日本も自制すべき理由—

ジョージ・モデルスキーによると、歴史上覇権国は4カ国存在する。

 

すなわち、16世紀のポルトガル、17世紀のオランダ、18世紀から19世紀のイギリス、20世紀の米国である。米国の覇権は今日まで続いているわけだが、米国の覇権に取って代わろうとしているのが、中国である。

 

日本からすれば、中国が覇権国になることを危惧する理由は山ほどある。歴史問題や尖閣諸島をめぐる対立がありそもそも日中関係が悪いのだが、何より中国が第2次大戦後に国際社会が培ってきた自由、民主主義、人権といった価値や理念を共有していないことが大きな問題である。

 

前覇権国のイギリスや現覇権国の米国はこれらの価値や理念に基づいた国際秩序を構築してきたのであり、たしかに自由主義や民主主義も多くの問題を抱えているわけだが、既存の政治体制や理念の中で自由主義や民主主義に勝るもはない。

 

実際のところ、中国は自由貿易体制や資本主義の事実上の導入によって経済発展を成し遂げたわけで、その意味では一定程度は現在の国際的な価値や理念を共有しているともいえるのだが、こと自由主義や民主主義、人権といった西洋的な価値観に対する警戒感は根強い。

 

中国の習近平政権の国際情勢の認識を見ると、2014年の第14回党中央政治局集団学習会で、中国が直面する脅威が増大していると彼は懸念を表明しているわけだが、特にその中で彼が懸念しているのが米国のアジア回帰(リバランス)である。

 

米国からの圧力がなぜ問題かといえば、軍事面よりもむしろ、自由主義や民主主義、人権といった理念が中国に流入することで、社会主義イデオロギーが侵食され、共産党体制の安定という政治安全保障が侵されるからである。こうした理念や価値観の流入によって内部から共産党の政治体制が崩されることが問題なのである。

 

このように中国は現在の国際秩序を構成する価値や理念を共有しているどころか警戒感さえ抱いている。それゆえに中国が覇権国になったとき、国際秩序がどのようになるのか、不透明感があまりに大きい。

 

中国の覇権国化を懸念する材料は枚挙にいとまがないわけだが、ここでは価値観や理念のほかに、中国が過去の覇権国にない特異性について考えたい。

 

 

それは、中国が覇権国を経験した過去の栄光をひきずった国であるということである。

 

 

中華思想がどこまで現在の中国を突き動かしているかは定かではないものの、習近平政権は「中国民族の偉大な復興」という「中国の夢」をスローガンに掲げている。

 

以前のブログにも書いたが、このあるべき姿の実現という発想はとても危険である。

 

中国以外の過去の覇権国は、みな覇権を経験したことはなく、国力の増大に伴い覇権国の地位を占め、そして覇権国から降りた後は1度も覇権国に返り咲いたことはない。

 

しかし、中国は異なる。数世紀の前のこととはいえ、中国は東アジアの覇権国であり、世界有数の超大国であった。それが、アヘン戦争以来、日本を含む列強の事実上の植民地化に晒されることになった。中国にとって列強の浸蝕を受けたことは「国辱」であり、習近平政権が掲げる「中国の夢」とは、すなわち屈辱の記憶を乗り越え、19世紀以来の失地回復を実現することにほかならない。

 

現在の中国では中国が欧州の列強とは異なり平和的な海外進出をしてきたことを示す象徴として明時代の航海者「鄭和」が参照されているようである。

鄭和アラビア半島や東アフリカまで航海した人物であるが、鄭和が参照されること自体、中国が明時代や清時代の栄光を自信の拠り所にしていることがうかがわれる。

 

1月16日のブログ記事にも書いたとおり、行動の基準の参照となる現状、すなわち参照基準点をいつに設定しているかを判断することが国の政策を分析する上でとても重要である。

 

何を獲得して、何を失うのか(もしくは失ったものを回復するのか)というのは「現状」との比較によってはじめて可能になるわけだが、その現状を決めるのが参照基準点であり、参照基準点をもとにある事実が当該国家にとって現状変革なのかそれとも現状維持なのかが決定されることになる。

 

そしてその参照基準点=現状は必ずしも客観的に設定されるわけではなくて、アクターの認識によって決まる。したがって、今日のこの日を参照基準点と認識するアクターもいれば、未来に到達しているであろう理想の状態を参照基準点と捉えるアクターもいれば、過去の輝かしい時代の状態を参照基準点と捉えるアクターも存在する。

 

そして問題なのが、人間というのは現状からのマイナス状態、すなわち損失局面にいることに耐えられず、損失を回避するためなら多少のリスクは甘受するということである。

 

中国とて、鄭和が訪れた地域すべての領有権を主張したり、影響下に置こうという意図はないと思われるが、それでも中国が過去の栄光の時代を参照基準点=現状に設定しているとすると、周辺国から見れば、尖閣諸島スプラトリー諸島の領有権を主張したり、海軍力を強化したり、一帯一路政策を掲げたり、アジアインフラ投資銀行(AIIB)を立ち上げたりする行動は中国の勢力圏の拡張という「現状変革」行為に映る一方で、中国からすればそれは過去に存在したあるべき現状を回復させる「現状維持」行為に映ってしまう。

 

中国から見れば、現在の中国の行為は不当に収奪された現状を回復させるに過ぎないどちらかといえば防衛的な行動であって、にもかかわらず米国がリバランス政策でアジアに回帰し、中国の行動を阻もうとするのは不当な介入で、むしろ中国は被害者であるという認識を強めることになるのだろう。

 

従来の覇権国のなかで被害者意識を抱えながら覇権国なった国はないのではないだろうか。もちろん覇権国になったあとに覇権国という現状を守るために非合理的な行動をとった例は数多いのだが、被害者意識を持つ覇権国というこれまでにない事態に日本を含め世界はどう対応したらいいのだろうか。

 

 

尖閣諸島スプラトリー諸島に対する不当な中国の領有権には断固として抗議しなければならない。他方で、古典的リアリストの理論に基づけば、(仮にそれが誤認であったとしても)中国が自身を被害者であると認識しているのであれば、抑止を中心とした対中国強硬策は必ずしも効果的とはいえない。

 

抑止は基本的に脅しによって相手の行動を抑制することであって、相手の脅威認識をいたずらに引き上げてしまう可能性がある。

 

国際社会はナチスドイツを食い止めることに失敗した経験に基づき、拡張主義的な国家に対しては「宥和政策」ではなく抑止をもって望むべきという教訓を得た。そのため、現状に挑戦するような無法な国に対して抑制的な態度で接しろ、という意見は非常に受け入れられにくいのだが、一方で国際社会は「1914年」という教訓も得てきた。

 

1914年の教訓とはすなわち、第1次大戦の勃発を食い止められなかったことに対する反省であるが、これは宥和政策で臨むべきであったのに、抑止を選んでしまったため、怯えた国家が暴発して世界大戦を誘発してしまったという教訓である。すなわち、当時のドイツ(プロイセン)に対しては宥和政策で臨むべきだったという説である。プロイセンはロシアとフランスという大国に挟まれており、両国から挟み撃ちされることを警戒していた。普仏戦争によりプロイセンとフランスの関係は悪く、事実、フランスはプロイセン対策のためにロシアと露仏協商を締結していたし、何より当時は戦争が合法であった。

 

当時のプロイセンの味方は落ち目の大国オーストリアハンガリーだけであり、事実上孤立していた。プロイセンは生存に汲々としていたわけだが、当時の皇帝ヴィルヘルム2世の外交感覚のなさによって引き起こされたタンジール事件やアガディール事件などはむしろプロイセンの拡張主義的な行動と諸外国には受け取られた。そのため、プロイセンを囲むように、英仏露の同盟関係が構築され、それがさらにプロイセンを圧迫し、プロイセンの暴発(きっかけはセルビアに対するオーストリアハンガリーの攻撃であったが)を招いたのである。

 

タンジール事件などプロイセンの失敗もあった。諸外国から見れば、そのようなプロイセンを現状変革勢力と捉えても仕方なかった面もあるが、結果論から見れば怯えた国に対しては宥和主義(国際政治学用語で「安心供与(reassurance)」という)も必要なのである。

 

パワー・トランジション論の先駆者オーガンスキーによると、新興の大国が現行の国際秩序を受け入れる条件として、新興大国が現行の国際秩序から恩恵を受けていることを挙げているが、単に現行秩序から恩恵を受けているだけではなく、国力の拡大に見合った権力の付与(たとえば国際的なルール作りの場での発言権や役割の付与)が必要である。

 

現行の秩序は覇権挑戦国を敵視しているのではなく、むしろ積極的に迎え入れようとしているのだ、というシグナルを送ることが重要であろう。権力を共有する権力分掌は安心供与の有効な手段である。

 

その意味で、古典的リアリストの分析に基づけば、米国が国際通貨基金IMF)や世界銀行での中国の投票権拡大に反対してAIIBの設立に走らせたことは、米国(より厳密には米国議会)の失敗だったのは間違いない。

 

相手の中国が聞き耳を持っていないのだから、そんなことをしてもムダだ、と切り捨てる向きもあるだろう。しかし、近代的な主権国家システムという舞台においては日本や米国は中国よりも先輩である。現在の中国の振る舞いを見て、中国に安心供与を提供することは心理的に抵抗はあるものの、そこは近代国際政治の先輩として日本や米国が「大人」の対応を取ることもときには必要なのではないだろうか。

 

いかがでしょう?

 

いつから政治家に本音を求めるようになったのだろう

民主主義を担うのは市民である。その市民は投票にあたり合理的な判断ができるのだろうか。

 

伝統的に政治学はこの問いに対して「否」と答えてきた。

 

ウォーラスが『政治における人間性』で人間は衝動や本能、性向によって駆り立てられる存在で、民主主義が理想とする目的合理的に行動できる市民は存在しないと嘆いたのが1908年である。

 

ウォーラスだけではない。アリストテレスがdemocratiaを貧しい人たちによる数を力にした無秩序で過激な政治であるとして民主主義を否定したのは有名な話である。民主主義を支持し選挙権の拡大にも賛成した19世紀の政治思想家のジョン・スチュアート・ミルでさえも有識者に複数の投票権を与えて大衆の暴走を抑えるべきであると主張した。

 

このように伝統的に大衆は本能や衝動にかられる非合理的な存在であり、政治は知識や徳を持った有識者(エリート)が担うべきとされたのである。

 

これは何も国内政治だけではない。外交も(こそ)同様にエリートが担うべきとされたきた。理想的な外交官とは、自身の価値や信条にとらわれることなく国益を最大化するために最適な政策を選択できる人物である。心では共産主義を嫌っていても国益のためなら中華人民共和国と組むことも厭わなかったキッシンジャーなような外交官こそが理想である。キッシンジャーがすごいのは本音では共産主義を嫌っておきながら、国益を最大化させるという目的を達成するうえで合理的な選択を行ったことにあり、彼のように本音と政策を区別できることがまさにエリートの政治家や外交官に期待されるところであった。外交官はナショナリズムといったイズムに左右されるようなことはあってはならないのである。

 

こうしたイズム嫌いは伝統的なリアリストと呼ばれる人に強く、キッシンジャー自身、エリートによる外交が行われていたウィーン体制の信奉者であったし、国際政治学者のモーゲンソーや高坂正堯、イギリスの外交官であったハロルド・ニコルソンらもエリートによる理性的な外交を望んでいた。彼らからすれば大衆の衝動を外交に反映にさせかねないナショナリズムは理性的な外交を脅かす危険な存在でしかなかった。

 

このように政治や外交は衝動的で非合理的な大衆は参加すべきではないか、少なくとも参加は制限されるべき存在だったのであり、その理由は兎にも角にも大衆は本能や衝動によって左右される非合理的な生き物とされたからである。

 

反対によい政治家やよい外交官とは本音に惑わされない人たちを指す。

 

 

にもかかわらず、3月1日のスーパーチューズデーでまさに本能や衝動によって突き動かされているようにしか見えないドナルド・トランプ氏が大勝利を収め、米国大統領選挙の共和党候補へ大きく前進した。

 

トランプ氏は本音で話してくれるから彼を支持する。それがトランプ氏を支持する人の理由である。

 

エリートによる政治を求める人は、政策と本音を区別できることに重きを置いた。しかし、トランプ氏が支持を得た大きな要因が、本音で話している(ように見える)ことだったのである。

 

トランプ氏を支持するのはエリートというよりは白人労働者といった社会における底辺層に位置する人々である。エリート層は相変わらずトランプ氏に手厳しい。エリートから見れば、トランプ氏は実現不可能な政策で排他主義を煽るデマゴーグにすぎず、米国の大統領に就くべき人物ではない。

 

 

しかし、トランプ氏を支持する有権者は彼が本音をしゃべっていると言うが、彼が「本当のこと」を言っているとは思えない。

 

改めて実現性を検証するまでもなく、メキシコにカネを出させて移民を遮る「万里の長城」を築くのは誰がどう考えても不可能である。中国やメキシコからの輸入品に関税を課すことも難しいだろう。10兆ドルの巨額減税の財源を示すこともできない。

 

実現可能性という観点から見れば、彼は何一つ本当のことは語っていない。

 

それにもかかわらず、多くの有権者がトランプ氏は本音を話すと支持をする。

 

本音とは「本心からの言葉」なので本当のことである必要はないのかもしれないが、本当のことを話していなくても本心からしゃべってくれると支持を得るのは何とも不思議な現象である。

 

しかし、これは既存の政治家が本音をしゃべっていないと有権者の少なくない人数が不満を抱いていることの裏返しである。選挙のときは都合のいいことを言うくせに、当選してしまえば選挙時の公約は反故にされる。

 

その意味では、既存の主流派であるエスタブリッシュメント出身の政治家も結局公約を守らないという点ではトランプ氏と変わらない。そうであれば、せめて実現させる気もない美辞麗句を連ねる既存の政治家よりも実現可能性はともかく、少なからぬ有権者が抱く不満を代弁してくれるトランプ氏のほうがいいのかもしれない。

 

エリートから見れば、本音と建前を使い分ける政治家のほうが「大人」の政治家であり、むしろ政治家に必要な資質でさえもある。

 

これまでもエリートと大衆の間の政治に対する亀裂は存在していたのだろう。しかし、民主主義は立候補した候補者しか選べない。特に選挙に多額の費用を要する米国の選挙に一般人が立候補することはほぼ不可能である。

 

多額の費用がかかることは有象無象の人物の立候補を妨げるという意味で一種のスクリーニングの役割を果たし、政治家の質を一定させる効果もある。しかし、スクリーニングの結果、政治の回路に反映されない声が出てくるのはやむをえず、トランプ氏の登場はこれまでたまりたまった不満を一気に放出させる引き金を引いた。

 

この亀裂をふさぐことはできるのか。

 

クリントン対トランプになって、クリントン氏の勝利は既存のエリート政治家への反乱の鎮圧といえるのか。

 

恐らくそうはならない。クリントン対トランプが事実上のエリート対大衆の代理戦争となった場合、仮にエリートのクリントン氏が勝っても敗者たる大衆はむしろエリートたちにしてやられたと思うだけかもしれない。無理やり力でねじ伏せられたと大衆が感じるようなことがあるとむしろエリートと大衆の亀裂は深くなる。

 

さらに以前にも言ったが、トランプ氏およびサンダース氏は過激な発言をすれば一定の支持を得られる事を示してみせた。従来は過激な発言をするトランプ氏は泡沫候補と当初見られていたことが示すように、本能や衝動に従う候補者は泡沫候補者として認知され、とても支持が得られないとこれまで考えられてきた。それは誤りだ、とトランプ氏とサンダース氏は示した。仮にトランプ氏もサンダース氏も大統領になれなくとも、彼らは既存の前提がもはや有効ではないと、ある種の成功体験を示したのである。

 

エリート対大衆の闘いはまだまだ続くのであり、トランプ氏とサンダース氏の「成功」は今後の変化プロセスの創始となるだろう。

 

いかがでしょう?

 

今の環境がいい —現状が維持されるのは介入がないからではない—

私は日本の自然が好きだ。ゆえに日本の自然はいつまでもこのまま残ってほしいと思っている。

 

ただ、日本の自然を保護すべきという意見に共感できるのは、私が日本の自然を楽しみたいというすぐれてエゴイスティックな理由によるのであって、特段自然保護それ自体に熱い思いがあるからではない。

 

いくらゴクラクチョウが美しても、日本の田園でそれを見たいわけではないのである。

 

さて、話は変わって特定外来生物カナダガン

米原産の大型のガンで、狩猟用や愛玩飼育のためにヨーロッパやニュージーランドから導入されたとのこと。

 

環境省によると、日本国内で定着が確認されている個体を根絶することに成功したそうで、日本に定着した特定外来生物の根絶に成功した初の事例となった。

 

なぜ、カナダガンがいるとまずいかといえば、増殖率が高く、放置しておくと日本の絶滅危惧種であるシジュウカラガンと交雑してしまって生態系が乱されたり、農作物を食べられたりするためである。

 

生態系が破壊されるといった場合、「いつ」の「どの」生態系と比べて?ということがまず決まっていなければならない。地球の歴史上、生物が移動したり、絶滅したりすることは人類が誕生する以前から今日まで何度となく起きているからである。

 

動物は自力で移動するのが、植物だって生息域を拡大するために、動物や鳥に種を付着させて、遠くに運んでもらおうとする。

 

ということは、生態系は変化するほうが自然であるといえる。

 

捕獲されたカナダガンのうち一部は動物園に引き取られたが、残りは殺処分されたとのことで、日経新聞の2016年2月22日の記事のインタビューで「カナダガンに罪はないが、生態系を守るためにはやむを得ない」と獣医が答えている。

 

ここで言いたいのは、人間の都合で殺処分することはけしからん、

 

ということではない。

 

むしろ関心があるのは、「守るべき」生態系の基準を決定するということはいかなる政治的現象なのか、ということである。

 

生態系を守る根拠は、経済の発展に伴い、人間が生態系に与える影響が大きくなり、結果、生態系の破壊や種の絶滅を招いており、そうした生態系に対する人間の活動の影響を極力排除して現在の生態系を保持する必要がある、というものだろう。

 

しかし、勘違いされやすいのは、変化が存在しない、というのはそこに何のパワーも働いていないことを意味するわけではないということである。

 

政治には常に、変化させるか(現状を変革するか)、変化させないか(現状を維持するか)という意思決定がつきまとう。現状維持派と現状変革派のせめぎ合いがあり、両者のやりとりを経て、なんらかの「諸価値の権威的配分」をめぐる決定が行われるのであり、現状維持派と現状変革派がそれぞれ望む配分方法を達成するためにパワーを行使するのである。

 

もし現状を維持する、という結論が出たのなら、それは現状維持派が優位したということであり、現状維持派が現状維持を勝ち取るために大きなパワーを行使し、その後も現状を維持し続けたいと欲するのであれば、引き続きパワーを行使しなければならない。

 

生態系の現状維持も同じことであろう。

 

生態系保護派は、生態系を維持するためには人間の影響を極力弱くすることが必要、という発想が根底にあるような気がするが、そもそもある生態系が破壊されていると評価されるためには、基準となるべき生態系を決定する必要があり、生態系が変化したか破壊されたかは、その基準から判断されることになる。

 

「いつ」の「どの」時代の生態系を守るべき最善の状態と定義するか。この定義を行えるのは、そして行ってきたのは人間のみである。

 

生態系の維持については現状維持が最善ということで人間の間ではコンセンサスが得られている。現状維持に要するコストを誰が負担するか、それが先進国なのか、それとも新興国や途上国も含まれるのかをめぐっては争いがあるが、現在の生態系を維持すべきだ、ということについてはコンセンサスが成立しているように思われる。少なくとも、現状の生態系を変化させるべきだ、と声高に主張するような国や団体は存在しない。

 

現状変革派がいるとすれば、それは生態系の側だろうが、政治的な意思決定の場において生態系側に発言権はない。たまに動物が裁判の当事者適格があるかどうかが問題となるが、通常否定されている。まして、政治的な意思決定の場に彼らの生態系側の意見が反映されることはない。

 

あくまで維持すべき最善の生態系を決めるパワーを持っているのは人間のみである。カナダガンには日本の生息域を広げる権利はない。

 

それは、人間が人為的に持ち込んだものであって、自然現象ではないから、という向きもあるだろう。

 

しかし、植物の種子が別の動物にくっついて生息域を拡大したように、ある特定の種の活動に付随して別の生物の生息域が変化するということは地球の歴史上数多くにあったことを踏まえれば、人間という特定の種の活動に伴って、別の種の生息域が変化するのは、これまでの地球の歴史で発生した類似の現象と何が違うのだろうか。

 

それがいけないというのは、自然科学的に現在の生態系が地球の歴史上客観的に見て最善であったから、というわけではなくて、人間の活動によって生態系がこれ以上変わってはならないという規範的な価値観によるものにすぎない。

 

何がよくて、何が悪いのか。これを判断するには最初になんらかの基準設定が必要なのであり、その基準を決定できる者が大きなパワーを持っているといえる。

 

生態系の保護も同じだ。何が保護すべき生態系で、何がそこからの逸脱なのか。それが決まらない限り、何をすれば保護としてよい活動になり、何が生態系を破壊する行為なのかを判断できない。

 

そしてあるべき生態系の基準を決める決定権を持つのは、唯一人間のみなのである。

 

生態系を保護すべき、という一連の決定を見ても、自然保護派にとっては逆説的なことに、改めて地球における人間の持つ圧倒的なパワーを再確認するのである。

 

いかがでしょう?

 

民主主義に倦んでいる —トランプ&サンダース現象と民主主義でも解決できない不満層—

Horowtizによると、エスニシティや人種、宗教や言語等の属性によって分断されている社会では、エスニック集団ごとに政党が作られ、自分の属するエスニック集団の政党に投票する傾向が強くなるため、そのような社会では民主主義の定着が困難とされる。

 

多数派エスニック集団と少数派エスニック集団がいた場合、有権者は多数派のほうが多いため、選挙をやると常に多数派エスクニック集団の政党が勝利する。そのため、選挙という民主的なプロセスを経ることが多数派の少数派の支配につながってしまう。

 

そうなると民主主義という政治制度では少数派は常に政治権力へのアクセスが阻害されてしまうのため、仮に少数派の権利や利益が侵害されていたとしても、民主主義という政治制度の回路を通じては少数派の救済は図られないことになる(不満が極度に高まれば武力に訴えることになる)。

 

民主主義国であれば、少数派の権利を保護する法制度が設けられることが通常であるが、それは100%の確実性があるわけではなく、多数派の寛容に依存する。

 

Horowitzの話はエスニック集団に分断された社会のものだが、エスニック集団にかかわらず、どのような社会にも多様な利害や思想、地位や階級などで分かれた複数の集団が存在するのであり、どのような基準で分類するかにもよるが、多数派と少数派が存在することが普通である(もっともエスニック集団の場合は純粋に人口の多寡が問題になるが、他の基準の分類では、数よりも経済力等の政治的資源のあるなしで多数派と少数派が分けられるべきときもある。人口的に多くても政治的影響力がなければ、政治的には少数派といえる)。

 

少数派が現状に不満を抱いていたとしても、民主主義という政治制度のもとでは彼らは政治権力へのアクセスが限られているため、選挙を何回繰り返しても彼らの抱える問題の解決は期待できない。

 

少数派の利益が保護されにくいというのは、民主主義に限らず、独裁制であっても変わらないか、よりひどいのだが、現代に存在するあらゆる政治制度の中で最もマシと考えられる民主主義によっても、少数派が現状に不満を抱く場合、彼らの不満を吸収することは簡単ではないのである。

 

 

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となれば、なぜ米国の大統領選挙においてトランプとサンダースが人気があるかもわかるだろう。

 

白人労働者はトランプ、学生ローンを抱えた若者はサンダースを支持していると言われる。いずれのも決して生活が楽とは言えない、現状に不満を抱いている人たちである。

 

エスタブリッシュメント出身者が大統領に当選することによって、自らが置かれた状況が改善する(不満が解消される)見込みが薄いと予見されるならば、たとえ愚かに見える人物であっても、エスタブリッシュメント以外の人物に賭けようというインセンティブが生じる。

 

大統領に任期は1期4年なので、最低4年、再選されれば8年同じ状態が継続することになる(事実、ジョージ・ブッシュを除けば、レーガン以来大統領は再選されている)。

 

4年または8年、同じ状態が続くとして、エスタブリッシュメント出身者が大統領に選ばれれば4年から8年もの間、少数派の不満が解消されない状態が続くことになってしまう。その間、少数派の(金銭面や精神面などの)損失が発生し続けるとすると、損失回避のために少数派が第三者から見れば非合理的とも思える行動を選択することは不思議ではない。特に学生ローンを抱えていたり、失業していたりと、経済的苦境にある層は8年間も待てないのである。カネが手に入る見込みがなければ、8年後はさらに困難な状況に置かれるであろうことは容易に想像できる。

 

不満が解消されない現状が続くくらいなら、博打だって打ってみる。将来に改善が見込まれない場合、現状不満勢力は座して死を待つつもりはないのである。

 

少数派も現在は不遇でも、臥薪嘗胆し、いずれ自分の目標を達成する機会が到来すると期待できるのであれば、一時の不遇も我慢できるだろう。

 

しかし、現在の米国は政治制度や経済階級が固定され、不満を抱く少数派にチャンスが訪れにくい。

 

アメリカは政治制度という観点からは非常に安定している。アメリカが民主主義をやめることはとても想像できない。また、民主主義にも大統領制や日本やイギリスのような議院内閣制もあるが、歴史的に見ると、民主主義が確立した国で選挙システムの抜本的な変更や大統領制から議院内閣制への転換などはほとんど発生していない。

 

それは社会の安定という利益をもたらす一方、流動制には欠けるため、少数派の利益が確保されにくい状態が続いてしまうことになる。

 

それでもアメリカは、アメリカン・ドリームという言葉が象徴するように、経済的にはのし上がって下克上を成し遂げることも可能であった。しかし、もともと格差の大きかったアメリカは、さらに格差が拡大しており、下克上への扉は閉じられつつある。

 

選挙という手続きで穏当な人物を選択するという通常の民主主義的なプロセスに従っている限り、そして内戦や天変地異によって政治社会システムが根本的に崩壊することで社会の流動性が高まって下克上が可能にならない限り、現状の継続によって少数派が抱える問題は解決されない。

 

これでは、不満を抱く少数派は不満のやり場がない。現状の政治制度や経済制度では彼らの不満は解消されないのである。

 

現状に不満を抱く少数派はエスタブリッシュメントが当選しても得るものがないが、トランプやサンダースが当選することによって失うものもない。ゆえにトランプやサンダースといった異色の候補者を支持することも厭わない。

 

不満を抱く少数派が既存の政治制度や政策に反対しているとして、①彼らが既存の政治制度の枠組みのもとで行動して自分たちの目標を達成しようとするか、②それとも既存の政治制度の枠外で行動して既存の政治制度を放棄または転換しようとするか、この2つの選択肢しかないとする。

 

どちらを選択するかは、不満層が既存の政治制度の中で目標達成が可能であると期待できるかどうか、そして政治制度の変革にどの程度のコストが必要かによって決まる。もし既存の政治制度でも目標達成が可能だと思うのであれば、①を選択する。また、既存の政治制度の中で目標達成が困難だとしても、変革に膨大なコストを要するようであれば、やはり①を選ばざるを得ない。

 

今までは現状に不満を抱いていたとしても政治制度の変革は困難なので仕方なく①を選んでいた人たちも少なくなかったであろう。

 

しかし、トランプとサンダースという異色の候補者の登場によって、選挙という手続きを通じて現状を変えられる可能性が現れたのである。

 

トランプは共和党、サンダースは民主党と、既成政党の候補者であるが、トランプはそもそも政治経験がなく、サンダースも民主社会主義者を名乗るように、これまでの政治家とは一線を画している。その意味で彼らは既存の政治制度の枠外の人物であり、彼らを大統領に選ぶというのは、②の既存の政治制度の枠外で行動して既存の政治制度を放棄・転換することと同義なのである。不満を抱く少数派は彼らに現状を壊す政治的起業家の役割を期待している。

 

おそらく、オバマが2008年に大統領に当選したのも今のトランプ・サンダース現象と同じ文脈なのだろう。

 

あのときも最有力候補ヒラリー・クリントンであった。しかし、民主党候補になったのはオバマであり、彼を大統領に押し上げたのは黒人初の大統領に既存の政治制度の変革を望んだからに他ならない(ヒラリー・クリントンが当選しても初の女性大統領なのだが、ファーストレディー上院議員の経歴は彼女をエスタブリッシュメントにしてしまい、今回もそうだがかえって経験が彼女を不利にさせている)。

 

オバマは変革を望む不満層の期待に応えることができなかった。というよりも、オバマケアを導入したことを考えれば、彼も十分に画期的な成果を上げたとも言えるのだが、経済的に苦境にある学生や若者、労働者の不満を解消するには不十分であった。

 

それゆえ、現状に不満のある少数派の抵抗が現在でも続き、トランプ・サンダース現象を引き起こしているのである。

 

今回の選挙も最終的には民主党で言えばヒラリー・クリントンのようにエスタブリッシュメント出身者が順当に候補者になると言われている(共和党は誰だろう)。

 

しかし、もしこれでエスタブリッシュメント出身者が当選しても、トランプやサンダースのような極端な発言をする人物でも候補者選びで善戦できるという前例が作られた。そのため、今後も大統領選挙のたびに異色の候補者が立候補することになるだろう。

 

さらにエスタブリッシュメント出身の大統領が、なんら問題を解決できなかったと烙印を押されれば、やはり政治の変革が必要であるという認識が強まり、次回の選挙こそ異色の人物が大統領に選ばれる可能性が高まるにちがいない。

 

年齢を考慮すると少なくともサンダースが大統領選挙に立候補することは難しいだろう(トランプも70歳を越えてしまうので簡単ではない)。しかし、次回の大統領選挙にトランプとサンダースが立候補しなくても、トランプ・サンダース現象は、候補者を変えて今後も大統領選挙に受け継がれることになるだろう。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

  • Donald L. Horowitz, “Ethnic Power Sharing: Three Big Problems,” Journal of Democracy, Vol.25, No.2, April 2014.
  • ポール・ピアソン(粕谷裕子監訳)『ポリティクス・イン・タイム:歴史・制度・社会分析』勁草書房、2010年。

日本型家庭制度が社畜を産んだ?

最も流布している「政治」の定義は、イーストンによる「社会に対して行われる諸価値の権威的配分」です。

 

こうした諸価値の権威的配分はなんらかの集団や共同体が成立するところに常に存在してきました。集団の最も小さな単位の1つは家族で、その他、学校や企業、サークルや地域など、そして最も大きな単位として国家や国際社会があるのです。利害や価値観の異なる人たちによって構成される集団のあるところ、常に政治が存在します。ですので、政治学は政府によるものだけ限らず、一般社会における集団の分析すべてにとって有用なツールといえます。

 

政治と不可分の現象が「権力(power)」の行使です。権力とは相手の同意を獲得する力(相手に自分のやってほしいことはやらせる、またはやらせないようにするための力)ですが、「AがBの行動や傾向をある仕方で変える限りにおいて、AはBに対して権力を持つ」というのが最もポピュラーな説明です。AがBにXするよう影響を与えるわけで、Bがある行動をするのはAがBに影響を与えた結果と捉えられるわけです。

 

この権力行使も別に政府の中だけに限られるものではなくて、国家よりも小さな集団であっても権力行使は発生します。

 

この権力行使の概念をなぜ日本人は社畜になるのか、に当てはめてみると。。。

 

 

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そもそも憲法第22条1項は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」として職業選択の自由を保障します。公共の福祉に反しないという一定の制約を守っている限り、人々は職業を自由に選択できるのです。

 

では、なぜ日本人は自らの意思で「社畜」という奴隷になることを選択するのでしょうか。

 

社畜という言葉は、作家の安土敏氏が1992年の著作で使ったのが始まりと言われているように、もともと高度成長期以降のサラリーマン全般の不幸を指す言葉でした。

 

そのため、社畜を産む構造は企業とサラリーマンとの関係における権力構造を見ることによっとその一端が明らかになると思われますが、社畜を産むのは単に会社とサラリーマンの関係だけでなく、その背後にある夫が外で働き妻が専業主婦として家を守るという典型的な日本型家庭制度の存在があるように思うのです。

 

それはなぜか?

 

この日本型家庭制度は、女性を家に縛り付けるものとして男女平等の観点からも問題なのであるが、男から見てもこの家庭制度がハッピーだったかといえば、きっとそうではなかったでしょう。

 

ソファーで横になりスナック菓子をほうばりながらテレビを見る妻に対して、専業主婦ってラクでいいよなって愚痴をこぼす夫、それに対して家事だって大変なのよと文句を言う妻に対して、仕事はもっと大変なんだ、責任も重大だし、と反論する夫というのは昭和を代表する典型的な中間層家庭のイメージではないでしょうか(実際、こうした言い合いが頻発していたのかどうかはともかく)。

 

ときに家事の大変さを理解しない夫の理不尽さを示しているともとられるこのイメージも、夫から見れば決して理不尽な不満なのではなく、切実なホンネだったのかもしれないのです。

 

というのも、日本型家庭制度というのは「家族を会社に人質に取られたシステム」という一面を持っていたからです。

 

冒頭で書いたとおり、権力行使とは「AがBの行動や傾向をある仕方で変える限りにおいて、AはBに対して権力を持つ」です。そして、最もこの権力関係が成立するのはBがAに依存しているときで、依存されているほうAが依存しているBに対して権力行使ができます。

 

そして、どのようなときに最も依存状態が成立するかといえば、およそ↓の条件が成立しているときです。

 

  • BはAから資源を得ている。
  • その資源はBにとって必要不可欠なものである。
  • Aはその資源の配分やアクセスをコントロールできる。
  • Bにとってその資源を入手できる代替的な源泉は存在しない。
  • BはAの資源の配分やアクセスの仕方をコントロールできない。
  • BはAがどのような要求をするか、どのようにそれを決め、適用するかをコントロールできない。
  • Bは生き残ることを望んでいる。

 

日本型家庭制度ではお金を稼ぐのは基本的に夫のみ。お金はその夫の家族を養うのに必要不可欠。そして、妻は働いていないので、副業がなかったり(通常副業は認められていない)実家がお金持ちとかでなければ、そのお金を提供してくれるのは会社だけ。人事権は会社が握っているので、夫がものすごい才能の持ち主で会社にとって夫が必要な不可欠な人材であれば別ですが、そのようなことは非常にまれなので、通常夫は会社の人事権をコントロールすることはできない。会社から見れば夫は代替可能な資源にすぎず、会社は夫に依存はしていません。

 

つまり、、、

 

  • 夫は会社から資源(賃金)を得ている。
  • その資源は夫にとって必要不可欠なものである。
  • 会社はその資源の配分やアクセスをコントロールできる。
  • 夫にとってその資源を入手できる代替的な源泉は存在しない。
  • 夫は会社の資源の配分やアクセスの仕方をコントロールできない。
  • 夫は会社がどのような要求をするか、どのようにそれを決め、適用するかをコントロールできない。
  • 夫は生き残ることを望んでいる。

 

のような状況が成立しているのです。

 

ゆえに夫はお金という家族を養うために絶対に必要な資源を会社に依存しているのです。妻が働いていて他に資金源があれば夫はお金を得る代替的な源泉を持っているわけですが、日本型家庭では妻は専業主婦なので働いていません。絶対に必要な資源は会社からしか手に入れることはできないので、夫は会社にとても依存しているわけで、ゆえに夫は会社の言うことに服従せざるを得ないわけです。

 

家族を養うためにはお金が必要でその源泉は会社のみ。いわば家族が路頭に迷うかどうかの生殺与奪の権利は会社が握っているといえます。となれば、夫の選択の余地はほとんどなく、会社に尽くさざるをえないのです。

 

日本人が自らの選択で社畜という奴隷にならざるをえない背景には、夫のみが働くという日本型家庭制度があったのではないでしょうか。

 

それゆえ夫婦共働きになると資源を入手できる代替的な源泉があるので、社畜は減るといえそうなわけで、そもそも社畜を否定的に揶揄できるようになったのは、会社への依存度が減ったからともいえるのではないでしょうか(終始雇用制度が崩壊しつつあるので、会社に忠誠を尽くそうが尽くすまいが会社が資源を提供してくれなかったから社畜になってもしょうがないというのもあるでしょうが)。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

 

佐々木毅政治学講義[初版]』東京大学出版会、1999年。

大津真作『異端思想の500年—グローバル思考への挑戦—』京都大学学術出版会、2016年。

Pfeffer, Jeffrey and Gerald R. Salancik, The External Control of Organizations: A Resource Dependence Perspective, Stanford Business Books, 2003.