猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

イレデンティズムを持った覇権挑戦国、中国 —危険な覇権挑戦国、されど日本も自制すべき理由—

ジョージ・モデルスキーによると、歴史上覇権国は4カ国存在する。

 

すなわち、16世紀のポルトガル、17世紀のオランダ、18世紀から19世紀のイギリス、20世紀の米国である。米国の覇権は今日まで続いているわけだが、米国の覇権に取って代わろうとしているのが、中国である。

 

日本からすれば、中国が覇権国になることを危惧する理由は山ほどある。歴史問題や尖閣諸島をめぐる対立がありそもそも日中関係が悪いのだが、何より中国が第2次大戦後に国際社会が培ってきた自由、民主主義、人権といった価値や理念を共有していないことが大きな問題である。

 

前覇権国のイギリスや現覇権国の米国はこれらの価値や理念に基づいた国際秩序を構築してきたのであり、たしかに自由主義や民主主義も多くの問題を抱えているわけだが、既存の政治体制や理念の中で自由主義や民主主義に勝るもはない。

 

実際のところ、中国は自由貿易体制や資本主義の事実上の導入によって経済発展を成し遂げたわけで、その意味では一定程度は現在の国際的な価値や理念を共有しているともいえるのだが、こと自由主義や民主主義、人権といった西洋的な価値観に対する警戒感は根強い。

 

中国の習近平政権の国際情勢の認識を見ると、2014年の第14回党中央政治局集団学習会で、中国が直面する脅威が増大していると彼は懸念を表明しているわけだが、特にその中で彼が懸念しているのが米国のアジア回帰(リバランス)である。

 

米国からの圧力がなぜ問題かといえば、軍事面よりもむしろ、自由主義や民主主義、人権といった理念が中国に流入することで、社会主義イデオロギーが侵食され、共産党体制の安定という政治安全保障が侵されるからである。こうした理念や価値観の流入によって内部から共産党の政治体制が崩されることが問題なのである。

 

このように中国は現在の国際秩序を構成する価値や理念を共有しているどころか警戒感さえ抱いている。それゆえに中国が覇権国になったとき、国際秩序がどのようになるのか、不透明感があまりに大きい。

 

中国の覇権国化を懸念する材料は枚挙にいとまがないわけだが、ここでは価値観や理念のほかに、中国が過去の覇権国にない特異性について考えたい。

 

 

それは、中国が覇権国を経験した過去の栄光をひきずった国であるということである。

 

 

中華思想がどこまで現在の中国を突き動かしているかは定かではないものの、習近平政権は「中国民族の偉大な復興」という「中国の夢」をスローガンに掲げている。

 

以前のブログにも書いたが、このあるべき姿の実現という発想はとても危険である。

 

中国以外の過去の覇権国は、みな覇権を経験したことはなく、国力の増大に伴い覇権国の地位を占め、そして覇権国から降りた後は1度も覇権国に返り咲いたことはない。

 

しかし、中国は異なる。数世紀の前のこととはいえ、中国は東アジアの覇権国であり、世界有数の超大国であった。それが、アヘン戦争以来、日本を含む列強の事実上の植民地化に晒されることになった。中国にとって列強の浸蝕を受けたことは「国辱」であり、習近平政権が掲げる「中国の夢」とは、すなわち屈辱の記憶を乗り越え、19世紀以来の失地回復を実現することにほかならない。

 

現在の中国では中国が欧州の列強とは異なり平和的な海外進出をしてきたことを示す象徴として明時代の航海者「鄭和」が参照されているようである。

鄭和アラビア半島や東アフリカまで航海した人物であるが、鄭和が参照されること自体、中国が明時代や清時代の栄光を自信の拠り所にしていることがうかがわれる。

 

1月16日のブログ記事にも書いたとおり、行動の基準の参照となる現状、すなわち参照基準点をいつに設定しているかを判断することが国の政策を分析する上でとても重要である。

 

何を獲得して、何を失うのか(もしくは失ったものを回復するのか)というのは「現状」との比較によってはじめて可能になるわけだが、その現状を決めるのが参照基準点であり、参照基準点をもとにある事実が当該国家にとって現状変革なのかそれとも現状維持なのかが決定されることになる。

 

そしてその参照基準点=現状は必ずしも客観的に設定されるわけではなくて、アクターの認識によって決まる。したがって、今日のこの日を参照基準点と認識するアクターもいれば、未来に到達しているであろう理想の状態を参照基準点と捉えるアクターもいれば、過去の輝かしい時代の状態を参照基準点と捉えるアクターも存在する。

 

そして問題なのが、人間というのは現状からのマイナス状態、すなわち損失局面にいることに耐えられず、損失を回避するためなら多少のリスクは甘受するということである。

 

中国とて、鄭和が訪れた地域すべての領有権を主張したり、影響下に置こうという意図はないと思われるが、それでも中国が過去の栄光の時代を参照基準点=現状に設定しているとすると、周辺国から見れば、尖閣諸島スプラトリー諸島の領有権を主張したり、海軍力を強化したり、一帯一路政策を掲げたり、アジアインフラ投資銀行(AIIB)を立ち上げたりする行動は中国の勢力圏の拡張という「現状変革」行為に映る一方で、中国からすればそれは過去に存在したあるべき現状を回復させる「現状維持」行為に映ってしまう。

 

中国から見れば、現在の中国の行為は不当に収奪された現状を回復させるに過ぎないどちらかといえば防衛的な行動であって、にもかかわらず米国がリバランス政策でアジアに回帰し、中国の行動を阻もうとするのは不当な介入で、むしろ中国は被害者であるという認識を強めることになるのだろう。

 

従来の覇権国のなかで被害者意識を抱えながら覇権国なった国はないのではないだろうか。もちろん覇権国になったあとに覇権国という現状を守るために非合理的な行動をとった例は数多いのだが、被害者意識を持つ覇権国というこれまでにない事態に日本を含め世界はどう対応したらいいのだろうか。

 

 

尖閣諸島スプラトリー諸島に対する不当な中国の領有権には断固として抗議しなければならない。他方で、古典的リアリストの理論に基づけば、(仮にそれが誤認であったとしても)中国が自身を被害者であると認識しているのであれば、抑止を中心とした対中国強硬策は必ずしも効果的とはいえない。

 

抑止は基本的に脅しによって相手の行動を抑制することであって、相手の脅威認識をいたずらに引き上げてしまう可能性がある。

 

国際社会はナチスドイツを食い止めることに失敗した経験に基づき、拡張主義的な国家に対しては「宥和政策」ではなく抑止をもって望むべきという教訓を得た。そのため、現状に挑戦するような無法な国に対して抑制的な態度で接しろ、という意見は非常に受け入れられにくいのだが、一方で国際社会は「1914年」という教訓も得てきた。

 

1914年の教訓とはすなわち、第1次大戦の勃発を食い止められなかったことに対する反省であるが、これは宥和政策で臨むべきであったのに、抑止を選んでしまったため、怯えた国家が暴発して世界大戦を誘発してしまったという教訓である。すなわち、当時のドイツ(プロイセン)に対しては宥和政策で臨むべきだったという説である。プロイセンはロシアとフランスという大国に挟まれており、両国から挟み撃ちされることを警戒していた。普仏戦争によりプロイセンとフランスの関係は悪く、事実、フランスはプロイセン対策のためにロシアと露仏協商を締結していたし、何より当時は戦争が合法であった。

 

当時のプロイセンの味方は落ち目の大国オーストリアハンガリーだけであり、事実上孤立していた。プロイセンは生存に汲々としていたわけだが、当時の皇帝ヴィルヘルム2世の外交感覚のなさによって引き起こされたタンジール事件やアガディール事件などはむしろプロイセンの拡張主義的な行動と諸外国には受け取られた。そのため、プロイセンを囲むように、英仏露の同盟関係が構築され、それがさらにプロイセンを圧迫し、プロイセンの暴発(きっかけはセルビアに対するオーストリアハンガリーの攻撃であったが)を招いたのである。

 

タンジール事件などプロイセンの失敗もあった。諸外国から見れば、そのようなプロイセンを現状変革勢力と捉えても仕方なかった面もあるが、結果論から見れば怯えた国に対しては宥和主義(国際政治学用語で「安心供与(reassurance)」という)も必要なのである。

 

パワー・トランジション論の先駆者オーガンスキーによると、新興の大国が現行の国際秩序を受け入れる条件として、新興大国が現行の国際秩序から恩恵を受けていることを挙げているが、単に現行秩序から恩恵を受けているだけではなく、国力の拡大に見合った権力の付与(たとえば国際的なルール作りの場での発言権や役割の付与)が必要である。

 

現行の秩序は覇権挑戦国を敵視しているのではなく、むしろ積極的に迎え入れようとしているのだ、というシグナルを送ることが重要であろう。権力を共有する権力分掌は安心供与の有効な手段である。

 

その意味で、古典的リアリストの分析に基づけば、米国が国際通貨基金IMF)や世界銀行での中国の投票権拡大に反対してAIIBの設立に走らせたことは、米国(より厳密には米国議会)の失敗だったのは間違いない。

 

相手の中国が聞き耳を持っていないのだから、そんなことをしてもムダだ、と切り捨てる向きもあるだろう。しかし、近代的な主権国家システムという舞台においては日本や米国は中国よりも先輩である。現在の中国の振る舞いを見て、中国に安心供与を提供することは心理的に抵抗はあるものの、そこは近代国際政治の先輩として日本や米国が「大人」の対応を取ることもときには必要なのではないだろうか。

 

いかがでしょう?