猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

受動史観と能動史観

押し付けられたから憲法は改正されるべきなのか。答えは「否」である。

 

それはなぜか。

 

理由は簡単だ。なぜならわれわれは自らの意思で能動的に憲法を受け入れ、そして支持してきたからだ。押し付けられたから本当はイヤイヤ従っていたんです、とはいかにも受身的で大人気ない言い分ではないか。

 

日本の植民地主義第2次大戦後の行いの特に負の部分をことさらに強調し、反省を促す歴史観自虐史観として否定する向きもあるが、私はそれとは別に戦後日本の歴史がGHQや米国によって押し付けられた価値観やルールに無理やり忠誠を誓わされたのだと捉える受動的な見方と、さはさりながらも西側から移植された価値観やルールは日本にとって決して悪いものではなく、むしろ日本人はそれらの価値やルールを積極的に受容し、われわれ自身に内面化してきたのだ、とする能動的な見方が存在するように思う。前者を受動史観、後者を能動史観と名付けたい。

 

憲法改正派が必要性の根拠の1つとして挙げるものに、現在の憲法は占領軍たるGHQが主導して制定されたものであり、日本が「真の独立国」になるためには押し付け憲法を改正して自主憲法を制定すべしというものがある。

 

現在の憲法押し付け憲法であることは論を俟たない。そもそもマッカーサー憲法改正権限の有無についてその法的根拠が不明瞭だったにもかかわらず、現行憲法マッカーサーが示した3原則、すなわち、①国家元首としての天皇、②戦争および交戦権の放棄、③封建制度の廃止、を強く反映しているからである。

 

確かに日本側から何のインプットもなかったわけではない。鈴木安蔵ら左派の憲法研究者によって構成された憲法研究会がまとめた憲法草案要綱GHQも参考にしたとされており、本要綱の存在をもって現行憲法の押し付け性を否定する意見もある。

 

しかし、押し付け憲法論で最も問題となる戦争および交戦権の放棄については要綱は規定していないし、そもそも日本が戦争に負け、米国が日本を占領していたという環境がなければこの要綱が日の目を見ることはなかったであろう。大日本帝国憲法下では、憲法草案要綱が取り上げられることも、そしてなんらかのかたちで採用されることもなかったはずである。その意味で同要綱の規定が憲法にわずかでも採用されるかどうかは米国の存在が不可欠であった。

 

そもそもどういったアイデアを採用するかは完全に米国に委ねられていた。当時、巷に存在した憲法案は憲法草案要綱だけではなかったはずである。中には大日本帝国憲法とさして変わらない民間研究者の草案だって存在したに違いないが、GHQ大日本帝国憲法的で復古的な憲法草案を採用したとは考えられず、憲法草案要綱が採用されたのは米国が占領軍として存在したこと、そしてどの民間研究者のアイデアを採用するかについてはGHQが選択権を有していたことが決定的に重要だったのであり、やはりその意味で現行憲法は米国主導で制定されたものであって、押し付けという言葉を使用するかしないかは別にして、米国が大きな役割を果たしたことを否定できる者はいないであろう。

 

もともとGHQ大日本帝国憲法のような保守的なアイデアを持っていたり、新憲法をどうするかノープランだったところに憲法草案要綱を目にして GHQが感銘を受けて民主的憲法の制定に舵を切ったということであれば憲法草案要綱の価値を高く評価してもいいだろう。

 

しかし、そのような事実はなく、憲法草案要綱の一部が現行憲法に採用されたのはGHQの選択基準に合致していたからに過ぎず、その選択基準そのものに憲法草案要綱が影響を与えたわけではない。やはり憲法草案要綱の存在をもってしてもGHQの主導性は否定できない。憲法草案要綱は現行憲法に少しでも自主性を見出したい人の慰め程度にしかならない代物であろう。

 

その意味で、本来であれば自国民の手によってつくられるべき憲法GHQ主導でなされたのは手続き上の民主的正統性を欠くというべきである。

 

しかし、もう一方で否定できないのは、われわれは憲法に対して何ら正統性を感じてこなかったということはなく、むしろ積極的に支持してきたことである(少なくとも私は支持してきた)。

 

私がそう考えるのは、現行憲法は事後的な正統性を獲得してきたと思うからだ。

 

確かに現行憲法GHQ主導で制定されたものである。一般の国民はおろか、日本の政策決定者や憲法研究者でさえもほぼ影響力をもたなかった点において民主的正統性を欠いていたのであり、その点で憲法には民主的な権威が欠落していたといえるだろう。

 

その欠けていた民主的正統性を事後的に付与したのが、選挙である。

 

第2次大戦での敗北後、普通選挙制度を採用した初の選挙となった第22回衆議院総選挙(1946年4月10日)は初めて男女が平等に参加できる選挙であり、その投票率は72.08%であった。サンフランシスコ平和条約の発効(1952年4月28日)により現行憲法が完全に効力を持つようになって初めての衆議院総選挙であった第25回選挙の投票率は76.43%であった。いずれも今日では考えられないほどの高い投票率であった。

 

投票率の高低には多くの要素が関わってくるだろうが、こうした高い投票率は現行の憲法とそれに基づく政治体制に対する支持と捉えることが十分できるだろう。投票所に足を運んだ人々は米軍に頭に銃を突きつけられてイヤイヤそうしたわけではない。進んで選挙に参加し、投票という権利を行使したのである。

 

確かに憲法制定過程に日本人は主導的な役割を与えられなかった。しかし、日本人は選挙というプロセスを経て自らの意思で現行憲法を支持してきたのではないか。押し付け憲法改正論はこうしたわれわれの両親や祖父母が下した選択をないがしろにするものであり、むしろ自分たちが下してきた選択さえも受け入れることのできない非常に器の小さな主張である。

 

ゆえに私は押し付け憲法改正論は放棄すべきであると考えるのである。

 

憲法を改正したいのであれば、押し付けかどうかは関係ない。時代の変遷とともに環境が変化したというその理由のみで十分であろう。押し付け憲法だろうが自主憲法だろうが、時代が変わればいくつかの条文は時代遅れとなったり、環境変化に対応して新たな権利義務を挿入する必要は生じる。すなわち、憲法を改正するかどうかは時代の変遷とそれに伴う環境の変化という根拠だけで十分なのである。

 

憲法9条の改正が必要なのは押し付けられたからではなく、中国の力の増大と現行秩序への挑戦や北朝鮮の核開発と暴発リスクといった憲法が公布された1946年当時の国際環境から大きな変化が生じたためである。それ以外の理由は不要である。

 

押し付け憲法改正論は左右の対立をムダに煽るだけである。押し付けであるがゆえに憲法を改正しろと右の主張が復古主義的な響きを持つからこそ、左が過剰に反応し護憲に走るのである。環境の変化という根拠だけで十分にもかかわらず押し付けか否かという不要な論点を付け加えることでかえって憲法改正論議が迷走し、必要な改正さえできない事態に陥っている。

 

戦争に負け、GHQ占領下にあるかぎり、当時の日本にGHQの要求をつっぱねることは不可能であった。そのため、勝手に憲法を作られ、その憲法に否応なく忠誠を誓わされていると心のどこかで思っているからこそ、現行憲法は押し付けであり自らの手で憲法をつくるべしという主張がわれわれ日本人の琴線に訴えるのであり、憲法への忠誠疲労に陥っているのが今の日本である。

 

ただし、それはあまりにわれわれの父母や祖父母がしてきた選択をないがしろにした誤った評価だ。われわれ日本人は自らの意思で能動的に憲法を受容してきたのであり、自分たちの下した選択の結果は自分たちで受け入れなければならない。憲法は押し付けであり、われわれは強力な力に押しつぶされた被害者面することはいかにも格好の悪い受動的な精神であろう。

 

われわれは憲法を自らの意思で支持してきた。それは認めるべきである。ただし、環境が変化したのだから憲法を改正する必要が生じた。それで十分ではないか。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

  • 土山實男「日米同盟における『忠誠と反逆』—同盟の相剋と安全保障ディレンマ—」『国際問題』644、2015年。
  • 藤原帰一『平和のリアリズム』岩波書店、2004年。
  • 篠田英朗『平和構築と法の支配—国際平和活動の理論的・機能的分析—』創文社、2003年。

 

 

 

ハラスメントハラスメント —なぜハラスメントはブームになったのか—

昨日(2016年1月30日)の日経新聞の朝刊を読んでいたら「家事ハラ」という言葉が出ていた。家事労働ハラスメントの略で、家事を「女性がやって当たり前の無償労働」と捉えて無視・蔑視する問題のことだそうだ。女性が活躍できるようになるには、家事を分担し合う家庭を増やし、家事ハラを過去のものにする必要があるとのこと。

 

確かに。

 

と思う反面、また「ハラスメント」が1つ増えたのか、という気持ちも出てくる。

 

なぜハラスメントがこれほどまでにブームなのか?

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それを考える前にそもそも今、どれくらいハラスメントの種類があるのか。

 

Wikipediaでハラスメントの日本語に相当する「嫌がらせ」のページを見てみると、、、

 

セクシュアルハラスメント(セクハラ)

パワーハラスメントパワハラ

モラルハラスメントモラハラ

スモークハラスメント

アルコールハラスメント

ドクターハラスメント

ブラッドタイプハラスメント

 

が特出しされ、さらにカラオケハラスメント、レリジャスハラスメント、就活終われハラスメント(おわハラ)、アカデミックハラスメントが言及され、その他項目としてエイジハラスメントやエレクトロニック・ハラスメント、マタニティハラスメントが挙げられている。

 

セクハラやパワハラのように完全に市民権を得ているものもあれば、ブラッドタイプハラスメントのように少なくとも私は今まで聞いたことがないものもあった。

 

こんなに増えてしまったら、いずれハラスメントだと言って嫌がらせをするハラスメントハラスメント(ハラハラ)が現れるのではないかと心配になったが、すでにダウンタウンの松っちゃんが某テレビ番組で「今はハラスメントハラスメントや。ハラハラやわ!」と発言したらしい。

 

さすがは、松っちゃん。

 

ここで気になるのは、ハラスメント・ブームけしからん、というよりは、なぜにこれほどまでにハラスメントという言葉が急激に流通するようになったかということ。

 

そしてこのブームの分岐点になったのは、パワハラという言葉が定着したことにあると思う。

 

それはなぜか。

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ハラスメントという言葉を聞いてすぐに想起するのはセクハラではないだろうか。

 

Wikipediaセクシュアルハラスメントのページを参照すると、それは1970年代はじめに米国人のフェミニストであるグロリア・スタイネムがつくった造語で、日本での定着は1980年代半ばだそう。

 

もともと米国のフェミニストが考えた造語だけあって、セクハラという言葉はフェミニズムと分かち難く結びついている。

 

実際、性別に基づく嫌がらせである以上、男性もその被害者になりうるが、セクハラで苦しめられてきたのはほとんどが女性でしょう。

 

なので、セクハラというのは女性が虐げられてきた状況を脱するための抵抗の言葉だったと思うわけ。その効果もあってか、女性に対して性別に基づく嫌がらせをしてはならないという規範は、まだまだ不十分とはいえかなり社会に浸透している。

 

しかし、他方で長らくハラスメントという言葉はセクハラに対してのみ使われてきた言葉なので、なんとなくハラスメント=セクハラというイメージが形成されてきたように思う。そのため、ハラスメントという言葉は女性が使う、または女性が抱える問題を表す単語として認識されてきたのではないだろうか。

 

さらに言えば、フェミニストってあんまり日本においてウケがよくないと思う。

 

長らく女性の権利が制限されたり女性が差別を受けてきたりしたは事実なので、彼女たちの主張は正当だと思うのだけど、イメージレベルでは、フェミニズムといったら口うるさい方がギャーギャー喚いているものっていう理解なのではないか。

 

ハラスメントがフェミニストの専売特許であるうちは、正当な主張でさえも変な色眼鏡で見られてしまって、かえって主張の中身がしっかり吟味されることなく、劇場化してしまっていたような気がする。

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セクハラの起源がフェミニズムにあることで、ハラスメント=セクハラ=女性の主張という受け止められた方がずっと続きてきたのではないかと思う。

 

その潮目が変わったのがパワハラ。上司の権力行使に苦しむのは女性だけに限られない。男性だってその犠牲者になるわけです。そしてパワハラだと言えば相手がひるむことを目の当たりにするケースが増えると、このハラスメントという言葉が抵抗の言葉として非常に有効であるということを多くの人が学習するわけです。

 

このパワハラという言葉の定着によって、まずハラスメントという言葉が性別中立的になった。

 

そして、ハラスメントという言葉が弱者の抵抗の道具として非常に有効であるという学習が行われた。それで他の分野も模倣するようになった。

 

これがハラスメント・ブームのメカニズムなんだと思う。

 

冒頭の「家事ハラ」だって少なからず、フェミニストがこれまで主張してきたこととかなり重なっている。だから、家事ハラという言葉がなくても、そうした問題が存在していることは社会では認知されていた。しかし、現実には夫婦共働きが増えても家事は女性がやることが多く、問題が認知されているわりにはその解決は進んでこなかった。

 

しかし、フェミニズムの一環として家事問題を訴えてもそれほど効果は見込めない。だからこそ、この以前から存在する問題に新たに「家事ハラ」というラベルを貼ってみた。ハラスメントという言葉は武器として有効だって証明されているから。

 

ハラスメントの武器としての有効性が否定されない限り、どんどん新たなハラスメントの種類が増えていくんだろう。

 

しかし、ハラスメントが蔓延すればするほど、ハラスメント側と被ハラスメント側との対立はやはり深まるのは避けられない。被ハラスメント側の権利保護は必要だけど、それが行き過ぎて被ハラスメント側の防衛意識が強くなればなるほど、そして、自分の本来保護されているべき権利が失われた損失局面に自分が置かれているんだと思えば思うほど、それを避けるために行動をエスカレートしてしまう。なぜなら相手が攻撃側で自分が防衛側であると認識すれば、悪いのは攻撃してくる相手で、自分は自衛しているにすぎないと自分の行動を正当化できるからだ。

 

さらに悪いのは、ハラスメント側も損失局面にあって自分は防衛側だと思っているときだ。ハラスメントしているとされるほうも客観的には単に必要な注意をしているだけかもしれないし、本当にハラスメントしていても本人の認識としてはハラスメントじゃないと思っていたり、さらに自分は過去同じようなハラスメントを受けてきたのに、権利意識が高まって自分より下の世代が保護されているのを見ると自分の苦しみは何だったのかと自分が損した気分がしたり、自分がハラスメントだと責められていると感じたり、それこそ利害関係が衝突することだってある。

 

そうするとハラスメント側も自分の利益や権利が脅かされていると感じるので、それらを防衛しようとして行動をエスカレートする。それぞれが自分のことを守ろうとすることが相手の防衛本能を刺激して、双方がかえって相手への攻撃をエスカレートする。国際政治でいうところの安全保障のジレンマに似た状況が生まれて、結局誰もハッピーになれなくなってしまう。

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それを避けてハラスメントの問題を解決するには、双方が損失局面と認識して相手に対して攻撃的な態度を取らないようにしなければならない。

 

そのためには、ハラスメントを訴える側も相手への攻撃ではないとか、相手の利益を奪うつもりはなくて、相手の不利益も解消するのだといった相手側への安心供与が必要なんだろう。それが政治学から得られるインプリケーションだと思う。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

藤田直也「ポリティカル・コレクトネスの社会・文化的要因」『近畿大学英語研究会紀要』第2号、2008年。

土山實男『安全保障の国際政治学—焦りと傲り—(初版)』有斐閣、2004年。

 

 

 

 

 

AIIBは秩序運営の実験室

1-2年位前から話題になったアジアインフラ投資銀行(AIIB)。

 

この1月から正式に開業したようです。加盟国は57カ国ですが、周知のとおり日本は不参加。ガバナンスに不安があり、中国の影響力が強いので参加すべきでない、または経済同友会のようにガバナンスさえしっかりすれば参加してもいいとする立場など、日本の参加をめぐってはいろいろ賛否両論がありました。

そうした日本の参加問題とは別に、今後中国がさらに台頭したとき、中国が秩序をどう運営するのか、そもそも中国主導の秩序ってありうるのか、AIIBはそれを占ううえで格好の素材です。

 

なぜか?

 

アイケンベリーによると、安定した秩序を構築するためには、弱小国は主導国が優位な状況を悪用したり、約束を履行しないのでは、といった不安を抱いているため、そうしたことは起こらないということを主導国は弱小国に確信させる必要があります。そのためには主導国のパワーを抑制できるルールや原則が秩序に備わっていて、かつ主導国がそのルールや原則に従うであろうと弱小国が認識していなければなりません。

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主導国からしてみても弱小国が不安を抱かずに進んで主導国がリードする秩序を受け入れてくれるほうがラク。弱小国が秩序に反発して、主導国が弱小国を従わせるために何度もパワーを行使しなければならないとすれば、秩序を維持するコストがばかになりません。なので、弱小国が自ら秩序のルールや原則に従ってくれるほうが、はるかに安上がりで済むわけです。

 

なので、主導国が利口なら、圧倒的なパワーに物を言わせて弱小国の不満を抑えつけるやり方よりも、弱小国が自分たちから進んで秩序に従ってくれるように仕向けることでしょう。

 

そのためには、弱小国の不安を薄めるため、主導国の横暴を抑えることができる仕組みが秩序に備わっていて、主導国がそれに従ってくれると弱小国が確信してくれることがとても重要ってわけです。

 

そもそもAIIBは中国の利益、シルクロード開発の促進、人民元の国際通貨化、中国国内で過剰生産状態に陥っている鉄鋼のはけ口、などのために設立されたと指摘されたように、AIIBは中国の利益のために設立されたと当然受け止められています。さらに出資比率にしても中国が3割を占めて事実上の拒否権を持っているといった具合に、中国のパワーを活かせてしまう舞台が整っています。

 

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だからこそ、中国目線で見れば、AIIBにおける中国の振る舞いがさらなる中国脅威論を煽るか、それとも中国による秩序は意外にOKっていう評価を得られるかの分かれ道といえるわけで、ですので、けっこう中国は抑制的に行動するんじゃないかと。中国のパワーを活かしたいのであれば、BRICS銀行やシルクロード基金、二国間援助を使うなど別のフォーラムがあるわけですし。

 

新聞報道によると開業式典は中国政府が完全に仕切っていたようですが、派遣への意欲を露骨にすると他国の反発を招くので、融和ムードの演出だったようです。

 

アジア開発銀行(ADB)によるとアジアのインフラ需要は2010年から2020年にかけて約1000兆円もあるそうです。ですので、AIIBの設立はインフラ開発資金の出し手が増えることを意味するので、悪い話ではなさそう。

 

 

しかし、グローバルレベルで見ればプラスでも、日中関係をどうするっていう視点で見ると、AIIBの成功は日本にとって痛し痒しな気がします。

 

絶対的な利得のありやなしやで見ればAIIBが順調に運営され日本企業もAIIB案件に参入できたり、中国が秩序の担い手として攻撃的な振る舞いをしないという安心感を得られることは日本にとってもプラスになります。しかし、アジアにおける主導国の地位争いという面では中国の権威の上昇は相対的に日本の権威の低下を意味するので、相対的な利得という意味では日本のアジアにおける地位低下にどうしてもつながってしまう。

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経済的に日本が中国に抜かれてしまった今、自由民主主義や法の支配、資本主義を信奉する国であることが日本と中国を差別化する1つの権威の源泉になっていて、自由民主主義や法の支配を信奉する信頼できる日本VS共産主義一党独裁でアジアや世界の秩序を脅かす現状修正主義的国家である中国、という図式が可能になるわけです。

 

もし、AIIBが西側的な意味でのガバナンスに成功して中国は秩序の担い手優等生ということになると日本と中国の差別化が難しくなって、日本の権威の源泉がなくなってしまうかもしれない。世界全体で見るとAIIBの成功は間違いなく世界にとってプラスなのですが、アジアにおける日中関係っていう文脈で見ると、日本にとっては悩ましい状況なのかもしれません。 

 

だからこそ、おおっぴらにはできないが、AIIBのガバナンスが失敗して「だから言わんこっちゃない」って言う機会をどこか心待ちしてるという人、多いんじゃないでしょうか。うまくいってしまうと、不参加を決めた安倍政権的にもちょっとかっこがつかないわけですし。

 

ちなみに正常に入札やった結果として中国企業の受注が相次いだ場合はどうするんでしょう?

 

通常、中国企業のほうが低コストなので入札金額が安く、さらにいくらADBがアジアのインフラ需要1000兆円って言っても全てが投資に値する優良案件というわけではないので、日本を含む先進国企業が二の足を踏んで参入しないことだって十分あり得えます。とした場合、正常に入札しても中国企業が受注することもあるわけです。

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そのときはやっぱり中国企業優遇してるって必ず言われるわけで、AIIBや中国はどうやってその疑いを晴らすのでしょうか。

 

その意味で日本を含む先進国企業に入札に参加してほしいと一番願っているのは実は中国なのかもしれないですね。

 

今日はこれにて。

 

● 「中国、新秩序へ足がかり アジア投資銀開業、57カ国参加」『日本経済新聞』2016年1月17日(朝刊)。

● G.ジョン・アイケンベリー『アフター・ヴィクトリー—戦後構築の論理と行動—』NTT出版、2004年。

● 関根栄一「中国政府によるアジアインフラ投資銀行設立の狙いと今後の展望」、http://www.nomurafoundation.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/01/CCMR8-04_Wi2015-07.pdf

 

 

あるべき自分を目指すと、なぜに対立が起きるのか?? —中国の拡張主義的行動は何に起因するのか—

人は何かを失ったときにダメージを受けやすい。同じ金額でも、お金をもらったときのうれしさよりも、お金を失ったときの心理的ダメージのほうが大きいし、恋愛だって、告白して付き合えたときの喜びよりも、別れのときのほうがやはり辛い(付き合えたときに嬉し泣きするよりも、別れたくなくて泣く人のほうが多いのでは?)。

 

私自身を含めて、人は自分のもの(になると予想(妄想?)している場合も含めて)を失いたくないわけです。

 

だって、とても辛いから。

  

だからこそ、そんな辛い思いをしたくないので、そのためなら少々の犠牲だって受け入れる。お金なら、投資で損が出ても、お金を失いたくない、後で値上がりして後悔したらいやだって思っていると損切りができないし、恋愛だったら、別れたくないために相手の理不尽な要求に応えるかもしれないし、まかり間違えば、誰か他の人に取られて自分のものならないことを避けるためにストーカーになり、ともすれば殺しさえもする。。。

 

それもこれも人は失うことによる心理的なコストを払いたくないからなわけです。そのためなら傍目からみて非合理的な行動も、本人からすれば合理的(にうつる)。

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国家だって同じ。何かを獲得したときの価値の増大感よりも何かを失ったときの喪失感のほうが大きいから、自分の領土や資源、権利が奪われた(奪われそう)といった具合に失う恐怖に直面すると、国家(の意思決定者)は、それを避けるために行動をエスカレートしたり、自暴自棄になって博打を打ったりする。

 

でも、そもそも何かを獲得したとか、何かを失ったというのは、どのタイミングを基準にして決まるのか?

 

それを決めるのが「参照基準点」。

 

今まで獲得したものと、これから獲得(喪失)するものを区別する点や線になります。そして通常、参照基準点は「現状」であって、現状と比べて何かを得れば獲得、反対に失えば損失となるわけです。

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ただ、この「現状」ってのがけっこう厄介な概念。

 

というのも、結局いつが「現状」なのって問題があるからです。私がブログを書いている2016年1月16日の今まさにこの瞬間が「現状」、、、ってほど話が単純ではなくて、心理学のプロスペクト理論によると人は獲得したときはすぐにそれを現状と認識する(参照基準点にする)一方で、失ったときはすぐにそれを受け入れない(参照基準点にならない)らしいのです。

 

とすると、獲得した人はそれを自分のもんだってすぐに思う一方で、失った人はそれを受け入れず、あれはまだ自分のもんだって思っている。

 

この状態はとっても不安定。

 

参照基準点がどのように設定されるのか、もしくはある国家は参照基準点をどう認識しているのかを分析すると、なんでその国家がそんな行動を取っているのかがわかったりする。

 

たとえば、領土問題であれば、A国がB国からC領土を奪った場合、Aはすぐにそれを自分のもんだと思い、C領土を持っている現状を参照基準点とする。他方、Bは失ったことをまだ受け入れず、いずれ取り戻せると思っているので、C領土を持っていた過去を現状と認識し、参照基準点としています。お互いが現状の維持や現状の回復に努めていると思っていて、それぞれが自分の行動が正当であると思っているので、双方とても対立的になると予想されます。

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A国とB国それぞれの国民だって自国が防衛側だって思っていれば、政府を支持するだろうし、反対に自国の政府が防衛をちゃんとしてないって思えば、むしろ政府を批判するはず。

 

領土は例としてわかりやすいですが、経済的な利得や地位や名誉、権利にだって同じこと。自国の国力に見合うだけの地位を国際社会で得られていなかったり、過去の栄光時代を現状として参照基準点に設定していれば、その栄光の時代の地位を取り戻そうとして過激な行動にだって出るわけです。特にお互いが自分の行動を現状維持のためだって思っているときが一番危険な状態。

 

っていう話を今の東アジア情勢に当てはめるとどうなるか?

 

1990年代から盛んに進められるようになった中国の愛国主義教育運動では、中国は帝国主義諸国の侵略によって多大な損害を被り、その結果、現在でも国際社会において正当な権利や評価を与えられておらず、本来あるべき地位や権益を取り戻し、中華民族の偉大な復興を遂げなければならないと教えられているらしい。

 

特に2012年に成立した習近平政権はそうしたナショナリズムに依拠する傾向が顕著で、屈辱の記憶をぬぐいさり、中華民族の偉大な復興を達成するという「中国の夢」を強調しているよう。

 

彼らからすれば、東シナ海南シナ海の海洋権益は「本来中国に属するべき」なのに、現在は日本を含む周辺国によって「不当に」占有されているってことになっている。近年、中国が掲げる「海洋強国」というスローガンには、「本来中国に属するべき」海洋権益を確保することが大義名分になっている。

 

先のプロスペクト理論に従えば、中国にとっての参照基準点は華夷秩序のもと栄えていたアヘン戦争以前の中国なのかもしれない。

 

とすると、わたしらからすれば、最近の中国の挑発的行動は現在の国際秩序に挑戦する拡張主義者にしか見えないわけだけど、彼らにしてみれば、あるべき自分を取り戻す損失を回復させる防衛的行動ってことになる。

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この現状認識の違いは、東アジアの国際秩序安定って視点からみれば、あまりワクワクしないですよね。

 

なぜなら、日本からすれば当然にあちらさんがこちらの利益を脅かしているって思っているわけだけど、中国は彼らの認識する参照基準点に従って現状を維持・回復するための防衛的行動だと思っているから、自分たちが悪いとは感じていない。むしろ、やらないと世論の反発を食らう。だからこそ、過激な行動に打って出る危険性が高まる。

 

そして米国もかかわってくると、米国にしてみてば、これまで覇権国として東アジアの国際秩序に関わってきたわけで、彼らからすれば、中国の伸張は米国にとっての損失になるので、現状維持に躍起になるかもしれない。

 

でもって、最近の中国経済の減速。中国がここまで経済発展しても国内での民主化運動が盛んにならないのは、経済成長が共産党の正統性を支えてきたからだとすれば、経済の減速は共産党習近平政権の正統性を傷つけることになる。

 

それは習近平政権にとって権力の低下という損失を意味するので、そうすれば損失回避のために経済発展とは別の政治的資源、すなわちナショナリズムを発揚させることで自分たちの正統性の維持を図るという暴挙にさらに拍車がかかるかもしれない。

 

中国は国としてはさらに発展するけれど、個々の政権の浮沈は別問題。政権の正統性が低下するという損失局面に入った習近平政権が次にどういう手を打つか。慎慮に基づいて行動してくれることを期待するけど、これまでの経緯を見るとますますナショナリズムに依存するんだろうなぁ、と思う今日この頃。

 

#まだキャラ設定が固まっていないので、しばらく口調がころころ変わります(⌒-⌒; )

 

参考文献

阿南有亮「海洋に賭ける習近平政権の「夢」—『平和的発展』路線の迷走と『失地回復』神話の創成—」『国際問題』No.631、2014年5月。

飯田将史「日中関係と今後の中国外交—『韜光養晦』の終焉?—」『国際問題』No.620、2013年4月。

土山實男『安全保障の国際政治学—焦りと傲り—(初版)』有斐閣、2004年。

 

 

 

 

Gゼロの時代を考える-中国台頭の影響をどう捉えるか? -

台頭する中国とどう向き合うか。これは日本にとっても世界にとっても重要な問題である。特に中国の台頭が現在の覇権国である米国の相対的な地位低下と同時並行で進み、遅かれ早かれ中国が経済力において米国を追い越すことがほぼ確実視されていること、そしてその中国が現行の国際秩序の挑戦者として振舞っているように見えることがより一層問題を深刻化させている。

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米国の地位低下と中国が台頭した世界を占うものとして注目を集めた本がイアン・ブレマーの『「Gゼロ」後の世界-主導国なき時代の勝者はだれか-』である。Gゼロの時代とはすなわち、これまで超大国であった米国も自由民主主義的先進国の集まりであるG7も新興国を含むG20も国際機関も国際秩序の安定のために「誰もリーダーにならない」時代を指す(もっともGゼロは不安定な秩序なので移行の時代に過ぎないとされている)。

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この議論の暗黙の前提には、国際秩序の安定には覇権国が必要であるという考え(覇権安定論)があるように思われる。人権保護や自由貿易環境保護、航行自由の原則といった国際社会で尊重されている諸価値やそれを支える国際組織や制度といった国際公共財を提供するにはそれに要するコストを負担してくれる覇権国が必要であるという考えである。こと安全保障面に限定すれば誰かが秩序を守る「警察官」を務めなければなければならないということである。この覇権安定論を前提にして、今日の中国の台頭を分析する上で考慮するべき論点として次の2点、すなわち、①覇権の平和的移行は可能かどうか、②国際秩序の安定に覇権国がそもそも必要なのかどうか、があるのではないだろうか。

 

まず前者について。オーガンスキーによると、支配的大国(以下、覇権国とする)を含む現行秩序に満足している国々が不満を持つ国々を圧倒しているときに秩序が安定するとされ、不満国が急速に成長すると現行秩序への挑戦国となる。覇権国と挑戦国との間で戦争が発生するかについて検討すべき要因がいくつかあるが、特に重要と思われるのが、挑戦国の現行秩序に対する満足度と覇権国の柔軟性(覇権国が挑戦国が受け入れられるよう現行秩序を調整する度合い)である。

 

挑戦国である中国の現行秩序に対する満足度はどの程度だろうか。そもそも中国の今日の発展が自由主義経済によるものであったり(建前としては共産主義を維持しているが)、世界貿易機関WTO)に加盟していたりすることを考慮すると客観的には中国は現行秩序の恩恵を最も享受した国の一つであり、そのため現行秩序を維持することに利益を見出しそうである。日本の領土である尖閣諸島の領有権を主張したり、南シナ海で挑発的な行動をとったりするのを見ると中国は現行秩序に挑戦しているように見えるが、いずれの問題についても中国が武力紛争に至るような行動をとった場合、各国との経済的な関係が断絶されることが確実である以上、どんなにエスカレートしても現行秩序に挑戦するまではいかないかもしれない。

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次に覇権国である米国の柔軟性について。世銀やアジア開発銀行(ADB)での中国の発言権拡大に米国議会が反対したことが中国のアジアインフラ投資銀行設立の一因となったと指摘されるが、他方で、オバマ大統領を除く歴代の米国大統領は選挙期間中は対中強硬論を訴えるが、ひとたび政権につくと中国に配慮した現実的対応をしてきており、そうであれば、米国の中国の台頭を受け入れる柔軟性は一定程度確保されているともいえる。

 

では、2番目の論点について。ブレマーはGゼロの時代は誰もリーダーの役割を果たさないといっているが、誰もリーダーの役割を果たさないとどうなるのだろうか。ところで、そもそも覇権国の存在が国際秩序の安定に必要不可欠といえるのか。第2次世界大戦後、特に冷戦終結後、米国が唯一の超大国として存在感を発揮し、さらに米国が提供する国際秩序の恩恵を享受してきた日本からすれば、この覇権安定論は直感的に納得出来る理論である。しかし、国際関係論においては極(大国の数)と国際秩序の安定性の関係をめぐって必ずしもコンセンサスが得られているわけではなく、19世紀の欧州のように5ヵ国程度の大国が存在するとき最も秩序が安定するという立場(多極安定論)や、冷戦期の米ソのように二つの大国が存在するときがいいという立場(二極安定論)と、そして覇権国が1カ国存在するときが最も秩序が安定するという覇権安定論が対立していたのである。さらに合理的制度論者のように国際公共財を提供する国際組織や国際制度の創設時にはそれをリードする覇権国の存在が重要であるが、ひとたび国際組織や国際制度が創設されればその維持・運営には覇権国の存在は必ずしも不可欠ではないと主張する立場もある。もし合理的制度論者の主張が正しければ、Gゼロの時代になってリーダーシップを発揮してくれる覇権国がいなくなったからといってただちに国際秩序が不安定化することはなさそうだし、日本にとって耐え難い不利益が生じるということにもならない。

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では、何の心配もいらないのか。ここでも重要なのは、各国の現行秩序に対する認識であろう。各国が現行の国際秩序から恩恵を受けていて維持することが大事であると考えていれば、たとえGゼロの世界となっても秩序の不安定化は避けられるが、新たに台頭した国家が現行秩序に不満を抱いていてその変更を望んでいるなら秩序の不安定化は避けられない。中国はWTO等の国際組織や制度によって恩恵を受けており、これらの組織や制度の存続を望むだろう。他方で、組織や制度そのものには満足していても、そこでの発言権や地位のあり方については異議を申し立てるかもしれない。結局のところ、今後の国際秩序の安定性を占うには、中国の現行秩序への認識や満足度を検討する必要がありそうである。

 

参考文献 

  • イアン・ブレマー(北沢格訳)『「Gゼロ」後の世界-主導国なき時代の勝者はだれか-』日本経済新聞出版社、2012年。
  • 田中明彦「パワー・トランジッションと国際政治の変容-中国台頭の影響-」『国際問題』604、2011年9月。
  • 瀬口清之「アジアインフラ投資銀設立の行方」キャノングローバル戦略研究所HP、2014年12月4日(http://www.canon-igs.org/column/network/20141204_2843.html)。 
  • 「(風見鶏)オバマ氏を褒め殺しする」『日本経済新聞』2016年1月10日(朝刊)。
  • ロバート・コヘイン(石黒馨・小林誠訳)『覇権後の国際政治経済学』晃洋書房、1998年。
  • 山田高敬・大矢根聡『グローバル社会の国際関係論[新版]』有斐閣、2011年。