猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

自由と承認の間

 

 

山竹伸二氏『「認められたい」の正体』

今回読んだのは山竹伸二氏の『「認められたい」の正体』である。

 

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

 

 

幸せと人との関わりとその葛藤

 幸福のかたちは人それぞれあるだろうが、良くも悪くも人との関わりがその人の幸福感に大きな影響を与えることは間違いない。そして、願わくば世間から、さらに言えば自分が大切にしている人からあなたは素晴らしいと承認してほしいと思っている。

 

スポンサーリンク

 

 

「人からの承認」、これが幸福感に大きな影響を与えるわけだが、現実世界において自分の理想通りに承認を得ることは難しい。そもそも誰だって他人に常に集中力100パーセントで関心を向けられるわけではない。自分だって、常に他人ばかりを気にかけているわけにはいかないから、仮に誰かから褒めてほしいって求められていても自分がそれに応えているとは限らない。

 

こういった人間のある種の能力的な限界に加えて、そもそも相手や社会から承認を得るには承認を求める側の努力が必要であって、ときには自分がそこまで気の進まないこともやらないといけないという問題がある。

 

承認を求めることと自分がやりたいことが重なっている場合は問題ない。しかし、そんなことはほとんどない。わかりやすい例でいえば、気に入られようとして、行きたくもない飲み会に行ったり、残業に付き合ったりすることなどはその顕著な例であり、それもたまにぐらいであれば問題ないかもしれないが、しょっちゅうでは身体も精神も悪くなろう。

 

現代の承認欲求 

別に他者からの承認を欲するのは現代だけではない。昔だって認めてほしいと思っていたはずである。では、現代と過去の違いはどこにあるかといえば、それは承認獲得の容易さである。

山竹は次のように言う。

 

なるほど、社会に共通した価値観が浸透し、個人の役割も固定されている場合、そこに生きる人々はその価値観に照らして自らの価値を測り、その役割にアイデンティティを見出している。多くの人間が同じ価値観を信じている社会では、その価値観に準じた行為は周囲から承認され、異を唱えられることはない。したがって、そのような行為において他者の承認を強く意識する必要はなかった、と考えられる。

たとえば、キリスト教の価値観が浸透した社会なら、神を信仰する敬虔な態度は周囲から承認されるはずだが、当人は周囲の承認など気にせず、その価値観を信じ込んでいるだけだろう。いかに苦しい生活を強いられていても、そこに承認不安は生じない。

しかし、社会共通の価値観が存在しなければ、人間は他者の承認を意識せざるを得なくなる。誰でも自分で信じていた価値観や信念、信仰がゆらげば、自分の行為は正しいのか否か、近くにいる人に聞いてみたくなるものだ。自己価値を測る基準が見えなくなり、他者の承認によって価値の有無を確認しようとする。こうして、もともと根底にあった承認欲望が前面に露呈し、他者からの直接承認を得たいという欲望が強くなる(132頁)

 

多様な価値観があり、かつどれを信奉するか問われないということは、自分で好きに選べるということである。

たしかに自分で選べるというのは素晴らしいことだと思う。しかし、実際に選ぶのは大変だ。2種類しかメニューになければ選ぶのは簡単だが、 無限のメニューを提示されればかえって何をどの基準で選んでいいかわからなくなってしまう。

 

自分の選択の正しさを信じるのはとても難しいことだ。さらにいえばどんな選択をしても、人生において苦難に直面しないことなんてない。もしそんなことがあるとすれば、それはよほどの超人か、人生何にも挑戦しなかったから、結果苦難に直面しなかったにすぎない。

 

苦難に直面すれば誰だって自分の選択を信じられなくなる。それでも神との対話によって正しい道が示されるなら、その葛藤はやがて解決しよう。しかし、現代では神はもはやその圧倒的な存在感を失った。自分が不安を抱いた時、それを解消してくれるのは得てして傍にいる人たちからの承認である。

反対に言えば、承認が得られなければその不安感は解消されず、いざというときに承認を得られるよう、周囲の人への心配りが必要となり、それが度を過ぎれば負担となって、むしろ自分が抑圧されてしまう。

 

いわば、承認と自由はシーソーのようなもので、いずれかに重みがかかりすぎればバランスが崩れてしまう。真ん中の承認と自由が均衡する点に常に位置できるようになればこの葛藤から脱出できるのかもしれないが、現実には承認と自由の間を行ったり来たりして、シーソーが絶えずどちらかに傾いている状態なのだろう。

 

均衡点に居続ける方法を見つけるか、それとも行ったり来たりしている現実をむしろ積極的に受け入れるのか。どちらの選択がより人を幸福にするのだろうか。

 

❇︎本記事は、私の別のブログで書いたものの転載です(そのブログを閉鎖したため)。

 

f:id:mtautumn:20181103175452j:plain

 

スポンサーリンク