猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

リベラルコスモポリタンとナショナリストの相性の悪さ

自由や人権、平和といった普遍主義的なリベラルな価値観を掲げるコスモポリタンと固有の文化や民族的価値観を重視するナショナリストの相性は悪い。

 

コスモポリタンナショナリストの対立はかつてもあった。

その1つが19世紀のウィーン体制とその崩壊である。

 

ウィーン体制は、オーストリアメッテルニヒやフランスのタレイラン、イギリスのカッスルレー、ロシアのアレクサンドル1世らが構築した欧州の国際秩序を安定させるためのレジームであった。当時の意思決定者の中心は貴族たちエリートで、彼らは当時の事実上の国際公用語であるフランス語を解し、貴族的文化を共有していた。他方、教養なき一般市民との間の精神的な結びつきは弱かった。エリートと自国の一般市民との間の垂直的な結びつきは弱かったが、国籍は違ってもエリート同士は貴族的文化も言葉も共有しており、国籍を超えた水平的な結びつきは強かった。垂直的な結びつきがないので今日でいうところのコスモポリタンほどの包含性には欠けるが、とはいえ国境線を越えるという意味でコスモポリタン的な要素を持ち合わせていた。

 

ウィーン体制下の欧州は勢力均衡のもと安定した国際秩序を達成した。勢力均衡とは覇権国の出現に対して、それが普遍的な帝国になって他国を支配するのを防ぐために、他の大国が対抗して合従連衡を組む傾向を指し、5カ国程度の力の均衡する大国によって形成される。しかし、高坂正堯キッシンジャーによれば、それだけでは不十分で、当時のエリート層で共有されていた欧州主義という価値観が重要であった。エリートたちは合意と調和によって行動し、欧州協調(Concert of Europe)が達成された。当時の著名な国際法学者であるヴァッテルは、欧州はある種の共和国で、秩序と自由を維持するための共通利益を有しており、その共通利益維持のために勢力均衡の実現が重要だと述べている。

 

この欧州協調はコスモポリタンなエリートたちによって担われていたが、その協調を壊したのがナショナリズムであった。各地でナショナリズムが興隆すると、エリート間の国境を超えた水平的な結びつきよりも自国民との垂直的な結びつきを強化する要求が強まった。各国が欧州の協調よりも自国の利益を追求するようになった結果ウィーン体制は崩壊し、欧州諸国は第一次大戦という破滅の道へと突き進んだのであった。

 

ナショナリズムが欧州協調を崩したと捉えられているため、高坂正堯キッシンジャーらはナショナリズムといった「〜イズム」を秩序の不安定化をもたらすものとして嫌う。

 

国際秩序の安定をもたらした一方、当時のエリートと一般市民との間の垂直的な結びつきはなかった。そのため、エリートたる貴族は一般市民の利益をさほど考えてはいなかったし、そもそも同じコミュニティに属しているという認識さえなかったであろう。ついでに言えば、当時はほとんどの国が民主主義でなかったか選挙権が一部の金持ちに限定されていため、一般市民の間でも積極的に政治に関わろうという人は多くはなかったであろうから、ウィーン体制下の欧州ではエリートと一般市民との間には互いを同じコミュニティに属しているとは感じていなかったに違いない。

 

翻って現代。相変わらず現代でもコスモポリタンナショナリズムの相性は悪い。

 

現代のコスモポリタンは自由や人権、平和、マイノリティの包含といったリベラルな価値観を掲げ、ナショナリズムといった排他的な思想を嫌う。今日のリベラルの特徴は包含性だろう。

 

もちろん世界には国境はあるから、世界共同体は幻想でしかないが、それでもコミュニティの中でもかつてはマイノリティとして迫害の対象となっていた民族的少数派やLGBTといった人々の権利尊重を求める点において包含性を志向している。コミュニティの境界線といった場合も、領域的な意味での水平的な広がりと、領域内の人々の差異による差別をなくすという垂直的な包含性を高めようとする。

 

コスモポリタンをグローバリゼーション支持者まで広げれば、コスモポリタンのほうがエリートが多いように思える。教養がある人は他者を差別するべきでないという倫理観を持っていることが多いし、たとえグローバリゼーションで他国と競争しなくてはならなくても、能力が高ければ競争自体を恐れず、むしろイノベーションのために競争を支持するだろう。

 

他方で今日の日本におけるナショナリズムの担い手の少なからぬ人たちは自分たちが脅威にされされていると感じている。能力的に自信がなく英語さえもしゃべれない人であれば、外国人との競争の激化は歓迎できる状況ではない。能力という土俵での闘いでは負ける可能性が高い。そういう人たちにとってはコミュニティが民族的基準によって決まるほうがありがたい。日本人であることそれのみが敬意の資格要件であれば、外国人のほうがどんなに能力が高かったとしても日本人であるというその事実自体が外国人よりも上の地位を保証してくれるからである。

 

だからこそコミュニティの境界線をどこに設定するかがとても重要なのであって、このコミュニティの境界線をどこに設定するかで、コスモポリタンナショナリストとの間で意見の相違があるように思える。

 

コミュニティの境界線は可変的であり、しかし一度コミュニティの境界線に関する人々の認識が形成されればその境界線がのちのちまでコミュニティ再生の基準となる。

 

たとえばヨーロッパ。ローマ帝国は今日の西欧や中央のほとんどを支配し、その意味で汎ヨーロッパ的な国家であった。ヨーロッパではしばらくこのローマ帝国の版図がヨーロッパのあるべき単位であると認識され、だからこそ800年のフランク国王カール1世の戴冠や962年にオットー1世が戴冠されて神聖ローマ帝国が誕生したりしているのだ。

 

カール1世やオットー1世はローマ教皇に戴冠されることで、再びカトリックに基づくローマ帝国の復活の役目を負った。実際に彼らとその子孫たちがローマ帝国を復活させることはできなかったが、ローマ教皇による戴冠というイベントは復活されるべき対象としてローマ帝国という単位がヨーロッパでは認識されていたことを示している。

 

しかし、1618年に始まった三十年戦争が非戦闘員の死者数が歴史上初めて戦闘員の戦死者数を上回るという悲劇を生んだため、単一宗教(カトリック)による統一的なヨーロッパの復活は諦めて、主権国家によるヨーロッパの分有へとシフトしたのである。

 

他方で、中国は分裂しても復活する。

 

中国の基本的な領域としての単位は漢の版図によって決定された。三国時代南北朝時代など何度となく中国の王朝は滅亡し分裂の時代を迎えるわけだが、それでも新たな王朝が誕生すればおよそ漢の時代の版図が基準になっている。どんなに分裂しても清のように他民族の王朝になってもおよそ漢の領土を基準に再生するから不思議だ。あれほど広大な領土なのだから複数の国に分かれてもいいはずだし、今日でいうところ主権国家になったのを中華民国以来だとみなしても、それ以前から中国人の中での中国のあるべき姿として漢が基準とされていたといえる。

 

コミュニティの単位は領域によってのみ決まるわけではなく、先に述べたようにエリート対一般市民のように文化や言語といった属性によってもコミュニティの境界線が決定される。

 

コミュニティの範囲は可変的であり、しかし他方でいずれかの時点であるべきコミュニティの単位に関する人々の認識が確立されていく。

 

 

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さて、『これからの「正義」の話をしよう』で一躍時の人となったマイケル・サンデルは政治哲学でいうところの「コミュニタリアニズム」に属する人である。

 

コミュニタリアニズムはその名のとおり自らの属する共同体の価値観から道徳や善の判断は無縁ではありえず、自己は家族や部族、都市、階級、民族、国家といった個人よりも広い共同体の中で発展していくとする。

 

サンデルは何の制約もなく自由に善を取捨選択している主体を「負荷なき自己」として、実際には個人はそのような存在ではなく、共同体に関係づけられた「位置付けられた自己」であるとする。

 

哲学の学界における論争はともかく、われわれの実感からすればコミュニタリアニズムの言っていることは納得感がある。

 

コミュニティの価値観に自己が束縛されているとすれば、コミュニティの範囲はどこまでなのだろうか?要するに自己が属する共同体と他者を分ける境界線はどこに引かれるのだろうか?

 

共同体という以上、一定の境界線が想定されるべきで、もちろん地球上全て=コミュニティという可能性も論理的にはありえるが、そうなってはもはやコミュニタリアニズムではなくコスモポリタンだ。

 

哲学者に言われずともわれわれはコミュニティが重要だということを実感として知っている。特に日本は村八分とか空気を読むといった言葉があるくらいで、共同体の影響力の大きさをとても感じている(閉鎖性や束縛というネガティブな意味も含めて)。

 

コミュニタリアニズムリベラリズムやリバタニアリズムよりも他者との関係を考慮するので、その意味では他者との共存を重視する点では協調的とも言えるが、共同体外の人との関係をどうするかが問題となろう。

 

サンデルは、コミュニティは多層的であり、またコミュニタリアニズムは開かれたものでなければならないと主張することで排他性を回避しようとしているように思えるし、他のコミュニタリアンもリベラルな政治体制自体を否定する区分けではないから、共同体外の人々との共存を主張するだろう。

 

しかし、全ての人々との共存は誰しもが理想とするだろうが、実際の政治となるとそうはいかない。なぜなら資源は有限だからだ。

 

資源が無限なら他者の利得は自分の不利益にはならない。しかし資源が有益で希少なら他者が得ることは自分の損失になりうる。

 

だからこそ誰が同じコミュニティの人々で誰がコミュニティ外の人々なのかが重要な意味を持ってくる。そして自分が脆弱な立場にあればあるほど他のコミュニティの人々への利益配分が苦々しく思えてくるのである。

 

貧すれば鈍するとはよく言ったもので、限られた資源を争うとき、そして自分が脆弱でその資源を獲得できるかどうかが自分の生活に大きな影響を与える場合、コミュニティの境界線が自分にとって有利になることを期待する。

 

普遍的な思想や能力によってコミュニティの境界線が設定されるよりも日本人というそれだけがコミュニティの構成員たる資格要件であるほうがありがたい。ただ日本人であるというだけでその要件は満たされ、優秀であっても外国人であればその時点で弾いてくれるからだ。

 

そんなとき、幅広い人々を包含するようにコミュニティを設定すべきという主張は受け入れられにくい。ましてコスモポリタンな普遍的思想は不人気というものだろう。

 

普遍主義的なコミュニティ資格と脅威を認識している人が理想とするコミュニティ資格との相性はすこぶる悪い。

 

もっともリベラルなコスモポリタンのほうが差別に反対するし、どこの国でもリベラルのほうが社会保障を重視するので弱者保護的であるはずなのだが、その手を差し伸べる先があまりに幅広いと一人一人の分け前が減ってしまうように感じられるため、コスモポリタンは自分たちを味方してくれないと感じてしまうのだ。

 

コミュニタリアニズムにシンパシーを感じると言う小川仁志は、共同体の美徳を体現していないルールはみんなで考え直す必要があるという。ルール自体に問題があり、時代にそぐわなくなっているケースではルールだからと無理に押し付けるのではなく、ルールは外に向かって開かれているべきで、みなで話し合うことでルール自体をも変えることができる寛容さと柔軟さがコミュニタリアニズムからは導き出されるとする。

 

しかし、小川自身がコミュニタリアニズムは閉鎖的なムラ社会やゲイティッド・コミュニティのイメージがあると誤解されると危惧するように、最近はルール、特に憲法自体が時代にそぐわないとか共同体の美徳にそぐわないと主張する人たちが日本らしさを守るべきとか日本的と彼らが主張するところの価値観を道徳の授業などで広めようと気張っている。

 

垂直的な包含性が欠ける意見が幅を利かせ始めているが、それは何より脅威認識を感じ、競争でも勝てないと考えている人が増えているからだ。そういう人にとっては日本人であるという事実それ自体が敬意の資格要件となるようなコミュニティを望み、他者を排除してくれるほうがありがたい。

 

そういった人たちをなんて器の小さいと一蹴することがは簡単だが、それではコスモポリタンへの支持は高まらない。反対に自分の国や国民を第一に考えるという偏狭な政治家のほうが支持を得やすい。

 

同じ国に住んでいてもコスモポリタンナショナリストは互いが同じコミュニティに属しているという仲間意識はないのではないだろうか。ナショナリストへの期待が高まっているのは脅威を感じる人が増えていて、コミュニティに守って欲しいと思っている人が増えているからである。脅威を感じている人にそんな偏狭なことを言うなと叱りつけても無意味だ。リベラルなコスモポリタンは守ってくれないと態度をさらに硬化させてしまうだけだ。

ナショナリストに安心供与をして同じコミュニティに帰属している感を感じてもらうことがコミュニタリアンナショナリストを近づける第一歩であるように思う。

 

今日はこのへんで。

 

参考文献

小川仁志『はじめての政治哲学』講談社現代新書、2010年。

小川仁志『「道徳」を疑え!ー自分の頭で考えるための哲学講義ー』NHK出版、2013年。