猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

成功体験がのちの政策を束縛する

とある経済新聞は5月末に策定される予定の成長戦略が貧弱なものに終わることを懸念しているようだ。

 

その理由は自動走行やドローンといった流行りの施策が「的」として盛りだくさんに盛り込まれているのだが、それを実現するための「矢」が足りないことにある。

 

しかし、こういった批判はこの成長戦略に限られない。新聞各紙は成長戦略が発表されると大概の場合、その社説に「具体性がない」とか「実行力が大事」といった批判や注文をつけてきた。政府が成長戦略を発表して、新聞各紙が批判をするという光景はもはや恒例行事であり、5月に本当に成長戦略が発表されれば再度こういった批判がデジャブのように浴びせられることだろう。

 

そもそもこういった批判が加えられる背景には成長戦略への期待があるように思われる。実際、景気が低迷すれば政府への施策への期待は高まるわけだが、社会民主主義的な新聞紙が政府の役割を強調するのは理解できるにしても、資本主義や自由主義経済を尊重すると考えられる経済紙までが政府の役割に期待するというのは不思議な現象である。

 

海外の成長戦略に詳しいわけではないが、中国といった社会主義共産主義国新興国・途上国が5カ年計画といった中長期的な国家戦略を策定することは多い一方、自由主義経済の旗手である米国が日本でいうところ成長戦略を策定しているという話はあまり聞かない。もちろん米国とて各分野の発展戦略は策定している。しかし、経済紙は中国の5カ年計画は記事として大きく取り上げることを考慮すれば、米国にも国家全体の成長戦略が策定されれば大々的に報じるはずだが、あまりそういった記事は見かけたことがない。一般教書演説は必ず報じられているが、一般教書演説は日本の成長戦略や新興国の5カ年計画とは趣は違うので、おそらく米国には成長戦略はないものと想像される。

 

成長戦略に期待するのは新聞だけではない。そもそも政府自身、成長戦略をつくることに非常に力を入れているように見受けられる。第2次安倍政権の成長戦略である再興戦略や民主党政権下の成長戦略、小泉政権骨太の方針、村山政権下の構造改革のための経済社会計画、宮澤政権下の生活大国5カ年計画やら各政権ごとに名前は違えど成長戦略が立てられているといってよい。

 

しかし、米国ほどではないにせよ、日本も自由主義経済国かつ先進国なのであり、そのため社会主義国新興国のような成長戦略をいまだに策定しているのは不思議である。

 

なぜ、日本ではいまだに成長戦略に期待してしまう「成長戦略神話」があるのか?

 

これは過去に成長戦略によって成功したという「成功体験」があるからであり、そのはしりは池田政権の「所得倍増計画」であろう。小学校の日本史以降、所得倍増計画は日本の高度成長を実現させた戦略として必ず登場し、そして必ず覚えなければならない必須単語である。経済学の専門家ならいざしらず、一般の人は所得倍増計画が日本の高度経済を実現させた戦略であると脳みそに刷り込まれている。少なくとも学校の授業ではそう習うから。

 

1960年代は、日本が第2次大戦で負けてからわずか20年程度の時代であり、あれほどまでに壊滅的な被害を受けながらも20年程度で先進国の仲間入りをしたのは強烈な成功体験であり、高度成長期に先立って策定された所得倍増計画がそれをもたらしたという鮮烈な記憶が刻み込まれたといえる。こうした所得倍増計画によって高度成長を成し遂げたという成功体験が成長戦略に対する根強い期待を生み出していると考えられるだろう。所得を倍増させると宣言して、実際に所得が倍増した時期と重なっているのだから、そうした記憶が形成されるのはむしろ当然であろう。

 

だが、実際に所得倍増計画がどの程度因果的に日本の経済成長を実現させたかはよくわからない。日本の高度成長を牽引した鉄鋼業や自動車産業などは所得倍増計画やそれに関連した産業政策がなければ成長しなかったかといえば、当時は中国や韓国といった日本のライバルになるような新興国は存在しなかったから、優遇税制や補助金がなんらかの影響を与えたにせよ、政府の政策がなかったとしても十分成長したと考えることもできるだろう。

 

仮に所得倍増計画は日本の経済成長に貢献したとしても、その後の成長戦略は経済成長の目標数値を下げてきているにもかかわらず、その低い目標すら達成できていない。その意味で成長戦略はもはや賞味期限切れの政策といえる。しかし、それにもかかわらず成長戦略に依存するのは所得倍増計画という輝かしい先例が存在するからであり、一度大きな成功があるとその後の方向転換が難しいというのは何も政府に限らず、多くの企業にも当てはまることであろう。

 

組織文化を研究したエドガー・シャインによると、組織の学習には2種類、すなわち「積極的問題解決」に起因する学習効果と「苦痛と不安の軽減」に起因する学習効果があるとされる。

 

前者の積極的問題解決学習は、組織が直面する課題の解決につながった解決案が、その後も問題に直面するたびに思い出され、使用される可能性が高くなるというものである。「効き目をもっている」ことが発見されれば、次に同一の問題が起こった場合に再度繰り返し使用される。

 

その解決法がのちに発生した問題の解決につながらなければ、効果がなくなったとして放棄されるはずである。しかし、現実にはそうなるとは限らない。一時的にしか効果をもたなかった解決策が、その後も長期にわたって維持されることがある。シャインによると、、、

 

「もし何かが一時的に効果をあげる、しかし、どんな偶然的要素が成功、失敗を決定したのかが正確に突きとめられない、といった場合、その何かは、完全に効果がなくなってしまった後も、始終効果のあったものに比べ、はるか長期にわたり試み続けられるであろう。過去の歴史が示唆しているが、すでに効果がなくなっているにせよ、再び効力を示すかもしれないし、集団メンバーは、その解決がかつて、一時効力を失った後、もう一度効力を示したことがあった事実を思い出す」

 

 

成長戦略は所得倍増計画以後、大した成果をあげてはいないが、小泉政権下の骨太の方針は注目を浴び、実際に経済成長をもたらしたかどうかはともかく、政権の支持率浮揚には寄与した。

 

こうした所得倍増計画の輝かしい成功や骨太の方針が関心を集めたことがあるため、経済成長に寄与しなくともいつか効果を発揮するかもしれない政策として、政権が変わるたびに再生産されるのだろう。

 

さらにいえば、民主党政権の成長戦略以降、政権と成長戦略の名前が変わってもその中身には大きな変化はないように思われる。最近の「一億総活躍社会」だって、民主党政権の「日本再生戦略」の「共創の国」と何が違うのか。共創の国では、「すべての人に「居場所」と「出番」があり、全員参加、生涯現役で、各々が「新しい公共」の担い手となる社会である。そして、分厚い中間層が復活した社会である。そこでは、一人ひとりが、生きていく上で必要な生活基盤が持続的に保障される中で、活力あふれる日常生活を送ることができる」とされ、この文章から一億総活躍社会を連想しても、それを誤りと批判することはできない。

 

国が成長戦略を策定するという政策はもう賞味期限が切れていると思われるし、大した成果も上げてきたわけではないのだが、それでも成長戦略が再生産されるのは所得倍増計画という圧倒的な成功例が存在し、その記憶が現在の政治に依然として大きな影響力を与えているのである。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

  • 鈴木明彦「総点検:民主党の政策 成長戦略は必要なのか—成長戦略が経済成長率を高めるという幻想—」『季刊 政策・経営研究』2013年1。
  • H.シャイン(清水紀彦・浜田幸雄訳)『組織文化とリーダーシップ(初版)』ダイヤモンド社、1989年。

 

国際合意の束縛的効果と危機に瀕する日韓慰安婦合意

なぜ政府は他国と合意を結ぶのか。

 

その理由は多岐にわたろうが、理由の1つがのちの政権の意思決定の拘束にある。

 

ある政治指導者が自身の望む政策をのちの世代まで残したいとしよう。政権交代の際に次の政権に残すよう頼むことも可能だが、次の政権がその約束を反故にするかもしれない。少しでも反故にする可能性を下げるには、約束の反故に伴うコストを引き上げることが必要である。

 

その1つの手段が法制化やルール化である。

 

一度法律として成立してしまえば口約束に比べるとはるかにそれを変えることが困難となる。法制化やルール化の外交バージョンが条約や条約にその他多様な国際合意である。

 

前の政権が勝手に締結した合意だからといって、次の政権が簡単にその約束を反故にすると、その政権や国に対する国際的な信用を失ってしまいかねない。そのため、次の政権がその約束に不満をもっていたとしても、国際的な信用を維持するために約束を守らざるをえなくなる。

 

前の政権としてはそれを狙って自身の信条に沿った国際的な合意を締結するのである。

 

次の政権としては前政権が締結した合意を前提に対外政策を運営しなければならないという経路依存性効果に直面するわけである。

 

とはいえ、前政権の合意が反故にされることは当然ありうるし、過去の国際政治においても多々発生してきた。

 

そして、今まさに反故にされようとしている国際合意が存在する。

 

すなわち、昨年12月に締結された慰安婦に関する日韓合意である。

 

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慰安婦支援に日本が10億円を拠出する財団の設立や、日本大使館の前に設置された少女像の撤去問題は韓国の総選挙後に持ち越されていたが、4月13日に行われた韓国総選挙で朴政権の与党セヌリ党が野党「共に民主党民主党)」に大敗してしまったことにより、今後の見通しが不透明になっている。

 

民主党は日韓合意に反対する元慰安婦を陣営の顧問に就けるなど、同党は日韓合意の無効や再協議を求める可能性が否定できない。

 

冒頭で述べたように国際合意を反故にすることは国際的な信用を失うリスクを伴うのであり、同党の中にも再協議に否定的な向きはあるようであるが、予断は許さない。

 

せっかく改善を見せはじめた日韓関係がこれで再び歴史認識問題をめぐって悪化するのは残念である。

 

もっとも歴史認識問題をめぐって前の政権の考えをくつがえしたいと考えるのは韓国ばかりではなく、日本も同様である。

 

昨年は第2次大戦終戦後70年の節目の年であったが、戦後50年の「村山談話」や戦後60年の「小泉談話」のように「植民地支配と侵略」と「痛切な反省と心からのおわび」という文言を踏襲するかどうかをめぐって、しばらく安倍首相は態度を明確にしなかった。というか、村山元首相の個人的な歴史観に日本がいつまでも縛られる必要はないと述べるなど、否定的な態度をとっていた。

 

最終的には「全体として引き継ぐ」となったように村山談話を踏襲したといえるわけだが、村山談話から20年という短くない年月が経過したせいか、合意(談話なので他国との合意とはいえないが、自主的な約束を宣言したと捉えることはできるだろう)の拘束力はだいぶ低下しているように思われる。

 

日本も韓国も(そして中国も)、こと歴史問題になると合意の拘束力が弱まるように思われる。それは日韓両国に合意を快く思わない層が一定程度存在するのであり、彼らからの支持が見込まれる以上、合意をやぶるインセンティブが政治家にあるからであろう。

 

どの国でも右寄りな層は存在するわけで、特に昨今の歴史認識問題をめぐっては、日本では日本の侵略性や慰安婦南京大虐殺を否定する意見が、韓国では日本の侵略・植民地統治や第2次大戦時の行いを批判する論調がかなりの支持を得やすい。そのため、本当の右派のみならず、選挙や支持目当てに右寄りな言動をする政治家が現れることになる。

 

そのため誰が本当の右派なのかどうかはわからなくなってしまうわけだが、われこそが本当の右派であることを証明するために、日本であれば靖国神社に8月15日に参拝したり、日本の植民地統治や第2時大戦時の行いを否定するような言動をし、韓国であれば日韓慰安婦合意を否定するような言動をするインセンティブを政治家が持つようになるのである。

 

しかし、みなが靖国神社に参拝したり日韓慰安婦合意を否定したりすると自身と他の政治家との差別化ができなくなるため、より過激な言動に走る者も現れる。すべては選挙での支持獲得のために、誰が本当の右派かわからない中で自身が「本当の右派ですよ!」をアピールしようとする行為なのである。

 

村山談話については、踏襲されるかどうかの危機に瀕しながらも、それでもなお踏襲されたのは合意の拘束力ゆえであろうから、その意味では冒頭で述べたように、のちの政権が自身の信条に即した約束を反故にするような意思決定をさせないようにするために国際的な合意を締結するというロジックは機能しているといえる。それでもその効果は万全ではない(し、国民の利益にそぐわない約束であればむしろ変えられなければ困ってしまうから、のちの政権の意思決定が拘束されすぎるのも問題である)。

 

しかし、慰安婦の日韓合意は日韓関係改善の第一歩になる合意である。日韓合意が反故にされて、再び謝罪した、いやしていない、もっと謝れといった不毛な対立によって日韓関係が悪化するのは避けてほしいと思う。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

Michael Barnett and Raymond Duvall, eds., Power in Global Governance, Cambridge University Press, 2005.

 

たとえ話の誤謬と認識の政治

ベンサム功利主義、特に最大多数の最大幸福という概念はほぼ全ての哲学の教科書に載っている。

そして、しばしば彼の功利主義を説明(批判)する際に次のようなたとえ話がなされる。

 

すなわち、一人の生贄を犠牲にすることで、他の多くの人々が救われるのであれば、あなたはそれに賛同するか、と。もしくは、ボートが漂流し、一人を殺してその人肉を食べると他の乗員全てが救われるのであれば、その殺人は許されるのか、と。

 

このたとえ話を聞かされればたいていの人が倫理的な葛藤に悩みつつ、このような冷たい判断を要求する最大多数の最大幸福という考えに否定的な印象を持つ。

 

では、次のようなたとえ話ならどうだろうか?

 

大資産家の財産を処分して、それを人々に広く配分する(大資産家は正当なビジネスで一財産をなしたとする)。

 

大資産家の例も最大多数の最大幸福の例である。

 

アンケートをとって確かめたわけではないが、このたとえ話なら最大多数の最大幸福という考えに賛同する人が増えるのではないだろうか?

 

米国の大統領選挙で、富者への課税強化を掲げる社会主義バーニー・サンダース氏が善戦していることを見るに、思わずそう考えてしまう。

善戦としているとはいえ、彼が民主党の指名を得ることがほぼないといえるが、彼の社会主義思想を広めることには成功し、少なからずヒラリー・クリントン氏の選挙公約にも影響を与えているように思われる。

 

数の上では富裕者<非富裕者であり、その意味で彼の主張は最大多数の最大幸福的である。

 

人肉や殺人の例だと冷たい印象を与える最大多数の最大幸福の話が、大資産家の話だと途端に社会保障的な印象となる。

 

生贄のたとえ話とともに最大多数の最大幸福論にあなたは賛成ですかって言われたら多くの人は反対するけれど、最大多数の最大幸福という名前を出さずに、大資産家の資産を非富裕層に配分するというアイデアとともにあなたはこの案に賛成しますかって言われたら、多くの人は賛同するだろう。

 

生贄のたとえのときは美しい少女の写真を、大資産家のたとえのときは肥え太った脂ぎった中年男性の写真を見せれば、大資産家の資産配分案への賛同者はさらに増える違いない。

 

もともと最大多数の最大幸福論を提示したベンサムとて生贄の話のような極端な事例を想定していたわけではないだろう。むしろ、少数の貴族によって多数の被支配者が抑圧されていることに対する異議なのであって、その意味で功利主義者という印象とは裏腹にベンサムとサンダースのほうが話が合うのかもしれない。

 

この例は理論を正しく説明するのが難しいという問題と同時に政治が認識やイメージによって左右されることを示している。

 

環境保護自由貿易をめぐる政治を考えてみよう。

 

環境保護を訴えたい政治的起業家(リーダー)がいるとする。環境保護を利益の観点からPRすることは難しい。というのは、漠然と環境が悪化すると困るとは思うかもしれないが、環境保護のために利便性が失われるのであれば、個人的な利得という観点からは環境保護への支持は得にくい。

 

人々の利益関心に訴えるのが難しいとすれば、その政治的起業家はどうするか?

 

答えはイメージに訴える、である。伐採される森林や崩れ落ちる氷河、大気汚染や水質汚濁によって傷つく動植物の映像を流せば、人々の直感に訴え、環境保護への支持も得やすくなる。

 

他方、イメージ化が難しければたとえ全体の利益になる政策であっても世論の支持を得られない。

 

自由貿易政策(WTOTPPを含む自由貿易協定(FTA)を通じた貿易の自由化)はまさにそれであろう。実際に自由貿易による恩恵を計算することは難しいが、ここは教科書通り自由貿易によって国全体の厚生は増加すると仮定しよう。

 

TPPをめぐる日米での議論を見るように、自由貿易政策は必ずしも世論の支持を得られるとは限らない。いくつか原因はあるだろうが、イメージ化が難しいことがその一因であるように思われる。

 

TPPの利益をイメージ化するとどうなるか?需要曲線と供給曲線をひいたグラフや数式がすぐに思いつくが、そのグラフをもって人々の直感に訴えることができるだろうか、と問われれば、それはかなり難しいような気がするのである(少なくともわたしは算数や数学が苦手だったこともありむしろ拒否反応さえ起きてしまう)。

 

他方、自由貿易によって農家が苦しむと言われたらどうなるだろうか。優しそうなおじいさんやおばあさんの顔とともに、この人たちが苦しむことになるんです、と言われたらどうだろうか。自由貿易で利益を得るのは大企業であり、大企業は環境規制や労働規制が甘い途上国で公害や児童労働を引き起こすと言われたらどうだろうか(それももくもくと煙をあげる工場ややせ細った子どもの映像とともに言われたら)。

 

これは自由貿易支持派には不利である。

 

いかにして人々の直感に働きかけるか。それが政策の不支持を分ける大きなメルクマールなのである。

 

いかがでしょう?

 

 

参考文献

愚かな指導者にどうやって引導を渡すか—頑迷な現状維持派にはあえてアメを与えよ—

アセモグルとロビンソンによれば国家の経済発展をもたらす最たる要因は政治的・経済的制度であるという。

 

より具体的には自由民主主義のような包括的な政治制度と自由主義的な経済的制度を有する国家は発展し、対象的に権威主義的な収奪的政治制度や奴隷制や中央司令型計画経済といった収奪的な経済制度のもとでは、国家は発展できないとする。

 

したがって、国家が発展するには収奪的な制度から包括的な制度へと移行しなければならないが、これがそう簡単にはいかない。なぜなら、制度が異なるということは、国家が発展するかどうか、そしてその発展の果実をどう分配するか、誰が権力を握るかといったもろもろの要素で異なる帰結を生むためである。その結果、既存の既得権益層が権力を失う可能性があるため、既得権益層は仮にそれが国に発展をもたらすものだとしても、新たな制度の導入を拒むのである。

 

では、既得権益層が反対する中でどうやって包括的な制度を導入すればいいのか。

 

制度の変革は容易ではないとしながらも、アセモグルとロビンソンは以下の条件を挙げる。

 

まず、第一に、ある程度集権化された秩序が存在し、既存の体制に挑戦する社会運動が無法状態に陥らないこと。第二に、伝統的政治制度の中でも多元主義がわずかでも導入されていること、が制度変革に必要な条件として挙げられている。

 

しかし、包括的制度を信奉する制度変革側が圧倒的なパワーを持っていて、収奪的制度支持派の抵抗を乗り越えることができるのであれば苦労はないが、実際はそのパワーが伯仲しているか、多くの場合は収奪的制度支持派のほうがパワーを持っている(なぜなら収奪的制度支持派が現在の政府を担っているため)。

 

また、仮に包括的制度を支持する現状変革派のほうがパワーが大きくても、制度変革に大きな抵抗が予想される場合、多大な犠牲を払わなくてはならないかもしれない。

 

そのため、可能な限り制度変革は穏便に進めたいわけだが、それにはどうすればいいのか。

 

その一つのカギが「安心供与」である。安心供与とは、現状変革によって権力や利益を失うことを怯える相手に対して、一定の権力や利益の保全を約束することで現状変革に同意させることを指す。

 

包括的制度によって国全体や国民の厚生が増大することが明確であれば、その制度を採用するほうが合理的である。それでも、そうした制度が採用されないのは、収奪的制度の現状で恩恵を享受している既得権益層は新たな制度のもとでは利益が失われることを怯えるからにほかならない。

 

包括的制度を信奉する現状変革派のほうが圧倒的なパワーを持っているのであれば、抵抗を気にする必要はない。現状変革に同意しないのであれば、力づくで屈服させればいいだけの話だからである。

 

しかし、それができないのであれば、相手に一定の利益や権力を提供することで相手の懸念を払拭させ、現状変革へ同意させることができる。

 

もちろん現実はこれほど単純にことは進まないだろうし、頑迷な収奪的制度支持派に利益や権力を供与するなんて、心理的にも納得しがたいところがある。

 

しかし、包括的制度を導入するという大目標を可能な限り低いコストで成し遂げようとするのであれば、現状維持派には穏便に表舞台から退いてもらう必要がある。そのときに、積年の恨みとばかりに収奪的制度派を処罰したり虐待するようなことが予想されるのであれば、彼らは必死に抵抗するだろう。

 

収奪的制度支持派は現状から恩恵を受けているから現状を支持するのはもちろんであるが、それ以上に現状が変革されるとそれによって多大な不利益を被る(場合によって命も取られる)という怯えがあるからこそ現状変革に踏み出せないという側面がある。

 

包括的制度支持者がいかに収奪的制度を支持する現状維持派に安心を供与できるか、それが制度変革をスムーズに進める政治的な知恵であるように思う。

 

参考文献

ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』早川書房、2013年

S.P.ハンチントン(坪郷實・中道寿一・藪野祐三訳)『第三の波—20世紀後半の民主化—』三嶺書房、1995年

なぜわれわれは不満なのか—歴史認識を考える—

第2次世界大戦の敗戦後、米国を中心とする連合国によって日本の政治指導者の戦争犯罪が処罰された。確かにそれは罪刑法定主義に反するなど、法的には多くの問題を抱えた裁判ではあったが、それでも、サンフランシスコ平和条約で日本への賠償を役務に限るとしたことなど、日本に対する責任追及は、少なくとも第1次世界大戦時のドイツに比較するとずいぶんと寛大な処置であった。

 

なぜこのような寛大な処置になったのかといえば、そもそも当時の日本に金がまったくなく損害賠償を支払う能力がなかったこともあるが、それは以上に第1次世界大戦後にドイツに課した損害賠償額があまりに巨額で、かえってそれがドイツを追い詰め、ナチスの台頭を許し、ひいては第2次世界大戦の一因になってしまったという反省が連合国側にあったからに他ならない。

 

吉田茂首相など当時の日本の指導者が、役務による賠償方式は日本の販路開拓にもつながるのであり、賠償とはいえ日本が再び経済的に発展するための必要経費だと述べていたことは、連合国の処置が寛大だったとの認識が当時の日本政府にあったことを意味している。

 

では、今のわれわれは連合国の処置が寛大であったと深く感謝しているか、と言われれば、否、と答えざるをえない。自主憲法論や戦後の謝罪疲れ、従軍慰安婦南京大虐殺等をめぐる歴史認識問題などを見ると、むしろ米国が主導して築いた国際的な戦後秩序に対して今の日本では反感のほうが強いのではないか。いや、多くのサイレントマジョリティは戦後秩序には満足していて(私も満足組である)、表に出てくる声だけを拾うと、戦後秩序への反発は強くなっているように感じられる。

 

連合国、というか米国が寛大な処置になるよう奔走したにもかかわらず、結局日本は連合国の処置に感謝することはなかった。第1次世界大戦後のドイツを反省に日本を追い詰めないように寛大な処置にしたというのは論理的にはもっともで、そして確かに日本が再び戦争をせず、そして今後も少なくとも日本から戦争を仕掛ける可能性が限りなく低いことを踏まえると、経験的にもその処置の正しさは証明されていると言ってよい。

 

日本が再び戦争をしない、という東アジアの国際秩序の安定という目的は達成できたが、それでも戦後秩序への日本の支持を獲得するまでには至らなかった。少なくとも日本が第2次世界大戦時に戦争相手国に与えた損害に比べればはるかに甘いともいえる処罰であったにもかかわらず、日本の中で不満が高いことが歴史認識の問題の難しさを示しているといえる。

 

では、なぜわれわれは不満なのか。

 

その原因を探る一助になるのが、これまでのブログの記事でも何度か紹介した心理学のプロスペクト理論である。

 

プロスペクト理論では何を獲得したか(利得を得たか)、何を失ったか(損失が発生したか)の判断は、「参照基準点」によって決まるとされる。参照基準点を基準にして、そこから新たな利益を得れば「利得」を得たと認識され、反対に何かを失えば「損失」が発生したと認識されることとなる。

 

しかし、この参照基準点は客観的な基準に基づいて定まるのではなく、本人の認識によって決まる点が厄介である。特にプロスペクト理論では、人は利得を得たときはすぐにそれを当たり前の状況(参照基準点)と認識する一方で、失ったときでもすぐにその状態を受け入れない(参照基準点にしない)とされる。

 

このように、人は何かを得ると最初は満足したり、感謝したりするかもしれないが、すぐにそれは当たり前の現状と認識され、満足感や感謝の念は忘れられてしまう。

 

日本は米国の主導する戦後秩序の恩恵を最も享受した国の1つだろう。ドイツのように東西に分裂させられることはなかった。日本の戦争責任を追及する声の中には昭和天皇戦争犯罪を問うたり、日本が再び戦争ができないよう経済的にも低発展状態にとどめておくべきといった、より苛烈な処罰を求める声も多かった。それは米国国内もそうだし、豪州や東南アジアなど戦争や日本の統治によって大きな被害を受けた国々ではとても反日感情が強かったのである。それを超大国である米国がとりなして寛大な処罰へと落ち着いたのであった。

 

米国によって導入された民主主義や資本主義は間違いなく日本の発展に寄与した。国際的な通商レジームなど米国が提供する国際公共財の利益を日本は享受した。客観的に見れば、日本は米国や連合国、そして彼らが提供する国際秩序にもっと満足感を感じても不思議ではない。

 

しかし、心理学的には利得はすぐに当たり前のものと認識され、感謝や満足の念はあっという間に霧散してしまう。

 

さらに現在では戦後秩序と今日の日本の低迷が因果的に結びつけられて認識されるようになってきているように思われる。資本主義や自由主義によって日本に伝統的に存在していた道徳観や共同体が破壊されてしまったとか、自虐史観を植え付けられて自信を喪失してしまったとか、押し付けられた憲法を改正すべきとか。あたかも戦後に米国から導入された価値観や制度がなくなれば、再び本来あるべき日本が復活する、と言わんばかりである。

 

日本は戦後秩序から恩恵を受けているのだから、本来であればもっと戦後秩序に満足し、そして感謝してしかるべきであるが、心理学的にわれわれは戦後秩序の恩恵は当たり前の現状と認識する一方で、現在発生している諸課題(特に道徳や共同体といった価値や理念に関する要素で一層)は戦後秩序によって引き起こされていると因果的に結びつけられることで、戦後秩序とそれをもたらした米国の政策にむしろ反発を強める結果となっている。これは米国の政策決定者も想像していなかったことであろう。さらにいえば、第2次世界大戦の歴史認識をめぐる問題や対立が、戦争終結から70年を経ても残存していることは想像できなかったであろう。

 

では、米国や連合国はどうすべきだったのか。恐らく、あれ以上にバランスのとれた処罰方法はなかったであろう。

 

米国の中にも日本を自陣に入れる観点から、日本の処罰に反対する意見もあったらしい。しかし、あれほどの被害を引き起こした日本の責任を全く問わないということは政治的にほぼ不可能だっただろう。

 

戦争を引き起こした国を秩序の安定という観点から不処罰にした事例は世界には存在した。その代表例がナポレオン戦争後のフランスである。フランス革命を「輸出」しようとして欧州全体を巻き込む戦争を引き起こしたフランスに対して、当時の大国であるオーストリアや英国はフランスを処罰するのではなく、欧州の秩序の担い手の一員として招き入れることを選択した。当時は戦争は違法ではなかったので、そもそも法的、倫理的に戦争の責任を問うという発想があまりなかったこともあろうが、それ以上に欧州の秩序を安定させるためにはフランスという大国が再び秩序の支持者になり、秩序の構成メンバーになってくれる必要があったからである。

 

しかし、秩序の安定を優先して日本を不処罰にするという選択肢を連合国が選択することは不可能であったろう。その最たる要因が、民主主義の普及である。ナポレオン戦争終結時の19世紀初頭には世界に民主主義国は存在しなかった。政治や外交はエリートが担ったのであり、そのため、大衆の声を無視して合理的判断に基づいて外交を遂行することは可能であった。

 

だが、第2時世界大戦時は違った。米国をはじめ主要な連合国は民主主義国であったから大衆の処罰感情を無視することはできなかった。そもそも武力紛争自体が違法化されつつある時代であり、第2時世界大戦自体、反全体主義の戦争として善と悪の戦いと認識されていたから、悪事を働いた国を全く処罰しないということは政治的に不可能だっただろう。むしろことの成り行きを見れば、より厳しい処罰が日本に課せられた可能性は十分あったのであり、処罰はするものの寛大な処罰にとどめる、というのが最もバランスがとれた恐らく唯一の方法だったに違いない。

 

米国の築いた戦後秩序は日本にとって有益なレジームである。われわれとしては不満もあるが、客観的に見れば、より苛烈な処罰の可能性もあり得たことを踏まえ、戦後秩序の利点により目を向けるべきであろう。どんなに不満があっても戦後秩序から抜け出すことが日本にとってプラスになるとはとうてい思えないのである。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

大沼保昭『「歴史認識」とは何か』中公新書、2015年。

 

イレデンティズムを持った覇権挑戦国、中国 —危険な覇権挑戦国、されど日本も自制すべき理由—

ジョージ・モデルスキーによると、歴史上覇権国は4カ国存在する。

 

すなわち、16世紀のポルトガル、17世紀のオランダ、18世紀から19世紀のイギリス、20世紀の米国である。米国の覇権は今日まで続いているわけだが、米国の覇権に取って代わろうとしているのが、中国である。

 

日本からすれば、中国が覇権国になることを危惧する理由は山ほどある。歴史問題や尖閣諸島をめぐる対立がありそもそも日中関係が悪いのだが、何より中国が第2次大戦後に国際社会が培ってきた自由、民主主義、人権といった価値や理念を共有していないことが大きな問題である。

 

前覇権国のイギリスや現覇権国の米国はこれらの価値や理念に基づいた国際秩序を構築してきたのであり、たしかに自由主義や民主主義も多くの問題を抱えているわけだが、既存の政治体制や理念の中で自由主義や民主主義に勝るもはない。

 

実際のところ、中国は自由貿易体制や資本主義の事実上の導入によって経済発展を成し遂げたわけで、その意味では一定程度は現在の国際的な価値や理念を共有しているともいえるのだが、こと自由主義や民主主義、人権といった西洋的な価値観に対する警戒感は根強い。

 

中国の習近平政権の国際情勢の認識を見ると、2014年の第14回党中央政治局集団学習会で、中国が直面する脅威が増大していると彼は懸念を表明しているわけだが、特にその中で彼が懸念しているのが米国のアジア回帰(リバランス)である。

 

米国からの圧力がなぜ問題かといえば、軍事面よりもむしろ、自由主義や民主主義、人権といった理念が中国に流入することで、社会主義イデオロギーが侵食され、共産党体制の安定という政治安全保障が侵されるからである。こうした理念や価値観の流入によって内部から共産党の政治体制が崩されることが問題なのである。

 

このように中国は現在の国際秩序を構成する価値や理念を共有しているどころか警戒感さえ抱いている。それゆえに中国が覇権国になったとき、国際秩序がどのようになるのか、不透明感があまりに大きい。

 

中国の覇権国化を懸念する材料は枚挙にいとまがないわけだが、ここでは価値観や理念のほかに、中国が過去の覇権国にない特異性について考えたい。

 

 

それは、中国が覇権国を経験した過去の栄光をひきずった国であるということである。

 

 

中華思想がどこまで現在の中国を突き動かしているかは定かではないものの、習近平政権は「中国民族の偉大な復興」という「中国の夢」をスローガンに掲げている。

 

以前のブログにも書いたが、このあるべき姿の実現という発想はとても危険である。

 

中国以外の過去の覇権国は、みな覇権を経験したことはなく、国力の増大に伴い覇権国の地位を占め、そして覇権国から降りた後は1度も覇権国に返り咲いたことはない。

 

しかし、中国は異なる。数世紀の前のこととはいえ、中国は東アジアの覇権国であり、世界有数の超大国であった。それが、アヘン戦争以来、日本を含む列強の事実上の植民地化に晒されることになった。中国にとって列強の浸蝕を受けたことは「国辱」であり、習近平政権が掲げる「中国の夢」とは、すなわち屈辱の記憶を乗り越え、19世紀以来の失地回復を実現することにほかならない。

 

現在の中国では中国が欧州の列強とは異なり平和的な海外進出をしてきたことを示す象徴として明時代の航海者「鄭和」が参照されているようである。

鄭和アラビア半島や東アフリカまで航海した人物であるが、鄭和が参照されること自体、中国が明時代や清時代の栄光を自信の拠り所にしていることがうかがわれる。

 

1月16日のブログ記事にも書いたとおり、行動の基準の参照となる現状、すなわち参照基準点をいつに設定しているかを判断することが国の政策を分析する上でとても重要である。

 

何を獲得して、何を失うのか(もしくは失ったものを回復するのか)というのは「現状」との比較によってはじめて可能になるわけだが、その現状を決めるのが参照基準点であり、参照基準点をもとにある事実が当該国家にとって現状変革なのかそれとも現状維持なのかが決定されることになる。

 

そしてその参照基準点=現状は必ずしも客観的に設定されるわけではなくて、アクターの認識によって決まる。したがって、今日のこの日を参照基準点と認識するアクターもいれば、未来に到達しているであろう理想の状態を参照基準点と捉えるアクターもいれば、過去の輝かしい時代の状態を参照基準点と捉えるアクターも存在する。

 

そして問題なのが、人間というのは現状からのマイナス状態、すなわち損失局面にいることに耐えられず、損失を回避するためなら多少のリスクは甘受するということである。

 

中国とて、鄭和が訪れた地域すべての領有権を主張したり、影響下に置こうという意図はないと思われるが、それでも中国が過去の栄光の時代を参照基準点=現状に設定しているとすると、周辺国から見れば、尖閣諸島スプラトリー諸島の領有権を主張したり、海軍力を強化したり、一帯一路政策を掲げたり、アジアインフラ投資銀行(AIIB)を立ち上げたりする行動は中国の勢力圏の拡張という「現状変革」行為に映る一方で、中国からすればそれは過去に存在したあるべき現状を回復させる「現状維持」行為に映ってしまう。

 

中国から見れば、現在の中国の行為は不当に収奪された現状を回復させるに過ぎないどちらかといえば防衛的な行動であって、にもかかわらず米国がリバランス政策でアジアに回帰し、中国の行動を阻もうとするのは不当な介入で、むしろ中国は被害者であるという認識を強めることになるのだろう。

 

従来の覇権国のなかで被害者意識を抱えながら覇権国なった国はないのではないだろうか。もちろん覇権国になったあとに覇権国という現状を守るために非合理的な行動をとった例は数多いのだが、被害者意識を持つ覇権国というこれまでにない事態に日本を含め世界はどう対応したらいいのだろうか。

 

 

尖閣諸島スプラトリー諸島に対する不当な中国の領有権には断固として抗議しなければならない。他方で、古典的リアリストの理論に基づけば、(仮にそれが誤認であったとしても)中国が自身を被害者であると認識しているのであれば、抑止を中心とした対中国強硬策は必ずしも効果的とはいえない。

 

抑止は基本的に脅しによって相手の行動を抑制することであって、相手の脅威認識をいたずらに引き上げてしまう可能性がある。

 

国際社会はナチスドイツを食い止めることに失敗した経験に基づき、拡張主義的な国家に対しては「宥和政策」ではなく抑止をもって望むべきという教訓を得た。そのため、現状に挑戦するような無法な国に対して抑制的な態度で接しろ、という意見は非常に受け入れられにくいのだが、一方で国際社会は「1914年」という教訓も得てきた。

 

1914年の教訓とはすなわち、第1次大戦の勃発を食い止められなかったことに対する反省であるが、これは宥和政策で臨むべきであったのに、抑止を選んでしまったため、怯えた国家が暴発して世界大戦を誘発してしまったという教訓である。すなわち、当時のドイツ(プロイセン)に対しては宥和政策で臨むべきだったという説である。プロイセンはロシアとフランスという大国に挟まれており、両国から挟み撃ちされることを警戒していた。普仏戦争によりプロイセンとフランスの関係は悪く、事実、フランスはプロイセン対策のためにロシアと露仏協商を締結していたし、何より当時は戦争が合法であった。

 

当時のプロイセンの味方は落ち目の大国オーストリアハンガリーだけであり、事実上孤立していた。プロイセンは生存に汲々としていたわけだが、当時の皇帝ヴィルヘルム2世の外交感覚のなさによって引き起こされたタンジール事件やアガディール事件などはむしろプロイセンの拡張主義的な行動と諸外国には受け取られた。そのため、プロイセンを囲むように、英仏露の同盟関係が構築され、それがさらにプロイセンを圧迫し、プロイセンの暴発(きっかけはセルビアに対するオーストリアハンガリーの攻撃であったが)を招いたのである。

 

タンジール事件などプロイセンの失敗もあった。諸外国から見れば、そのようなプロイセンを現状変革勢力と捉えても仕方なかった面もあるが、結果論から見れば怯えた国に対しては宥和主義(国際政治学用語で「安心供与(reassurance)」という)も必要なのである。

 

パワー・トランジション論の先駆者オーガンスキーによると、新興の大国が現行の国際秩序を受け入れる条件として、新興大国が現行の国際秩序から恩恵を受けていることを挙げているが、単に現行秩序から恩恵を受けているだけではなく、国力の拡大に見合った権力の付与(たとえば国際的なルール作りの場での発言権や役割の付与)が必要である。

 

現行の秩序は覇権挑戦国を敵視しているのではなく、むしろ積極的に迎え入れようとしているのだ、というシグナルを送ることが重要であろう。権力を共有する権力分掌は安心供与の有効な手段である。

 

その意味で、古典的リアリストの分析に基づけば、米国が国際通貨基金IMF)や世界銀行での中国の投票権拡大に反対してAIIBの設立に走らせたことは、米国(より厳密には米国議会)の失敗だったのは間違いない。

 

相手の中国が聞き耳を持っていないのだから、そんなことをしてもムダだ、と切り捨てる向きもあるだろう。しかし、近代的な主権国家システムという舞台においては日本や米国は中国よりも先輩である。現在の中国の振る舞いを見て、中国に安心供与を提供することは心理的に抵抗はあるものの、そこは近代国際政治の先輩として日本や米国が「大人」の対応を取ることもときには必要なのではないだろうか。

 

いかがでしょう?

 

いつから政治家に本音を求めるようになったのだろう

民主主義を担うのは市民である。その市民は投票にあたり合理的な判断ができるのだろうか。

 

伝統的に政治学はこの問いに対して「否」と答えてきた。

 

ウォーラスが『政治における人間性』で人間は衝動や本能、性向によって駆り立てられる存在で、民主主義が理想とする目的合理的に行動できる市民は存在しないと嘆いたのが1908年である。

 

ウォーラスだけではない。アリストテレスがdemocratiaを貧しい人たちによる数を力にした無秩序で過激な政治であるとして民主主義を否定したのは有名な話である。民主主義を支持し選挙権の拡大にも賛成した19世紀の政治思想家のジョン・スチュアート・ミルでさえも有識者に複数の投票権を与えて大衆の暴走を抑えるべきであると主張した。

 

このように伝統的に大衆は本能や衝動にかられる非合理的な存在であり、政治は知識や徳を持った有識者(エリート)が担うべきとされたのである。

 

これは何も国内政治だけではない。外交も(こそ)同様にエリートが担うべきとされたきた。理想的な外交官とは、自身の価値や信条にとらわれることなく国益を最大化するために最適な政策を選択できる人物である。心では共産主義を嫌っていても国益のためなら中華人民共和国と組むことも厭わなかったキッシンジャーなような外交官こそが理想である。キッシンジャーがすごいのは本音では共産主義を嫌っておきながら、国益を最大化させるという目的を達成するうえで合理的な選択を行ったことにあり、彼のように本音と政策を区別できることがまさにエリートの政治家や外交官に期待されるところであった。外交官はナショナリズムといったイズムに左右されるようなことはあってはならないのである。

 

こうしたイズム嫌いは伝統的なリアリストと呼ばれる人に強く、キッシンジャー自身、エリートによる外交が行われていたウィーン体制の信奉者であったし、国際政治学者のモーゲンソーや高坂正堯、イギリスの外交官であったハロルド・ニコルソンらもエリートによる理性的な外交を望んでいた。彼らからすれば大衆の衝動を外交に反映にさせかねないナショナリズムは理性的な外交を脅かす危険な存在でしかなかった。

 

このように政治や外交は衝動的で非合理的な大衆は参加すべきではないか、少なくとも参加は制限されるべき存在だったのであり、その理由は兎にも角にも大衆は本能や衝動によって左右される非合理的な生き物とされたからである。

 

反対によい政治家やよい外交官とは本音に惑わされない人たちを指す。

 

 

にもかかわらず、3月1日のスーパーチューズデーでまさに本能や衝動によって突き動かされているようにしか見えないドナルド・トランプ氏が大勝利を収め、米国大統領選挙の共和党候補へ大きく前進した。

 

トランプ氏は本音で話してくれるから彼を支持する。それがトランプ氏を支持する人の理由である。

 

エリートによる政治を求める人は、政策と本音を区別できることに重きを置いた。しかし、トランプ氏が支持を得た大きな要因が、本音で話している(ように見える)ことだったのである。

 

トランプ氏を支持するのはエリートというよりは白人労働者といった社会における底辺層に位置する人々である。エリート層は相変わらずトランプ氏に手厳しい。エリートから見れば、トランプ氏は実現不可能な政策で排他主義を煽るデマゴーグにすぎず、米国の大統領に就くべき人物ではない。

 

 

しかし、トランプ氏を支持する有権者は彼が本音をしゃべっていると言うが、彼が「本当のこと」を言っているとは思えない。

 

改めて実現性を検証するまでもなく、メキシコにカネを出させて移民を遮る「万里の長城」を築くのは誰がどう考えても不可能である。中国やメキシコからの輸入品に関税を課すことも難しいだろう。10兆ドルの巨額減税の財源を示すこともできない。

 

実現可能性という観点から見れば、彼は何一つ本当のことは語っていない。

 

それにもかかわらず、多くの有権者がトランプ氏は本音を話すと支持をする。

 

本音とは「本心からの言葉」なので本当のことである必要はないのかもしれないが、本当のことを話していなくても本心からしゃべってくれると支持を得るのは何とも不思議な現象である。

 

しかし、これは既存の政治家が本音をしゃべっていないと有権者の少なくない人数が不満を抱いていることの裏返しである。選挙のときは都合のいいことを言うくせに、当選してしまえば選挙時の公約は反故にされる。

 

その意味では、既存の主流派であるエスタブリッシュメント出身の政治家も結局公約を守らないという点ではトランプ氏と変わらない。そうであれば、せめて実現させる気もない美辞麗句を連ねる既存の政治家よりも実現可能性はともかく、少なからぬ有権者が抱く不満を代弁してくれるトランプ氏のほうがいいのかもしれない。

 

エリートから見れば、本音と建前を使い分ける政治家のほうが「大人」の政治家であり、むしろ政治家に必要な資質でさえもある。

 

これまでもエリートと大衆の間の政治に対する亀裂は存在していたのだろう。しかし、民主主義は立候補した候補者しか選べない。特に選挙に多額の費用を要する米国の選挙に一般人が立候補することはほぼ不可能である。

 

多額の費用がかかることは有象無象の人物の立候補を妨げるという意味で一種のスクリーニングの役割を果たし、政治家の質を一定させる効果もある。しかし、スクリーニングの結果、政治の回路に反映されない声が出てくるのはやむをえず、トランプ氏の登場はこれまでたまりたまった不満を一気に放出させる引き金を引いた。

 

この亀裂をふさぐことはできるのか。

 

クリントン対トランプになって、クリントン氏の勝利は既存のエリート政治家への反乱の鎮圧といえるのか。

 

恐らくそうはならない。クリントン対トランプが事実上のエリート対大衆の代理戦争となった場合、仮にエリートのクリントン氏が勝っても敗者たる大衆はむしろエリートたちにしてやられたと思うだけかもしれない。無理やり力でねじ伏せられたと大衆が感じるようなことがあるとむしろエリートと大衆の亀裂は深くなる。

 

さらに以前にも言ったが、トランプ氏およびサンダース氏は過激な発言をすれば一定の支持を得られる事を示してみせた。従来は過激な発言をするトランプ氏は泡沫候補と当初見られていたことが示すように、本能や衝動に従う候補者は泡沫候補者として認知され、とても支持が得られないとこれまで考えられてきた。それは誤りだ、とトランプ氏とサンダース氏は示した。仮にトランプ氏もサンダース氏も大統領になれなくとも、彼らは既存の前提がもはや有効ではないと、ある種の成功体験を示したのである。

 

エリート対大衆の闘いはまだまだ続くのであり、トランプ氏とサンダース氏の「成功」は今後の変化プロセスの創始となるだろう。

 

いかがでしょう?