猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

で、結局戦後とはなんだったわけ?(3) —西洋的政治思想の中に非西洋性を見出すよりも重要なこと—

現行憲法および今日の日本政治の根幹となる価値観である「自由」や「民主主義」、「人権」などは西洋から輸入された外来思想である。

 

この事実はこれらの価値観に親近感を抱く人であれ嫌う人であれ否定できない。

 

外来思想が流入して、日本はどうなったのか?もしくは、どうなったのか、を考える上でどういった視座があるだろうか?

 

「アカルチュレーション」(文化触変)という言葉がある。

 

異なる文化をもつ集団が、持続的な直接接触を行って、いずれかの一方または両方を集団の元の文化の型に変化を発生させる現象を指す。

 

政治思想と文化は異なるものであるが、非物質的なものが他国から入ってきて受け手の非物質的な要素に影響を与えるという点では共通しており、頭の体操には有益ではないだろうか。

 

外来文化の侵入によって、受け手文化には以下の4つのタイプの結果が発生する。

 

一つは、受け手文化による外来文化の「編入統合」で、外来文化要素を受け手文化に適応させるように再解釈しながら受け入れて、受け手文化が変化する。

 

二つ目は、外来文化による受け手文化の「同化統合」で、外来文化が在来文化要素に置き換わり、在来文化の中心部分まで外来文化に適合するよう変化する。

 

三つ目は、受け手文化と外来文化の「隔離統合」で、同一機能をもつ受け手文化と外来文化が隔離されたかたちで並存する。

 

四つ目は、受け手文化と外来文化の「融合統合」で、在来文化と外来文化を融合させ、第三の新しい文化要素に作り変えて、統合度の高い文化体系が創造される。

 

日本の西洋的政治思想の受容のタイプを見ると、一つめの「編入統合」ないし「同化統合」だろうが、比較的ゆるやかなペースで日本が取捨選択しながら西洋的政治思想を導入してきた明治維新〜戦前が「編入統合」、敗戦により選択肢がない状態で自由民主主義的な国づくりを余儀なくされた戦後は「同化統合」といったところだろう。

 

ただ、文化触変では当然に在来文化支持者からの抵抗が予想される。なぜなら在来文化から利益を得ていたり、在来文化それ自体を愛する人が存在するからだ。特に「同化統合」ではより外来文化が在来文化の奥深くまでの変化を要求することから、在来文化支持者からの抵抗がより強くなる。

 

ただ、抵抗の態度も様々である。

 

外来文化に抵抗する態度としては、「ヘロデ主義」と「ゼロト主義」がある。

ヘロデ主義とは、敵対的文化触変抵抗の態度の一つで、侵入してくる外来文化を部分的に取り入れることで在来文化を守る態度である。

他方、ゼロト主義は侵入してきた異文化を全面的かつ熱狂的に排斥する態度で、在来文化を固守することで、在来文化を守ろうとするものである。

 

メディアでの論調を見ていると、最近の日本はヘロデ主義からゼロト主義へと転換しているように見える。

 

抵抗する相手への説得方法に、自己の在来文化と外来文化との共通性を強調することで、外来文化要素が自己の伝統的文化に含まれていると主張するのであれば、現在の護憲派やリベラルがやっていることがこれに近い。だが、彼らの試みは論理的ではなく、また成功しているようにも見えない。

 

今日の改憲論の一つの根拠が、現行憲法GHQ主導でつくられた「押し付け憲法」であるということである。

 

護憲派であってもこの事実は否定できない。ただ、誰が現行憲法をつくったのか、そしてそれが日本人でない、ということが重要な争点となっていることから、護憲派は現行憲法の「日本製」の部分を探そうとする。

 

護憲派の希望の星が「鈴木安蔵」だ。

 

GHQ占領下、日本人の間でも憲法草案をつくる動きが活発化し、そのうち最も有名なのが鈴木安蔵憲法研究会である。憲法研究会作の憲法草案が現行憲法によく似ていて、それがGHQ憲法草案に大きな影響を与えたとされる。

 

鈴木安蔵のもう1つの功績が、憲法第25条で規定されている「生存権」である。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がある」という生存権憲法案に書き込んだ初めての人が鈴木安蔵とされる。

 

また、憲法第14条の「法の下の平等」に「性別による差別を受けない」という「男女平等」条項を入れたのはベアテ・シロタ・ゴードンという占領軍勤務の若い女性であったことから「ベアテの贈りもの」と呼ばれることについても、日本にはすでに男女同権思想は十分に発達していたので、贈りものというのは言い過ぎだと上野千鶴子は言う。

 

婦人参政権幣原喜重郎内閣がマッカーサーから婦人参政権を含む憲法改正を示唆された1日前に閣議ですでに決定されていたのであって、占領軍がもらしたものではない。1931年にも貴族院が反対したために成立はしなかったが、婦人公民権法案は衆議院では可決されていた。そして、そこまでこぎつけたのは市川房枝を筆頭とする婦人参政権運動であった。このように、現行憲法で規定されている進歩的な思想は、決してGHQの贈りものではなく、日本人がすでに育んできたと彼女は指摘する。

 

しかし、すでにこのブログで何度も繰り返しているが、鈴木安蔵らの存在によって現行憲法の押し付け性を否定するのはやはり難しいと思う(が、私は多くの日本人がその後現行憲法を自らの意思で受け入れているのだから、事後的な承認はあったと思っている)。

 

というのも鈴木安蔵らが好き勝手に憲法草案を考えてそして政府(GHQ)に送付することができたのは、何よりGHQが政治的権力を握っていたからにほかならない。戦前の日本であれば草案を送付することがムリかとても危険を伴う行為だった。

 

それに市井の憲法草案を参考にするかどうかの生殺与奪の権利はGHQが掌握していた。そもそもGHQ憲法作成を主導するのは当初の松本(重治)案があまりに大日本帝國憲法から変わっていなかったからであって、GHQが仮に松本案を受け入れていれば、そもそも鈴木安蔵らの意見が顧みられることはなかった。したがって、鈴木安蔵らの意見が採用されるかどうかは完全にGHQの判断次第であったといえよう。

 

さらに言えば、鈴木安蔵らがいなければ現行憲法は存在しえなかったか、といえばそんなことはないはずだ。鈴木安蔵らがいなくてももともとGHQは自由や民主主義を導入した憲法を作成するつもりだったのであり、自由民主主義国の米国主導で作った憲法自由民主主義に憧れた人たちがつくった憲法案は確率的に似るほうが当然だ。

 

鈴木安蔵らがいなくても現行憲法は誕生し得たが、GHQがいなければ現行憲法は存在し得なかった。政府がつくった松本案の存在がGHQなしに現行憲法が存在し得なかったことを雄弁に物語る。

 

因果関係を間違えてはいけない。鈴木安蔵らの憲法案はGHQの思想と似ていただけである。

 

自由や民主主義を支持するうえでこれらの思想の非西洋性を強調する主張は他にもある。

 

たとえば、山脇はアマルティア・センを引用して、紀元前三世紀のインドのアショカ王アリストテレスのように女性や奴隷を排除せず、前農業期状態の共同体に住む「森人」にも自由の権利を認めたことを強調して、自由の価値を特殊近代ヨーロッパ的とみなす考えを退ける。

 

人権についても、人間の幸福という意味での「福祉」という点で、孟子の「恒産なくして恒心なし」という言葉があったことや、メアリー・カルドーを引用して、14世紀のイブン・ハルドゥーンがグローバルな市民社会を論じていたとする。

 

ただ、どんなに西洋的思想における非西洋性を発見しようとしても、その試みには限界があるように思う。

 

というのも、それはあくまで自由や民主主義といった理念を基準に過去を振り返っているだけで、自由や民主主義という理念が確固たる概念として固まってはじめて可能になるのであり、じゃあ誰がそれらの理念を体系化したの?と問われれば、それは西洋の政治思想家をおいて他にはいないのである。いってみれば特許のようなものであって、同じような考えを持つ人がいても、ちゃんと体系化して公に認められない限り、極論他の考えは存在しないのと同然だ(もっとも以前の米国の特許制度のように先発明主義なら過去を発掘する意義もあるが)。

 

西洋の政治思想家が体系化してくれたから、それらの思想の非西洋性を主張する人たちが過去の思想から共通する要素を発掘できるようになったのである。ある意味早い者勝ちであって、体系化して世に広く知らしめた人こそがオリジナルとなるべきで、仮にそれより先に同じようなことを考えた人がいても、あたかも特許料を支払うかのように、先に体系化した人を引用しなければならない。それがいやなら、その思想を使うのをやめるか、それ以上のオリジナルな概念を発明するしかない。

 

それに、西洋思想における非西洋性を発見したからといって「だから?」という感もある。

 

というのは、たとえば憲法改正論議でいえば、鈴木安蔵が引用されるのは現行憲法を維持するための方便にすぎない。現行憲法GHQの押し付けじゃないんです、だって鈴木安蔵がいたじゃない、だから押し付けじゃないんだから、今の憲法を変える必要はないでしょう?って言うための方便だ。

 

先週のブログで書いたように、これまでの和製リベラルの欠点、すなわち対案を提示せずにただ現状維持を繰り返す訴える、という問題の根本的な解決にはなっていない。実は日本や東洋にも似たような思想はあったんです!って言うことは現状の不満層への応答にはなっていない。

 

和製リベラルは西洋思想の非西洋性の発見以上のことをする必要がある。

 

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。。。。

 

ただ、一方でその難しさもよくわかる。

 

というのは、現行憲法は十分進歩的であるからだ。現実性はないが憲法9条の理念そのものは決して悪くない。もしあくまで「べき論」で世界がどこに向かうべきか、と問われれば、それは当然に戦争(というか武力行使全般)がない世界を目指すべきなのは自明だ。ただ、問題は現代ではその条件が整っていないに過ぎず、理念自体が否定されるべきではない。

 

自由や民主主義、平等、人権といった他の理念だってそうだ。現在の政治体制で民主主義以上の政治体制は存在しないし、自由や平等、人権が保障される社会のほうが素晴らしいに決まっている。

 

理念レベルで現行憲法以上のものをつくるのは難しい。むしろ現行憲法が保障すべき理念が十分に実現していないと考えるのであれば、護憲=進歩である。

 

和製リベラルは隘路にぶち当たっている。

 

現行憲法の理念は十分進歩的だから進歩的であろうとすれば現行憲法支持であってもおかしくない。ただ、現行憲法を維持するというのは現状維持には違いないから、その意味で「保守」でもある。ただ、現状を維持しましょうって主張するだけでは、現状に不満を持っている現状変革派に対してはなんら魅力的な回答にはならない。

 

こうした問題に直面しているのは日本だけではない。米国のトランプ現象や欧州における極右勢力の伸張も同じだ。進歩的な理念を守る行為が「保守」になってしまい、現状変革派への魅力的な回答を提示できていないのである。

 

現状維持派は勇ましさがない。どうしても守勢に回りがちだ。現状があったから今の問題が発生したと現状変革派が主張するなら、現状を維持しようというのは欺瞞にしか映らない。現代の政治思想がある種の理想点に達してしまったからこそ発生したジレンマだといえよう。

 

加えて、日本は欧米よりも難しい状況にある。自由民主主義的な価値観は欧米発の思想だから、思想の出処は大きな問題にはならない。議論は思想そのものの内実をめぐって争える。

 

ただ、日本ではそうとはならない。というのも、自由民主主義的な思想は西洋発であるがゆえに、思想の中身の論争に加えてナショナリスティックな色合いが付いてしまうからだ。すなわち、外来の思想が日本固有の文化や価値を脅かしているという具合に。だから、思想の中身自体よりも思想の出自という表面的な要素の対立に重点が移ってしまう。

 

欧米では自由民主主義思想の文化触変性はそもそも存在しないか、その葛藤はだいぶ小さい。日本では自由民主主義思想に文化触変の要素が付加されてしまうため、より問題が複雑化してしまうのだ。

 

では、どうしたらいいのか。

 

現状維持VS現状変革の部分にだけ的を絞って、少しだけ考えてみる。

 

国際関係論の知見では、現状が維持されるのは、支配的な大国を含む現状に満足してる勢力が現状に不満を抱く勢力の力を圧倒しているときに保たれるというものだが、改憲派護憲派勢力分布を比較すると護憲派の力が改憲派を圧倒しているようには見えない。

 

もう一つは、支配的大国の柔軟性である。支配的大国が挑戦国に対して秩序を受け入れられるような調整をどのくらいするか。

 

現状、護憲派改憲派の不満に答えていない。むしろ、普遍的な思想を足がかりに改憲派を攻撃しているようにしか見えない。

 

これではかえって改憲派の不満を煽るだけだろう。護憲派は対案を出さなければならない。それも現状不満派の不満に答えるように。

 

しかし、それは何であろう?答えはどこにあるのか?そもそも答えはあるのだろうか。。。?理想だけでいえば、「融合統合」を目指して新たな第三の道を考え出すべきなのだろうが、では具体的にそれが何かは難しいなぁ。。。

 

今日はこのへんで。

 

参考文献

上野千鶴子上野千鶴子の選憲論』集英社、2014年

山脇直司『社会思想史を学ぶ』筑摩書房、2009年

平野健一郎『国際文化論』東京大学出版会、2000年

田中明彦「パワー・トランジッションと国際政治の変容—中国対等の影響—」『国際問題』No.604、2011年