美女にアクセスしやすくなった、男も、女も
港区女子を特集したテレビ番組を見た
5月3日にNHK総合で放送された「「図解デ理解 アイマイカイワイ」港区女子の生態を探ってみた」の「港区女子」特集を観た。
そして思ったのは、一見、現代の特権階級に見える「港区会」は、歴史的に見れば、美女の大衆化(美女をものにできる男性の増加と美人な日本人女性の増加)によって成立したマーケットなんじゃないかってこと。
番組の紹介はこちら。
最先端のトレンドが発信され、高所得者が集まるキラキラとした街、東京都港区。この地に生息し、ここ数年、雑誌やSNSでよく目にする謎の人種「港区女子」。いったいどんな人たちなのか…住んでいる場所は?活動内容は?目的は?どんな服を着ているの?相手の男たちはどんな人?いつまで続けるの?番組では自称他称問わず港区女子だという人物に会いまくり、“図解で理解”を試みる。
出演者は、千葉雄大さん,宇垣美里さん,長井短さん,燃え殻さん。明確に港区女子をダメとは言わないが、みな、男は年収と職業、女は美貌と若さでランク付けされるカースト社会にネガティブな反応だったと思う。未確認だが、きっとネット民たちも港区女子ディスりで盛り上がっていたことだろう。ディスる直接の対象は港区女子でも、港区女子を囲う男子共への妬み・蔑みもたぶんに含まれていたに違いない。需要があるから港区女子が供給されるのだから。
で、番組に登場するとある女性が図解した「港区女子の格差ピラミッドと、出会える男性像」がこちら。
出所:港区女子の生態図 - 図解デ理解 アイマイカイワイ - NHK。
- SSはモデル、レースクイーンやアイドル。
- Sは読者モデル、ミスコン優勝者。Aはクラスで一番かわいい子。
- Bはかわいくてのりがいい大学生やOL。
- Cは普通の大学生とOLだと言う。
年収2000万円でもCクラスとは恐ろしい世界である。年収1000万円以上の会社員・サラリーマンが1%に満たないことを考えれば、ハイスペに超が付いても足りないくらいスペックの高い男性でなければ港区女子を相手することはできないのだ。
男性も美女へのアクセスがしやすくなった
とはいえ、である。Cクラス女子とはいえ、年収700万円以上あれば港区女子とパーティーを楽しむことも、(おそらく)その後のXXXを楽しむこともできるし、反対に女性からすればルックスというスペックがあれば高収入男子をものするチャンスが開かれているともいえる。資格要件はそれなりに厳しいが、これほど男性が美女を、美女がハイスペ男子をゲットできる門戸が開かれた時代は他にはないのではないか、とも思うのだ。
なぜ、そう思うのか。
それは、私(男性)もCクラスではあるが、港区会に参加するスペックを満たしているからであり、がんばれば港区女子をゲットできるチャンスがあるからである。Cクラスだと東京カレンダー的にイメージされる港区女子よりは格落ちかもしれないが、一般的な基準からいえば十分きれいな人もいるだろうし、がんばれば男性としてBクラスに「昇格」し、より港区女子らしい女子とお相手できるチャンスは十分に開かれているだろう。
私はサラリーマンである。大企業ではあるが、サラリーマンであり、社会階級的には平民である。平民が美女にアクセスできる時代はかつてあっただろうか。私は歴史学者ではないので完全な印象論だが、江戸時代であれば美女は将軍か殿様か、そういったごくごく限りある人しか手に入れることのできない「希少品」であったと思う。よほどの豪商であればともかく、人口の大多数を占める平民が美女をゲットできる確率は相当低かったのではないかと想像する。美女はお偉方に献上されるのである。
お偉方の乱痴気騒ぎは大昔からあったであろう。端っことはいえ、その乱痴気騒ぎの一角に平民が参加できるようになったのだ。
私の父はサラリーマン、母は専業主婦。父の所得はサラリーマンとしては高かったが、子供が多かったため生活水準は典型的な中流家庭であった。すなわち毎日母の手料理を食べ、飢えることはないが、さりとて毎晩豪勢な食事を食べるわけでもない、典型的な中流家庭。日本の中流層は先細りつつあると思うが、私のようなアラフォー世代であれば、こういった世帯で育った人は多いはずである。
で、私も港区会参加最低資格の年収700万円を超えている。階級はサラリーマンだが、年収・職業資格は満たした。居住地は港区以外の23区、職場は港区なので、なんちゃって港区男子ではある。ただ、あいにく身近に港区会へのコネクションをもっている人間がおらず、六本木ヒルズを視界に収める場所で働きながらも、会に参加しないまま結婚し、子供が生まれた。
年収700万円以上の会社員も人口比からすれば少ないが、私も会社員らしく、会社から交通費をもらい、定期券で地下鉄に乗って出社し、クライアントからのメールに適当に返信し、ランチが1000円以上だと顔を蒼くし、 無駄な会議に顔を出し、それなりの疲労とともに退社して、帰りの地下鉄で席が空いていると喜ぶ、ごくごく普通のサラリーマンである。
程度の差こそあれどこにでもいるサラリーマンだ。
Cクラスという末席とはいえ、そんな私にも港区会への門戸は開かれているのである。モデルやレースクイーンとはいかないまでも、男女関係をけっこうエンジョイできるかもしれないフィールドへのアクセスが開かれているのである。
私のような痛勤電車に乗るサラリーマンにもかつてお偉方しか味わえなかったであろう乱痴気騒ぎの一角に参加できるのである。平民とはいえ、身分制が存在しないからこそ、享受できるチャンスなのだ。
まわりくどい言い方になったが、私のような平民でも美女へのアクセス機会が増えたのである。
美人な女性が増えれば美貌を利用したいと思う女性だって増えるはず
女性にとっても、美女という「特権」を生かしやすい社会になったのではないか。そもそも日本の女性はとても美しくなった。どこに住んでいるかにもよるだろうが、東京に住んでいるとハッとするような美女に出会うことはそれほど珍しくない。化粧(+整形)技術の向上もあるだろうが、単純に綺麗な女性は増えたと思う。スタイルのいい女性も増えた。顔は整形で変えられても、スタイルはそうはいかない。栄養状態がよくなかったかなのか、日本人女性はとても美しくなった。美女が増えたのだ、日本では。
となれば、美女たちが美女であることの特権を生かしたくなるのは当然ではないか。男女平等、セクハラなどで性差に言及するのはかつてなく危険な社会になったが、他方で女性の性はとてつもなく「商品化」されている。ソシャゲやアニメ、漫画は女性の性を強調した描写が多いし、女性とて「女子高生」、「セーラー服」、「女子大生」、「メイド」といった女性的アイコンがある種のブランドになっていることは教えてもらわずとも体感して成長してくることだろう。日本での女子高生の商品としての価値はすさまじい。女性であること、それも美女であればあるほど商品価値が高いことを体感しながら成長する女性にとって、自身の商品価値を利用することの罪悪感は100年前の女性に比べて圧倒的に小さいはずだ。
ただ、美女である特権を利用できる場は限られている。かつてであれば大奥がそれだ。大奥に入るのは簡単ではない。基本的に一定階級以上の家柄の女子でなければならないし、美しいだけではダメ。かなりの教養の習得は必要なのだ。いかに大奥が今日的な観点からは女の園でも、そもそも人数的なキャパシティの上限はあったはず。無尽蔵に誰でも入れるわけではない。大奥へのアクセスはかなり制限されていた。
現在であれば、アナウンサーや女優、アイドルなどが美貌を生かしてのし上がるルートだろうが、それとて誰でもなれるわけではない。売れないリスクも大きい。
大奥や芸能界には行けない、されで美貌を生かしたい女性がいる。他方で、身分制がなくなって王侯貴族でなくても社会の階級を登った男たちがいる。男たちはのし上がった報酬(トロフィー・ガール)が欲しい。でも、誰もが名家の女性やアナウンサーや芸能人をものにできるわけではない。そもそも人数に限りがあるのだから。それでものし上がったのだから、綺麗な女をものにしたい(一発やりたい)。
時代の変化によって美女をものにするチャンスを得た男性(需要サイド)と数を増やし美貌を生かしたい女性(供給サイド)により港区会というマーケットが成立したのだろう。
今日から見れば特権階級に見える港区会だが、長い歴史から見れば、平民男子でも美女にアクセスできるようになり、女性側でも美女の大衆化(増加)により誕生したマーケットなんじゃないかと思うのである。
おしまい。
ちょっとした欠落さえ許さない一流信仰VS樹木希林さん的生き方への憧れ
「一流の人はなぜ風邪をひかないのか?」という本のタイトルがキライだ
一年以上前に発売された本だが、こんな本があるのを知った。
一流の人はなぜ風邪をひかないのか?――MBA医師が教える本当に正しい予防と対策33
- 作者: 裴英洙
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2018/02/22
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ずいぶんアホみたいな本だと思った。いや、ずいぶんアホみたいなタイトルだと思った。本の紹介を信じるなら大反響だったというし、著者はテレビに登場したそうだ。
ちょっと前までは、風邪ひかない人=バ○な人だったはずが、いつのまにか風邪ひかない人=一流になったらしい。本書に言われるまでもなく「風邪ひかない人=バ○な人」に科学的根拠があるなんて微塵も信じていなかったけど、この言葉って風邪をひいた人をなぐさめるための優しい言葉だと思うから、「風邪ひかない人=バ○な人」は間違いである、と言い募るのは大人気ないと思う。
この本の内容自体は至極まっとうで、まっとうすぎてアマゾンレビューに「常識の範囲内」と書かれるくらいである。だから、本で書かれていることを実践するのは問題ない。風邪をひく確率が本当に減る気もする。
それにしても、なんでこんなタイトルにしたのかねぇ。。。
経済誌や自己啓発本の世界では人間を一流と二流以下を分けることが大流行りだが、風邪さえも一流と二流を分ける基準に持ち出すなんて、人々の成長願望というか、成長強迫観念に漬け込んであの手この手の商材を考えるもんだと呆れてしまう。
一流の人だって風邪はひく、と反論したいわけではない。ソフトバンクの孫正義氏は日本を代表する一流の人だと思うが、グーグルで、「孫正義、風邪」と検索すれば、孫氏が風邪をひいた事実がたくさんヒットする。彼の経営スタイルに賛成するかどうかはともかく、彼が一流の人物であることに異論を唱える人はほとんどいないはず。その孫正義氏でさえも風邪をひくという事実を持ち出して、この本は嘘つきだ、分析が甘いと批判したいわけではない。
私がこの本を見たときに胸に言い知れぬザラつきを覚えるのは、たかが風邪予防の本に「一流」という言葉を持ち出すことと、風邪という小さなバグさえ認めない、というピュリティ信仰を感じ取るからである。風邪による経済的損失はけっこう大きいと本書は言うのだが、風邪を一流と二流に分けることの弊害はゼロ、ないし無視できるほど小さいものなのだろうか。風邪さえひかない一流の人間を皆さん目指しましょうという社会と、風邪くらいひくことあるよ、お大事に、という社会があるなら、私は後者の社会のほうが器の大きさを感じるんだよね。
ほんと、なぜタイトルに「一流」なんてワードを使うのか。なぜ、たかが風邪で人々をそこまで煽ろうとするのだ?
それはもちろんそのタイトルのほうが売れるだろうと筆者ないし出版社が思っているからで、宣伝を信じれば実際ベストセラーになっているらしい。こういうタイトルが売れるって出版側が思うのは、それだけ世の中には一流願望や一流にならなきゃダメだ、意識高い人間は成長するため努めなければならないという思想が社会に蔓延していると多くの人が思っているからだ。
だからこそ、そもそも自己啓発本やビジネスのハウツー本がたくさん出版され売れるだが、われわれはなんでいつまでもいつまでもこうした本に踊らされるのだろうか?
成長して、自分の限界を突破することに喜びを見出すからだろうか。そういう人もいるだろう。でも、こういう本を買うのは、成長する喜びよりも、成長しないダメな人間になりたくない、自己実現しなければならないんだ、でも自分はどうして成長できる人間になれないんだ、という焦りに駆り立てられた人が大半なんじゃないか、と思うのだ。成長するに越したことはないし、自分のやりたいことができるなら、それはとてもいいことだろうけど、義務感に基づく成長努力はけっこう大変である。
この本を見た人が、自分は風邪をひいてしまう、二流のダメな人間なんだ、と勘違いな自己卑下に陥らないことを祈る。風邪をひかないための体調管理はすればいいと思うけど、家庭の医学じゃなくて、自己啓発本としてこういう本が出てくるのは正直キライな風潮である。
樹木希林さんの本が売れることに抱く思い
こうした一流信仰に対局にあるのが、「あるがままが(で)いい」信仰である。現代は一流信仰とあるがまま信仰のせめぎ合いの時代だと思うが、昨年他界した樹木希林さんの本が売れるのはあるがまま信仰に帰依する(したい)人がたくさんいるからでもある。
あるがままでいい、という発想自体は私も好きだし、そうありたいと思う。しかし、そうでありながら、あるがまま信仰を信じ切れている人はかなり少ないだろうとも思うのだ。だから、多くの人はあるがまま信仰になんの疑いもなく帰依している、というよりは、あるがままでいいんだあるがままでいいんだ、と自分を説得したり信じ込ませようと努力・苦闘しているのではないかと思う。
あるがままの状態をどう定義するかにもよるが、日常生活・社会人生活をしている中で完全にあるがままの状態を維持することは難しいし、悪いことに一流信仰のノイズが街中にあふれている。一流信仰ももっともらしく聞こえるのだ。一流とみなされている人になれるものならなってみたいし、一流の人の範囲を有名人・芸能人まで広げれば、ぶっちゃけ自分たちよりラクして稼いでいるように見える人がわんさといる。ああなれるならなりたい、という気持ちはとても自然な感情だ。
このようにあるがまま信仰を貫きとおすのはかなり大変である。信仰がゆらぐことは日常茶飯事だ。だから、誰かにあるがまま信仰が素晴らしい、一流信仰なんてくそくらえ、と言ってほしい。でもその誰かは誰でもいいというはわけにはいかない。私が「あるがままでいいんだよ」と言ったところで、おまえ誰?おまえ何様?という反応をもらって終わりである。
「あるがままでいいんだよ」と一流の人に言ってほしいのだ。一流の人だってあるがままでいいんだって言っているから、だからあるがままでいいんだ、とあるがまま信仰を信じられるようになるのである。
精神科医に言われるだけだとちょっと弱い。その世界では有名でも多くの人はその精神科医のことも学会での評判も知らないからだ。でも、樹木希林さんは知っている。樹木希林さんが一流の役者であることも知っている。だから、彼女の言葉を一流信仰に対抗するための錦の御旗に掲げることができるのだ。
一流信仰が流行っているからこそ樹木希林さんの本が売れるのである。思想的には対立しながら、ビジネス的には共存関係なのだろうな。
悪魔がいるから神を信じる、、、みたいな。
おしまい。
「不確実性の時代」はいつくるのか?
「不確実性の時代」は一体いつになったらくるのか?
松の内とはいえ、1月5日ともなると正月気分はだいぶ抜けてくる。
年末年始の新聞や経済誌などはだいたい新年やその先の時代のあり方を特集する。この年末年始も例に漏れない。
日経新聞で「『不確実性の時代』へ」という記事を見つけた(日本経済新聞2018年12月29日)。トランプ大統領の予測不能な外交政策、AIに代表されるデジタル革命などなど。「不確実な時代に入ってゆく。リスクに備えよう。」という言葉で記事は締めくくられる。
たしかになー。国際政治学をかじった身としては、トランプ大統領が当選し、自由や人権や民主主義といったアメリカ的価値観を無視した外交を展開するなんてまったく予想できなかった。そうしたアメリカ的価値観を全開にした外交はそれはそれで煙たがられたのだけれど、それを無視する外交はそれに輪をかけて衝撃的。彼の外交政策に賛成するか反対するかはともかく、もともと活発だったアメリカ外交・安全保障政策研究はトランプ大統領のおかげでいわばバブルのようなもんだろう。あちこちでトランプ大統領の外交政策を論じるシンポジウム、セミナー、研究会が開催され、テレビ番組や雑誌でも特集が組まれるのだから。
AIだってすごい。おれはがちがちの文系だからAIの技術的な側面はまったくわからない。それにもかかわらずAIにはかなり期待していて、早く人間の知能を追い越してAIが意思決定する世界を見てみたいと思っている。AIに意思決定を委ねるかはこれまた賛否両論わかれるテーマだけど、どちらの立場にせよAIなどのデジタル革命が画期的な出来事であることは認めるだろう。
だから、日経新聞の記事の内容自体にケチはつけない。
でも、少しケチをつけたくなる。というか、揚げ足を取りたい。
というのは、「不確実性の時代へ」と言うからには、今までは不確実性の時代じゃない、ということだ。
それはそれで別に構わない。どこまでが「確実性の時代」で、どこからが「不確実性の時代」かを区別する客観的な基準はないのだから。
それでもあえて揚げ足を取るのは、新聞や経済誌、もしくはそこに登場する識者たちこそ、いつもいつも「これからは変化の時代だ」、「今は予測不可能な時代だ」、「変化についていけないものは取り残される」って煽ってきた当の本人たちではなかったか。
一体いつになったら本当の「不確実性の時代」になるんだい、と揶揄したくなるじゃないか。
アマゾンで買える書籍だと少なくとも1978年からは「不確実性の時代」
そんなわけで、試しにアマゾンで「不確実 時代」で検索してみたところ、1月5日現在で59件がヒットした(カテゴリーは「すべて」)。
ヒットした中で最も早く出版されたのがカナダ出身の経済学者である、ジョン・ガルブレイスの『不確実性の時代』で、初版は1978年である。ガルブレイスは経済学を学んでいない私でさえ聞いたことのなる経済学の巨人である。Wikipedia情報だと本書は日本でベストセラーになったそうだ*1。
また、当の日本経済新聞社自体が「1日30分達人と読むビジネス名著ー「不確実な時代」を生き抜く」という単行本を2012年に出版して、すでに2012年には「不確実な時代」に突入しているという認識を示している。
1日30分 達人と読むビジネス名著─「不確実な時代」を生き抜く
- 作者: 日本経済新聞社
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
- 発売日: 2012/12/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
多くは2000年以降に出版された本だが、出版が昭和時代のものもちらほらある。いずれの本も読んだことはないから、何が書かれているかは知らないけれど、そもそも新聞や経済誌で「今は変化しない時代です」、「今は確実性の時代です」なんて言葉は見たことがない。
彼らは常に時代は変化し不確実だと言っているのである。そうでなければ、新聞や経済誌を読む必要なんてなくなる。情報をアップデートしなければならないのは変化に対応するためなのだから、変化しないのであれば情報のアップデートは必要ないし、情報を提供する新聞や経済誌のニーズはなくなるのだ。彼らは常にわれわれを煽るインセンティブを持っている。
何も変化しない年はないし、確実に未来を見通せる年もないだろうから、彼らの予言が外れることはほぼないのだが、本当に彼らは「不確実(性)」という言葉が好きなんだなあ、と再認識させられたのである。
おしまい。
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人付き合いのめんどくささが増しているから未婚・晩婚になるとしか思えない
結婚しない人が増えた
年始に若者の草食化と未婚・晩婚の増加は無関係という記事を読んだ。便乗させてもらうと、私も昔の人が結婚できたのはお見合いや職場恋愛といった「社会的お膳立てシステム」があったからだと思っている。
ついでに言えば、昔だって結婚率が示すほどみんながみんな心から結婚したいとは思っていなくて、結婚しないことのコスト(世間から冷たい視線を浴びる、昇進にマイナス等)が大きかったから結婚する人が多かったんじゃないかと思っている。
人間の特徴なんてそうそう変わるものではないし、人間関係がめんどくさいと感じる人の割合だって数十年程度じゃそうそう変わらないだろう。だけど、我々を取り巻く社会環境が変われば、われわれのコスト計算の仕方も変わるわけで、未婚のコストが高ければ結婚を選択するし、未婚のコストが低くなれば(結婚のコストが高くなれば)結婚しない人が増える。ただ、それだけ。
とどのつまり、今の人が結婚しなさすぎるのではなく、昔の人が結婚しすぎていただけなんだよ。
国立社会保障・人口問題研究所の「2015 年社会保障・人口問題基本調査 <結婚と出産に関する全国調査>第15回出生動向基本調査」も「社会的お膳立てシステム」の存在を裏付けている。1940年はお見合い結婚の割合が69.1%、恋愛結婚が14.6%であった。それ以降お見合い結婚の割合は減少し続け、2015年は5.5%、対して恋愛結婚が87.7%。研究所の調査を待つまでもなく誰もが今は恋愛結婚の時代だって思っているけど、統計からもわれわれの実感は裏付けられる。
同調査によると未婚率は過去最高を記録したのだが、今だって結婚したいかしたくないか、と聞かれたら「いずれ結婚するつもり」と答える人がほとんど。
未婚者の生涯の結婚意思
男性 | 1987 | 1992 | 1997 | 2002 | 2005 | 2010 | 2015 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
いずれ結婚するつもり | 91.8 | 90.0 | 85.9 | 87.0 | 87.0 | 86.3 | 85.7 | |
一生結婚するつもりはない | 4.5 | 4.9 | 6.3 | 5.4 | 7.1 | 9.4 | 12.0 | |
不詳 | 3.7 | 5.1 | 7.8 | 7.7 | 5.9 | 4.3 | 2.3 | |
女性 | ||||||||
いずれ結婚するつもり | 92.9 | 90.2 | 89.1 | 88.3 | 90.0 | 89.4 | 89.3 | |
一生結婚するつもりはない | 4.6 | 5.2 | 4.9 | 5.0 | 5.6 | 6.8 | 8.0 | |
不詳 | 2.5 | 4.6 | 6.0 | 6.7 | 4.3 | 3.8 | 2.7 |
出所:国立社会保障・人口問題研究所「2015 年社会保障・人口問題基本調査 <結婚と出産に関する全国調査>第15回出生動向基本調査」、4頁。
だけど、生涯未婚率は過去最高を記録している。二択になればしたいと答える人が多いが、結婚に踏み切る人の割合は減少している。
なぜなのか。
荒川氏はお見合い・職場恋愛等の「社会的お膳立てシステム」の衰退とハラスメント未然防止のためデートに誘いにくくなったからだと言う。荒川氏の著書「超ソロ社会」には他の要因も書いてあるのだろうが、私としてはそれに加えて結婚のコストが上がったことがあると思っている。
モラハラという妖怪が徘徊している
最近、恋愛や結婚と言うと、すぐに連想するのがモラルハラスメント=モラハラだ。では、どういう行為がモラハラになるのか。下記のサイトから家庭でモラハラと認定されうる行為を列挙しよう。
- 家事や育児の否定
- 見下した発言や態度をとる
- 気に入らないことがあれば暴言を吐く
- 過去の失敗を責め続ける
- 離婚や養育権、経済力を武器に相手を脅す
- 舌打ちをする、無視する
- 常にイライラしている
- 人前で馬鹿にする
- 物にあたる
- 悪口を言う
- 責任転嫁し人のせいにする
- 自分の非を認めない
暴言や経済力を武器に脅す、のように誰もがモラハラ認定するものもあれば、え、この程度でも、思うようなものも入っている。
この程度でも、というよりはモラハラとセーフとの境界線がわかりにくい、と言ったらいいかな。現実にはよほどひどくなければ一回や二回程度は許されることのほうが多いと思う。でも、よほどひどい、にせよ、どこからが常習性あり、にせよ、モラハラとセーフとの線引きは難しい。
たとえば、悪口を言う。
言わないほうがいいと思うけど、全く悪口を言わないで一生を終えることなんてあるだろうか。多少なら許される、にしても、じゃあ、どこまでがイエローカードで、どこからがレッドカードかなんて、全然わからない。悪口言うな、というのは理解はできるし、そりゃ、言わないほうがいいけれど、実践しようと思うと聖人君子にならないといけないような、かなりすごいことを要求されているような気がする。
逆に悪口を言ったと受け取られると、相手に「はーい、悪口言った。モラハラー」と言われ、言い争いの中身とは関係なく口を封じられてしまいそうだ。黄門様の印籠のように。
モラハラ、という言葉を作った人に悪意はないと思うし、DV同様、外部からは見えないところで行われる陰湿な暴力を告発したかったのだと思う。だけど、最近この言葉が一人歩きしていて、ただでさえハラスメントが増えてやりづらくなった人間関係をさらにぐちゃぐちゃにしているように思うんだよな。
とにもかくにも、程度はともかく、世の中にモラハラというハラスメント行為が存在し、しばしば家庭でそのハラスメントが行われるということはかなり認知されている。
認知度が上がれば、ハラスメントの防止と発生した場合の告発につながる。いいことだ。でも、あんまりギチギチ言いすぎると、人間関係がめんどくさくなって、濃密な人間関係の最たるものである結婚のコストを引き上げる、というマイナスの効果、というか副作用が出てきてしまう。
さらに言えば、ちょっとした悪口が家庭内で飛び交うだけでも、「うちの家庭はおかしいのではないか、普通ではないのではないか、問題があるのではないか、相手はモラハラなんじゃないか」と感じてしまって、うちの旦那・妻はモラハラ夫(妻)だと思ってしまうと、何やら相手の人格自体に問題があるような気がして、別に問題がなかったり、あったとしてもちょっとした努力で改善できるような場合でさえ、関係修復を難しくしてしまうと私は思うのである。
いくらモラハラがよくないにしても、見下した発言をする、暴言を吐く、舌打ち、無視、イライラ、悪口を言う、物にあたる、責任転嫁する、自分の非を認めないといった行為がまったく発生しない関係は相当珍しいのではないか、と思う。
モラハラはいけないというが、喧嘩は禁じられていない。じゃあ、喧嘩をする中で、上記に挙げた行為をまったくしない恋人・夫婦というのはどのくらいいるものなのか。ほとんどいないはずだ。
喧嘩できて、互いに文句を言える状態ならモラハラじゃないんだろう。相手を恐怖させて反論できないような関係でこそモラハラが発生する。
でも、Google検索で上位に表示される先のサイトにそんなことは書いていない。あくまで、該当しうる行為が列挙されているだけ。モラハラという言葉が生まれた背景やそもそもの定義なんて置き去りにされて、モラハラという言葉と上辺の行為だけが一人歩きしているのだ。人口に膾炙するモラハラの多くは、当初の定義からかけ離れた実態のないもの、妖怪みたいなものなんじゃないのか。
誤用だろうがなんだろうが、それでも言葉だけは広まる。広まれば、どうしたって影響が生じる。
モラハラという言葉が適切に使われるならいいけれど(もっともどこまでが適切な範囲なのかの判断はとても難しいのだが)、わずかでも発生したらうちは問題を抱えている!という判断に至ってしまうのであれば、恋人関係や家族関係は地雷原の中にいるようなものでしょ。
誰がすき好んでそんな関係に入りたいと思うだろうか。本来は安息の地であるはずの恋人・家族関係が気苦労の耐えない空間となる。
そんなものはもはや重荷であって、コストでしかない。ただでさえ昔に比べて従わなくてはならないルールが増えたのだ。今だったらセクハラやパワハラに認定される行為が過去は許されていた。昔の人は昔の人で苦労もあっただろうが、昔の基準に基づいて今の世代の草食化や意気地のなさを責めるのは明らかに筋違いである。
未婚・晩婚を個人の責任にするのはおかしい
未婚・晩婚の原因を個人の責任に求めるなら、こうなるだろうか。
思いを寄せる人に自分の思いを打ち明けたいと思う。しかし、自分の思いを打ち明けても、受け止めてもらえないという事実に直面することを怖れる人がいる。そのような人は、自分の気持ちを打ち明けようとはしない。傷つくことを恐れるのだ。何もいわなければ、相手に自分の気持ちは伝わらない。だが、その人とは関係が生じることもないのだから、傷つくこともないのである。
自分の思いを打ち明けられないと思うための理由はすぐに見つかる。自分のことを自分でも好きとは思えないのだから、他の人が自分のことを好きになってくれるはずがない、そう考えればよいのである。
自分のことを好きになれないことの理由もすぐに見つかる。子どもの頃、親から受けた教育を理由にすることができる。実際には、子どもの頃に受けた教育が対人関係に入れないことの理由ではないにもかかわらず。
恋愛関係に入れない理由を自分に価値がないことではなく、相手に求めることもある。運命的な出会いがないという人は、本当は自分の人生を変えるような出会いをしても、それに気づかないだけである。結婚に憧れている若い人から運命的な出会いがないという話をよく聞くが、そのような人は、出会った人を結婚するパートナーの候補者から外すためにそういっているだけである(下記書、87-88頁)。
この発想自体は面白いし、なるほどと思う。ちなみに冒頭の国立社会保障・人口問題研究所の調査結果だと25歳から34歳までの独身者が結婚できない一番の理由として挙げるのが男女ともに「適当な相手にめぐり合わない」であるが(男45.3%、女51.2%)、もしかしたら岸見氏がいう通り、(もしかしたら本人も気づいていないうちに)いい人がいない、ことを結婚しないことを正当化するために使っているのかもしれない。
しかし、個人の責任はあるにしても、未婚・晩婚が世の中の風潮として定着しつつあるなら、個人の責任には還元できない社会的な要因があると考えるほうがまっとうだと私は思う。
恋愛関係・夫婦関係になったらモラハラに気をつけろ!と言われる世代の人たちにとって、そしてモラハラ認定されると相当なバッシングを受けると感じている世代にとって、恋愛や夫婦は幸福のための手段というより日々採点をつけられる息苦しい場だと恐れても責められないんじゃないだろうか。
昔だって人付き合いのめんどくささはあったはずだ。だが、結婚しないと世間からの視線が厳しいという未婚のコストがそれ以上に大きかったし、お見合い等の結婚を斡旋する仕組みが世の中にあったから結婚を選択した人が多かっただけ。
今ではお見合い等の結婚斡旋の仕組みが壊れ、そもそも結婚しろ、という圧力も減ってきている。昔が結婚しすぎていただとすれば、当然結婚する人は少なくなるよね。
ややオーバーな言い方をすれば、モラハラはいけないにしても、なんの問題も発生してはならない、と感じてしまうような潔癖社会はどうにかならないものだろうか。ちょっとくらい問題があっても構わない、と思えるほうが新たな人間関係をつくりやすくなるのではなかろうか。人付き合い=ハラスメントの地雷原という風潮がなくならない限り、未婚・晩婚の流れは止まらないだろうなあ、と私は思うんだよね。
p>スポンサーリンク
幸福であるためにはツライ道を歩く覚悟が必要なのか??
岸見一郎『幸福の哲学』
今回読んだのは、アドラー心理学で話題の岸見一郎氏の著作である。
自己啓発本を手に取る理由
自己啓発本を手に取るのは現状をよくしたいと思っているからだ。自分の能力を向上させたり、人間関係をどうにかしたり、自分の感情をコントロールできるようになりたいのは、そうすることで様々なストレスから解放され、(それが仮にあるとして)本来あるべき自分を獲得し、換言すればそうなることで幸せな人生を歩みたいと思うからだ。
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幸福であるというのはある時点での状態を指す。他方で、そこに至るまでの道のりやそれを維持するための努力はプロセスである。従ってある時点で幸福を達成しても、そこまでの道のりが幸福に満ち溢れているとは限らないし、一度ある時点で幸福になったとしても、その状態が永遠に続くことは約束されないとも考えられる。
幸福であるには、自分が自由意志に基づく選択でそれを成し遂げなければならない。しかし、自由意志に基づく選択が幸福をもたらすとは限らない。人間は選択に際してあらゆる情報を入手し、無限の時間を使って、あらゆる選択肢を検討して決定できるわけではない。それゆえ選択がうまく行くとは限らないし、むしろ失敗することのほうが多いかもしれない。
自分で選び、たとえそれが不幸を招いたとしても、その責任を自分で納得して受け入れるというのは大変なことだ。だからこそ、人はその責任を回避するために運命論を信じたり、外部のせいにしたり、他者に選択自体は委ねたりすると、岸見はいう。
自分で選ぶことにはリスクがあると知った人は、主体的に選択することを断念するか、ためらうだろう。そして、誰かが決めたことに従う。そうすれば、後に何か問題が起こったとしても責任を免れることができるからである。
自分で選択したことがうまくいくとは限らない。むしろ、うまくいかないことを予想するからこそ、自分では選択しようとしない人がいるのだが、私には、後になって実際うまくいかなくなった時、他者に選択を委ねたためにうまくいかなかったのでは、そのことに納得できるとは思われない。自分で選択したことであればこそ、どんな結末になってもそれを受け入れることができる。
(中略)
人は過去に経験した出来事や、まわりからの影響を受けるだけの存在(reactor)ではない。自由意志で自分の人生を決めていくことができる存在(actor)である。間違うことがあっても自分の人生を選び決められると考えることで、人間の尊厳を取り戻すことができるのだ(113-114頁)
尊厳と快適さと幸福感
しかし、尊厳と快適さが両立するとは限らない。たとえば日本がものすごい資源国だったとして、そして常に名君に治められるとして、誰も税金を払わず、社会保障はおろか、あらゆる公共サービスは無料で、日々の生活や娯楽まで政府が保証してくれる、しかし、その代わり政治への参加権はないと仮定しよう。
絶対に快適で、おそらく幸福感も得られよう。しかし、自分の生活にも関わりある政治に参加できないのはある種の自己決定権を奪われるのと同義であり、人としての尊厳を失うのだ、と主張する人も現れよう。
実利的な幸福と尊厳的幸福があり得ようが、後者はいってみればマトリックスの世界でモーフィアスに無理やり現実の世界に連れてこられたアンダーソン(ネオ)のようなものであり、尊厳はあるかもしれないが、快適な生活とは程遠い。
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幸せになるために自己決定は必要だ。しかし、その決定が正しく行えるとは限らないという。いずれは幸福になれるかもしれないが、そこに至るまでには多くの自己選択が伴うのであり、おそらくは自己選択による失敗と苦痛も伴うのだ。仮に幸福というものがあっても、そこへ至るまでの道のりは辛く厳しいものになる。
その覚悟なく幸せを語るのは、むしろ幸せにたどり着けないことを言い訳に、いつまでも自分を甘やかす行為なのだろう。まだ本来の自分じゃないんだから、しょうがないじゃないかと。
幸せとは逃避の先にはなさそうだ。幸福になるには自分の選択を受け入れるだけの強さが必要なのだ。
幸せとは甘えや居心地のよさではなく、たゆまぬ努力と行動の先にしかないのやもしれない。
しかし、そうであればなかなか幸福までの道のりは遠いなぁ、と途方に暮れてしまう。「ただ阿弥陀如来の働きにまかせて、すべての人は往生することが出来る」とする浄土真宗的な幸福到達論はないものだろうか??
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自由と承認の間
山竹伸二氏『「認められたい」の正体』
今回読んだのは山竹伸二氏の『「認められたい」の正体』である。
「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)
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幸せと人との関わりとその葛藤
幸福のかたちは人それぞれあるだろうが、良くも悪くも人との関わりがその人の幸福感に大きな影響を与えることは間違いない。そして、願わくば世間から、さらに言えば自分が大切にしている人からあなたは素晴らしいと承認してほしいと思っている。
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「人からの承認」、これが幸福感に大きな影響を与えるわけだが、現実世界において自分の理想通りに承認を得ることは難しい。そもそも誰だって他人に常に集中力100パーセントで関心を向けられるわけではない。自分だって、常に他人ばかりを気にかけているわけにはいかないから、仮に誰かから褒めてほしいって求められていても自分がそれに応えているとは限らない。
こういった人間のある種の能力的な限界に加えて、そもそも相手や社会から承認を得るには承認を求める側の努力が必要であって、ときには自分がそこまで気の進まないこともやらないといけないという問題がある。
承認を求めることと自分がやりたいことが重なっている場合は問題ない。しかし、そんなことはほとんどない。わかりやすい例でいえば、気に入られようとして、行きたくもない飲み会に行ったり、残業に付き合ったりすることなどはその顕著な例であり、それもたまにぐらいであれば問題ないかもしれないが、しょっちゅうでは身体も精神も悪くなろう。
現代の承認欲求
別に他者からの承認を欲するのは現代だけではない。昔だって認めてほしいと思っていたはずである。では、現代と過去の違いはどこにあるかといえば、それは承認獲得の容易さである。
山竹は次のように言う。
なるほど、社会に共通した価値観が浸透し、個人の役割も固定されている場合、そこに生きる人々はその価値観に照らして自らの価値を測り、その役割にアイデンティティを見出している。多くの人間が同じ価値観を信じている社会では、その価値観に準じた行為は周囲から承認され、異を唱えられることはない。したがって、そのような行為において他者の承認を強く意識する必要はなかった、と考えられる。
たとえば、キリスト教の価値観が浸透した社会なら、神を信仰する敬虔な態度は周囲から承認されるはずだが、当人は周囲の承認など気にせず、その価値観を信じ込んでいるだけだろう。いかに苦しい生活を強いられていても、そこに承認不安は生じない。
しかし、社会共通の価値観が存在しなければ、人間は他者の承認を意識せざるを得なくなる。誰でも自分で信じていた価値観や信念、信仰がゆらげば、自分の行為は正しいのか否か、近くにいる人に聞いてみたくなるものだ。自己価値を測る基準が見えなくなり、他者の承認によって価値の有無を確認しようとする。こうして、もともと根底にあった承認欲望が前面に露呈し、他者からの直接承認を得たいという欲望が強くなる(132頁)
多様な価値観があり、かつどれを信奉するか問われないということは、自分で好きに選べるということである。
たしかに自分で選べるというのは素晴らしいことだと思う。しかし、実際に選ぶのは大変だ。2種類しかメニューになければ選ぶのは簡単だが、 無限のメニューを提示されればかえって何をどの基準で選んでいいかわからなくなってしまう。
自分の選択の正しさを信じるのはとても難しいことだ。さらにいえばどんな選択をしても、人生において苦難に直面しないことなんてない。もしそんなことがあるとすれば、それはよほどの超人か、人生何にも挑戦しなかったから、結果苦難に直面しなかったにすぎない。
苦難に直面すれば誰だって自分の選択を信じられなくなる。それでも神との対話によって正しい道が示されるなら、その葛藤はやがて解決しよう。しかし、現代では神はもはやその圧倒的な存在感を失った。自分が不安を抱いた時、それを解消してくれるのは得てして傍にいる人たちからの承認である。
反対に言えば、承認が得られなければその不安感は解消されず、いざというときに承認を得られるよう、周囲の人への心配りが必要となり、それが度を過ぎれば負担となって、むしろ自分が抑圧されてしまう。
いわば、承認と自由はシーソーのようなもので、いずれかに重みがかかりすぎればバランスが崩れてしまう。真ん中の承認と自由が均衡する点に常に位置できるようになればこの葛藤から脱出できるのかもしれないが、現実には承認と自由の間を行ったり来たりして、シーソーが絶えずどちらかに傾いている状態なのだろう。
均衡点に居続ける方法を見つけるか、それとも行ったり来たりしている現実をむしろ積極的に受け入れるのか。どちらの選択がより人を幸福にするのだろうか。
❇︎本記事は、私の別のブログで書いたものの転載です(そのブログを閉鎖したため)。
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幸福論:生化学vs認知論
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幸福の個体差
自己啓発本を読むのは成長したいからであり、最終的にはそれによってよりよい人生を歩んだり、幸福になりたいと思うからである。
しかし、自己啓発本を読んで同じことを実践して、同じだけの達成度を得た場合、人は同じだけの満足感や幸福感を得るのだろうか。要するに人による「個体差」はあるのか、仮にあるとしたらその個体差をもたらす要因は何であろうか?
自己啓発本ではないが、本書は幸福についていろいろ考えさせられることを書いている。
幸福論:生化学と認知論
ここに二つの対立する軸がある。すなわち生化学と認知論の二つである。
生化学は人が幸福をどう感じるかは遺伝子的に決定されていると主張する。仮に幸福度を10段階に分けられるとして、割に幸福度8とか9とか高いレベルで感じやすい人と、外から見ればとてもいいことがたくさん起きているにもかかわらず、幸福度を5程度にしか感じられない人がいるという。幸福感を得難い遺伝子的特徴を持つ人間は宝くじに当たったり、世界平和のような偉業を成し遂げたり、世界でもっとも美しい(ハンサム)なパートナーと結ばれても得られる満足感は乏しいことになる(Kindle版 pp.7312-7401)。
この考えは自己啓発本の存在意義を奪うアイデアだ。結局何をやろうが遺伝子的に幸せになれないことがプログラミングされており、そのプログラムを書き換えられないのであれば、いつか自分は変われると信じて努力することにもはや何の意味もない。
もし解決法があるとすれば、それは遺伝子治療であり、技術的に可能ならば、手術によって遺伝子自体を完全に変えてしまえばいいということになる。それが出来ないとしても、セロトニンやドーパミンのような人を快楽にさせる成分を注入させてしまうのが最も確実で手っ取り早い方法だ。人間の自由意志に基づいて努力させるなんてことは迂遠で不確実な方法である。
普通は自分の遺伝子がどの程度幸福を感じやすくできているなんて知り得ない。そのため、幸福感を得難い遺伝子を持つ人は普通の刺激では幸福を感じられない以上、より強い刺激を求めるようになる可能性が高い。
数多の宗教家は生物学的には遺伝子的に幸福感を得難い人たちだったのかもしれない。彼らは人によっては富もあり、モテたかもしれず、趣味もあってとてもリアルが充実していたことだろう。しかし、それほどまでに恵まれていたとしても、なかなか幸福感を得られないとすれば、彼らはその理由を探そうとするわけで、よさらなる刺激を求めて、極限の飢餓状態になろうとしたり、痛みを伴うようなことに走ったのやもしれない。刺激が必要だからこそ、エクストリームな人生を追及したとも考えられそうだ。
他方で、人間の認知や意義付けが幸福感に影響するという立場もある(Kindle版pp. 7415-7445)。
本書では子育てが例として挙げられていて、子育てに伴う活動、ご飯食べさせたり、排泄物を交換したりといった作業一つ一つを見ると、けっこう手間だったりして人の幸福感を下げそうなことが多い。それらに要する時間的総量もけっこうなものになる。
では、子育てしている人の不幸感が増大するかといえばそうではなく、得てして自分の幸福は子供のお陰と考えている。単に投入した時間を積み上げれば幸福感を減損させても不思議でない行為の積み重ねにもかかわらず、活動によっては不幸どころか人が幸せにするのだ、と逆説的なことが言えそうである。
この矛盾は何なのかといえば、幸福というのは活動それぞれから得られるプラスの感情、マイナスの感情の足し算で決まるのではなく、自分が意義があると考えていることに充足感があれば幸福と感じるということになる。子育てで必要な一つ一つの活動は外部から見れば不快に思うようなことでも、当人たちが子育てに意義を見出していれば、当人たちの幸福感が高まるのである。人生の意義を見出し、その意義に沿うような感覚が得られればその人の幸福感は高まるのである。
客観的な幸福と主観的な幸福
実際はこの二つの中間あたりに真実があるのだろう。遺伝子的に決定される部分があってその人の幸福感認知範囲が限定されていたとしても、認知的な満足感によって、範囲の中でより高い幸福感を得やすくなる。
遺伝子的に幸福度を4〜7で感じやすい人がいるとした場合、その人が4の幸福度を得やすいか、それとも7の幸福度を得やすいかは、その人の主観的な要素に委ねられるのだ。
幸福とは客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる(Kindle版 p.7249)
したがって、主観的な幸福感を追及する努力は決して無駄ではないということになる。あとはそれがいかにして獲得できるかだ。
その点、現代社会は中世よりも不利である。生活環境だけを見れば現代の日本のほうが圧倒的に幸せといえる。しかし、幸福感という点ではどうであろうか。かつては幸福を自分の自由意志で判断する必要はなかった。代わりに宗教の教えがあるべき人間像を提示してくれた。聖人のようにはなれなくても、経典の教えに従えば幸せになれたり、人間として立派になれるとされたのだ。
だが、現代は宗教の教えを信じていれば事足りるほど単純な世界ではないし、宗教を信じない自由が与えられている。自由を得た反面、われわれは自分たち自身で幸せを見つけなければならない。
見つかればいい。しかし、幸せは自分自身で判断すればいいと言われても本当に自分が幸せかどうかを判断する基準なんてないからわれわれは迷うし、不安になるのだ。早くセロトニンやドーパミンをうまく打って簡単に幸せになれる社会が来ればそれが一つの理想郷なのかもしれない。
ただその社会が到来するまではわれわれはあれやこれや悩んで、自己啓発本を手にとって、それでもなお悩むのだろう。
人生は悩みだらけ。そう割り切ることも必要なのだ。現時点でわれわれは幸福になるために遺伝子手術はできないのだから。
❇︎本記事は、私の別のブログで書いたものの転載です(そのブログを閉鎖したため)。
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