猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

「不確実性の時代」はいつくるのか?

  

「不確実性の時代」は一体いつになったらくるのか?

松の内とはいえ、1月5日ともなると正月気分はだいぶ抜けてくる。

 

年末年始の新聞や経済誌などはだいたい新年やその先の時代のあり方を特集する。この年末年始も例に漏れない。

日経新聞で「『不確実性の時代』へ」という記事を見つけた(日本経済新聞2018年12月29日)。トランプ大統領の予測不能外交政策、AIに代表されるデジタル革命などなど。「不確実な時代に入ってゆく。リスクに備えよう。」という言葉で記事は締めくくられる。

 

たしかになー。国際政治学をかじった身としては、トランプ大統領が当選し、自由や人権や民主主義といったアメリカ的価値観を無視した外交を展開するなんてまったく予想できなかった。そうしたアメリカ的価値観を全開にした外交はそれはそれで煙たがられたのだけれど、それを無視する外交はそれに輪をかけて衝撃的。彼の外交政策に賛成するか反対するかはともかく、もともと活発だったアメリカ外交・安全保障政策研究はトランプ大統領のおかげでいわばバブルのようなもんだろう。あちこちでトランプ大統領外交政策を論じるシンポジウム、セミナー、研究会が開催され、テレビ番組や雑誌でも特集が組まれるのだから。

 

AIだってすごい。おれはがちがちの文系だからAIの技術的な側面はまったくわからない。それにもかかわらずAIにはかなり期待していて、早く人間の知能を追い越してAIが意思決定する世界を見てみたいと思っている。AIに意思決定を委ねるかはこれまた賛否両論わかれるテーマだけど、どちらの立場にせよAIなどのデジタル革命が画期的な出来事であることは認めるだろう。

 

だから、日経新聞の記事の内容自体にケチはつけない。

でも、少しケチをつけたくなる。というか、揚げ足を取りたい。

 

というのは、「不確実性の時代へ」と言うからには、今までは不確実性の時代じゃない、ということだ。

 

それはそれで別に構わない。どこまでが「確実性の時代」で、どこからが「不確実性の時代」かを区別する客観的な基準はないのだから。

それでもあえて揚げ足を取るのは、新聞や経済誌、もしくはそこに登場する識者たちこそ、いつもいつも「これからは変化の時代だ」、「今は予測不可能な時代だ」、「変化についていけないものは取り残される」って煽ってきた当の本人たちではなかったか。

 

一体いつになったら本当の「不確実性の時代」になるんだい、と揶揄したくなるじゃないか。

 

アマゾンで買える書籍だと少なくとも1978年からは「不確実性の時代」

そんなわけで、試しにアマゾンで「不確実 時代」で検索してみたところ、1月5日現在で59件がヒットした(カテゴリーは「すべて」)。

ヒットした中で最も早く出版されたのがカナダ出身の経済学者である、ジョン・ガルブレイスの『不確実性の時代』で、初版は1978年である。ガルブレイスは経済学を学んでいない私でさえ聞いたことのなる経済学の巨人である。Wikipedia情報だと本書は日本でベストセラーになったそうだ*1

 

不確実性の時代 (講談社学術文庫)

不確実性の時代 (講談社学術文庫)

 

 

また、当の日本経済新聞社自体が「1日30分達人と読むビジネス名著ー「不確実な時代」を生き抜く」という単行本を2012年に出版して、すでに2012年には「不確実な時代」に突入しているという認識を示している。

 

 

多くは2000年以降に出版された本だが、出版が昭和時代のものもちらほらある。いずれの本も読んだことはないから、何が書かれているかは知らないけれど、そもそも新聞や経済誌で「今は変化しない時代です」、「今は確実性の時代です」なんて言葉は見たことがない。

彼らは常に時代は変化し不確実だと言っているのである。そうでなければ、新聞や経済誌を読む必要なんてなくなる。情報をアップデートしなければならないのは変化に対応するためなのだから、変化しないのであれば情報のアップデートは必要ないし、情報を提供する新聞や経済誌のニーズはなくなるのだ。彼らは常にわれわれを煽るインセンティブを持っている。

 

 何も変化しない年はないし、確実に未来を見通せる年もないだろうから、彼らの予言が外れることはほぼないのだが、本当に彼らは「不確実(性)」という言葉が好きなんだなあ、と再認識させられたのである。

 

おしまい。

 

 

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人付き合いのめんどくささが増しているから未婚・晩婚になるとしか思えない

 

結婚しない人が増えた

年始に若者の草食化と未婚・晩婚の増加は無関係という記事を読んだ。便乗させてもらうと、私も昔の人が結婚できたのはお見合いや職場恋愛といった「社会的お膳立てシステム」があったからだと思っている。

ついでに言えば、昔だって結婚率が示すほどみんながみんな心から結婚したいとは思っていなくて、結婚しないことのコスト(世間から冷たい視線を浴びる、昇進にマイナス等)が大きかったから結婚する人が多かったんじゃないかと思っている。

人間の特徴なんてそうそう変わるものではないし、人間関係がめんどくさいと感じる人の割合だって数十年程度じゃそうそう変わらないだろう。だけど、我々を取り巻く社会環境が変われば、われわれのコスト計算の仕方も変わるわけで、未婚のコストが高ければ結婚を選択するし、未婚のコストが低くなれば(結婚のコストが高くなれば)結婚しない人が増える。ただ、それだけ。

 

とどのつまり、今の人が結婚しなさすぎるのではなく、昔の人が結婚しすぎていただけなんだよ。

 

www.fnn.jp

 

国立社会保障・人口問題研究所の「2015 年社会保障・人口問題基本調査 <結婚と出産に関する全国調査>第15回出生動向基本調査」も「社会的お膳立てシステム」の存在を裏付けている。1940年はお見合い結婚の割合が69.1%、恋愛結婚が14.6%であった。それ以降お見合い結婚の割合は減少し続け、2015年は5.5%、対して恋愛結婚が87.7%。研究所の調査を待つまでもなく誰もが今は恋愛結婚の時代だって思っているけど、統計からもわれわれの実感は裏付けられる。

 

同調査によると未婚率は過去最高を記録したのだが、今だって結婚したいかしたくないか、と聞かれたら「いずれ結婚するつもり」と答える人がほとんど。

 

未婚者の生涯の結婚意思

男性   1987 1992 1997 2002 2005 2010 2015
  いずれ結婚するつもり 91.8 90.0 85.9 87.0 87.0 86.3 85.7
  一生結婚するつもりはない 4.5 4.9 6.3 5.4 7.1 9.4 12.0
  不詳 3.7 5.1 7.8 7.7 5.9 4.3 2.3
女性                
  いずれ結婚するつもり 92.9 90.2 89.1 88.3 90.0 89.4 89.3
  一生結婚するつもりはない 4.6 5.2 4.9 5.0 5.6 6.8 8.0
  不詳 2.5 4.6 6.0 6.7 4.3 3.8 2.7

出所:国立社会保障・人口問題研究所「2015 年社会保障・人口問題基本調査 <結婚と出産に関する全国調査>第15回出生動向基本調査」、4頁。

 

 

だけど、生涯未婚率は過去最高を記録している。二択になればしたいと答える人が多いが、結婚に踏み切る人の割合は減少している。

 

なぜなのか。

 

荒川氏はお見合い・職場恋愛等の「社会的お膳立てシステム」の衰退とハラスメント未然防止のためデートに誘いにくくなったからだと言う。荒川氏の著書「超ソロ社会」には他の要因も書いてあるのだろうが、私としてはそれに加えて結婚のコストが上がったことがあると思っている。

 

超ソロ社会 「独身大国・日本」の衝撃 (PHP新書)

超ソロ社会 「独身大国・日本」の衝撃 (PHP新書)

 

  

モラハラという妖怪が徘徊している 

最近、恋愛や結婚と言うと、すぐに連想するのがモラルハラスメントモラハラだ。では、どういう行為がモラハラになるのか。下記のサイトから家庭でモラハラと認定されうる行為を列挙しよう。

 

business-textbooks.com

  

  1. 家事や育児の否定
  2. 見下した発言や態度をとる
  3. 気に入らないことがあれば暴言を吐く
  4. 過去の失敗を責め続ける
  5.  離婚や養育権、経済力を武器に相手を脅す
  6. 舌打ちをする、無視する
  7. 常にイライラしている
  8. 人前で馬鹿にする
  9. 物にあたる
  10. 悪口を言う
  11. 責任転嫁し人のせいにする
  12. 自分の非を認めない

 

暴言や経済力を武器に脅す、のように誰もがモラハラ認定するものもあれば、え、この程度でも、思うようなものも入っている。

この程度でも、というよりはモラハラとセーフとの境界線がわかりにくい、と言ったらいいかな。現実にはよほどひどくなければ一回や二回程度は許されることのほうが多いと思う。でも、よほどひどい、にせよ、どこからが常習性あり、にせよ、モラハラとセーフとの線引きは難しい。

 

たとえば、悪口を言う。

 

言わないほうがいいと思うけど、全く悪口を言わないで一生を終えることなんてあるだろうか。多少なら許される、にしても、じゃあ、どこまでがイエローカードで、どこからがレッドカードかなんて、全然わからない。悪口言うな、というのは理解はできるし、そりゃ、言わないほうがいいけれど、実践しようと思うと聖人君子にならないといけないような、かなりすごいことを要求されているような気がする。

逆に悪口を言ったと受け取られると、相手に「はーい、悪口言った。モラハラー」と言われ、言い争いの中身とは関係なく口を封じられてしまいそうだ。黄門様の印籠のように。

 

モラハラ、という言葉を作った人に悪意はないと思うし、DV同様、外部からは見えないところで行われる陰湿な暴力を告発したかったのだと思う。だけど、最近この言葉が一人歩きしていて、ただでさえハラスメントが増えてやりづらくなった人間関係をさらにぐちゃぐちゃにしているように思うんだよな。

 

とにもかくにも、程度はともかく、世の中にモラハラというハラスメント行為が存在し、しばしば家庭でそのハラスメントが行われるということはかなり認知されている。

 

認知度が上がれば、ハラスメントの防止と発生した場合の告発につながる。いいことだ。でも、あんまりギチギチ言いすぎると、人間関係がめんどくさくなって、濃密な人間関係の最たるものである結婚のコストを引き上げる、というマイナスの効果、というか副作用が出てきてしまう。

 

さらに言えば、ちょっとした悪口が家庭内で飛び交うだけでも、「うちの家庭はおかしいのではないか、普通ではないのではないか、問題があるのではないか、相手はモラハラなんじゃないか」と感じてしまって、うちの旦那・妻はモラハラ夫(妻)だと思ってしまうと、何やら相手の人格自体に問題があるような気がして、別に問題がなかったり、あったとしてもちょっとした努力で改善できるような場合でさえ、関係修復を難しくしてしまうと私は思うのである。

 

いくらモラハラがよくないにしても、見下した発言をする、暴言を吐く、舌打ち、無視、イライラ、悪口を言う、物にあたる、責任転嫁する、自分の非を認めないといった行為がまったく発生しない関係は相当珍しいのではないか、と思う。

モラハラはいけないというが、喧嘩は禁じられていない。じゃあ、喧嘩をする中で、上記に挙げた行為をまったくしない恋人・夫婦というのはどのくらいいるものなのか。ほとんどいないはずだ。

 

喧嘩できて、互いに文句を言える状態ならモラハラじゃないんだろう。相手を恐怖させて反論できないような関係でこそモラハラが発生する。

 

でも、Google検索で上位に表示される先のサイトにそんなことは書いていない。あくまで、該当しうる行為が列挙されているだけ。モラハラという言葉が生まれた背景やそもそもの定義なんて置き去りにされて、モラハラという言葉と上辺の行為だけが一人歩きしているのだ。人口に膾炙するモラハラの多くは、当初の定義からかけ離れた実態のないもの、妖怪みたいなものなんじゃないのか。

 

誤用だろうがなんだろうが、それでも言葉だけは広まる。広まれば、どうしたって影響が生じる。

 

モラハラという言葉が適切に使われるならいいけれど(もっともどこまでが適切な範囲なのかの判断はとても難しいのだが)、わずかでも発生したらうちは問題を抱えている!という判断に至ってしまうのであれば、恋人関係や家族関係は地雷原の中にいるようなものでしょ。

 

誰がすき好んでそんな関係に入りたいと思うだろうか。本来は安息の地であるはずの恋人・家族関係が気苦労の耐えない空間となる。

 

そんなものはもはや重荷であって、コストでしかない。ただでさえ昔に比べて従わなくてはならないルールが増えたのだ。今だったらセクハラやパワハラに認定される行為が過去は許されていた。昔の人は昔の人で苦労もあっただろうが、昔の基準に基づいて今の世代の草食化や意気地のなさを責めるのは明らかに筋違いである。

 

未婚・晩婚を個人の責任にするのはおかしい

未婚・晩婚の原因を個人の責任に求めるなら、こうなるだろうか。 

 

思いを寄せる人に自分の思いを打ち明けたいと思う。しかし、自分の思いを打ち明けても、受け止めてもらえないという事実に直面することを怖れる人がいる。そのような人は、自分の気持ちを打ち明けようとはしない。傷つくことを恐れるのだ。何もいわなければ、相手に自分の気持ちは伝わらない。だが、その人とは関係が生じることもないのだから、傷つくこともないのである。

自分の思いを打ち明けられないと思うための理由はすぐに見つかる。自分のことを自分でも好きとは思えないのだから、他の人が自分のことを好きになってくれるはずがない、そう考えればよいのである。

自分のことを好きになれないことの理由もすぐに見つかる。子どもの頃、親から受けた教育を理由にすることができる。実際には、子どもの頃に受けた教育が対人関係に入れないことの理由ではないにもかかわらず。

恋愛関係に入れない理由を自分に価値がないことではなく、相手に求めることもある。運命的な出会いがないという人は、本当は自分の人生を変えるような出会いをしても、それに気づかないだけである。結婚に憧れている若い人から運命的な出会いがないという話をよく聞くが、そのような人は、出会った人を結婚するパートナーの候補者から外すためにそういっているだけである(下記書、87-88頁)。

 

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)
 

 

この発想自体は面白いし、なるほどと思う。ちなみに冒頭の国立社会保障・人口問題研究所の調査結果だと25歳から34歳までの独身者が結婚できない一番の理由として挙げるのが男女ともに「適当な相手にめぐり合わない」であるが(男45.3%、女51.2%)、もしかしたら岸見氏がいう通り、(もしかしたら本人も気づいていないうちに)いい人がいない、ことを結婚しないことを正当化するために使っているのかもしれない。 

 

しかし、個人の責任はあるにしても、未婚・晩婚が世の中の風潮として定着しつつあるなら、個人の責任には還元できない社会的な要因があると考えるほうがまっとうだと私は思う。

 

恋愛関係・夫婦関係になったらモラハラに気をつけろ!と言われる世代の人たちにとって、そしてモラハラ認定されると相当なバッシングを受けると感じている世代にとって、恋愛や夫婦は幸福のための手段というより日々採点をつけられる息苦しい場だと恐れても責められないんじゃないだろうか。

 

昔だって人付き合いのめんどくささはあったはずだ。だが、結婚しないと世間からの視線が厳しいという未婚のコストがそれ以上に大きかったし、お見合い等の結婚を斡旋する仕組みが世の中にあったから結婚を選択した人が多かっただけ。

 

今ではお見合い等の結婚斡旋の仕組みが壊れ、そもそも結婚しろ、という圧力も減ってきている。昔が結婚しすぎていただとすれば、当然結婚する人は少なくなるよね。

 

ややオーバーな言い方をすれば、モラハラはいけないにしても、なんの問題も発生してはならない、と感じてしまうような潔癖社会はどうにかならないものだろうか。ちょっとくらい問題があっても構わない、と思えるほうが新たな人間関係をつくりやすくなるのではなかろうか。人付き合い=ハラスメントの地雷原という風潮がなくならない限り、未婚・晩婚の流れは止まらないだろうなあ、と私は思うんだよね。

 

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幸福であるためにはツライ道を歩く覚悟が必要なのか??

 

岸見一郎『幸福の哲学』 

今回読んだのは、アドラー心理学で話題の岸見一郎氏の著作である。

 

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

 

  

自己啓発本を手に取る理由

自己啓発本を手に取るのは現状をよくしたいと思っているからだ。自分の能力を向上させたり、人間関係をどうにかしたり、自分の感情をコントロールできるようになりたいのは、そうすることで様々なストレスから解放され、(それが仮にあるとして)本来あるべき自分を獲得し、換言すればそうなることで幸せな人生を歩みたいと思うからだ。

 

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幸福であるというのはある時点での状態を指す。他方で、そこに至るまでの道のりやそれを維持するための努力はプロセスである。従ってある時点で幸福を達成しても、そこまでの道のりが幸福に満ち溢れているとは限らないし、一度ある時点で幸福になったとしても、その状態が永遠に続くことは約束されないとも考えられる。

 

幸福であるには、自分が自由意志に基づく選択でそれを成し遂げなければならない。しかし、自由意志に基づく選択が幸福をもたらすとは限らない。人間は選択に際してあらゆる情報を入手し、無限の時間を使って、あらゆる選択肢を検討して決定できるわけではない。それゆえ選択がうまく行くとは限らないし、むしろ失敗することのほうが多いかもしれない。

 

自分で選び、たとえそれが不幸を招いたとしても、その責任を自分で納得して受け入れるというのは大変なことだ。だからこそ、人はその責任を回避するために運命論を信じたり、外部のせいにしたり、他者に選択自体は委ねたりすると、岸見はいう。

 

自分で選ぶことにはリスクがあると知った人は、主体的に選択することを断念するか、ためらうだろう。そして、誰かが決めたことに従う。そうすれば、後に何か問題が起こったとしても責任を免れることができるからである。

自分で選択したことがうまくいくとは限らない。むしろ、うまくいかないことを予想するからこそ、自分では選択しようとしない人がいるのだが、私には、後になって実際うまくいかなくなった時、他者に選択を委ねたためにうまくいかなかったのでは、そのことに納得できるとは思われない。自分で選択したことであればこそ、どんな結末になってもそれを受け入れることができる。

(中略)

人は過去に経験した出来事や、まわりからの影響を受けるだけの存在(reactor)ではない。自由意志で自分の人生を決めていくことができる存在(actor)である。間違うことがあっても自分の人生を選び決められると考えることで、人間の尊厳を取り戻すことができるのだ(113-114頁)

 

尊厳と快適さと幸福感

しかし、尊厳と快適さが両立するとは限らない。たとえば日本がものすごい資源国だったとして、そして常に名君に治められるとして、誰も税金を払わず、社会保障はおろか、あらゆる公共サービスは無料で、日々の生活や娯楽まで政府が保証してくれる、しかし、その代わり政治への参加権はないと仮定しよう。

 

絶対に快適で、おそらく幸福感も得られよう。しかし、自分の生活にも関わりある政治に参加できないのはある種の自己決定権を奪われるのと同義であり、人としての尊厳を失うのだ、と主張する人も現れよう。

 

実利的な幸福と尊厳的幸福があり得ようが、後者はいってみればマトリックスの世界でモーフィアスに無理やり現実の世界に連れてこられたアンダーソン(ネオ)のようなものであり、尊厳はあるかもしれないが、快適な生活とは程遠い。

 

 

幸せになるために自己決定は必要だ。しかし、その決定が正しく行えるとは限らないという。いずれは幸福になれるかもしれないが、そこに至るまでには多くの自己選択が伴うのであり、おそらくは自己選択による失敗と苦痛も伴うのだ。仮に幸福というものがあっても、そこへ至るまでの道のりは辛く厳しいものになる。

 

その覚悟なく幸せを語るのは、むしろ幸せにたどり着けないことを言い訳に、いつまでも自分を甘やかす行為なのだろう。まだ本来の自分じゃないんだから、しょうがないじゃないかと。

 

幸せとは逃避の先にはなさそうだ。幸福になるには自分の選択を受け入れるだけの強さが必要なのだ。

幸せとは甘えや居心地のよさではなく、たゆまぬ努力と行動の先にしかないのやもしれない。

 

しかし、そうであればなかなか幸福までの道のりは遠いなぁ、と途方に暮れてしまう。「ただ阿弥陀如来の働きにまかせて、すべての人は往生することが出来る」とする浄土真宗的な幸福到達論はないものだろうか??

 

浄土真宗 - Wikipedia

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自由と承認の間

 

 

山竹伸二氏『「認められたい」の正体』

今回読んだのは山竹伸二氏の『「認められたい」の正体』である。

 

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

 

 

幸せと人との関わりとその葛藤

 幸福のかたちは人それぞれあるだろうが、良くも悪くも人との関わりがその人の幸福感に大きな影響を与えることは間違いない。そして、願わくば世間から、さらに言えば自分が大切にしている人からあなたは素晴らしいと承認してほしいと思っている。

 

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「人からの承認」、これが幸福感に大きな影響を与えるわけだが、現実世界において自分の理想通りに承認を得ることは難しい。そもそも誰だって他人に常に集中力100パーセントで関心を向けられるわけではない。自分だって、常に他人ばかりを気にかけているわけにはいかないから、仮に誰かから褒めてほしいって求められていても自分がそれに応えているとは限らない。

 

こういった人間のある種の能力的な限界に加えて、そもそも相手や社会から承認を得るには承認を求める側の努力が必要であって、ときには自分がそこまで気の進まないこともやらないといけないという問題がある。

 

承認を求めることと自分がやりたいことが重なっている場合は問題ない。しかし、そんなことはほとんどない。わかりやすい例でいえば、気に入られようとして、行きたくもない飲み会に行ったり、残業に付き合ったりすることなどはその顕著な例であり、それもたまにぐらいであれば問題ないかもしれないが、しょっちゅうでは身体も精神も悪くなろう。

 

現代の承認欲求 

別に他者からの承認を欲するのは現代だけではない。昔だって認めてほしいと思っていたはずである。では、現代と過去の違いはどこにあるかといえば、それは承認獲得の容易さである。

山竹は次のように言う。

 

なるほど、社会に共通した価値観が浸透し、個人の役割も固定されている場合、そこに生きる人々はその価値観に照らして自らの価値を測り、その役割にアイデンティティを見出している。多くの人間が同じ価値観を信じている社会では、その価値観に準じた行為は周囲から承認され、異を唱えられることはない。したがって、そのような行為において他者の承認を強く意識する必要はなかった、と考えられる。

たとえば、キリスト教の価値観が浸透した社会なら、神を信仰する敬虔な態度は周囲から承認されるはずだが、当人は周囲の承認など気にせず、その価値観を信じ込んでいるだけだろう。いかに苦しい生活を強いられていても、そこに承認不安は生じない。

しかし、社会共通の価値観が存在しなければ、人間は他者の承認を意識せざるを得なくなる。誰でも自分で信じていた価値観や信念、信仰がゆらげば、自分の行為は正しいのか否か、近くにいる人に聞いてみたくなるものだ。自己価値を測る基準が見えなくなり、他者の承認によって価値の有無を確認しようとする。こうして、もともと根底にあった承認欲望が前面に露呈し、他者からの直接承認を得たいという欲望が強くなる(132頁)

 

多様な価値観があり、かつどれを信奉するか問われないということは、自分で好きに選べるということである。

たしかに自分で選べるというのは素晴らしいことだと思う。しかし、実際に選ぶのは大変だ。2種類しかメニューになければ選ぶのは簡単だが、 無限のメニューを提示されればかえって何をどの基準で選んでいいかわからなくなってしまう。

 

自分の選択の正しさを信じるのはとても難しいことだ。さらにいえばどんな選択をしても、人生において苦難に直面しないことなんてない。もしそんなことがあるとすれば、それはよほどの超人か、人生何にも挑戦しなかったから、結果苦難に直面しなかったにすぎない。

 

苦難に直面すれば誰だって自分の選択を信じられなくなる。それでも神との対話によって正しい道が示されるなら、その葛藤はやがて解決しよう。しかし、現代では神はもはやその圧倒的な存在感を失った。自分が不安を抱いた時、それを解消してくれるのは得てして傍にいる人たちからの承認である。

反対に言えば、承認が得られなければその不安感は解消されず、いざというときに承認を得られるよう、周囲の人への心配りが必要となり、それが度を過ぎれば負担となって、むしろ自分が抑圧されてしまう。

 

いわば、承認と自由はシーソーのようなもので、いずれかに重みがかかりすぎればバランスが崩れてしまう。真ん中の承認と自由が均衡する点に常に位置できるようになればこの葛藤から脱出できるのかもしれないが、現実には承認と自由の間を行ったり来たりして、シーソーが絶えずどちらかに傾いている状態なのだろう。

 

均衡点に居続ける方法を見つけるか、それとも行ったり来たりしている現実をむしろ積極的に受け入れるのか。どちらの選択がより人を幸福にするのだろうか。

 

❇︎本記事は、私の別のブログで書いたものの転載です(そのブログを閉鎖したため)。

 

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幸福論:生化学vs認知論

 

 

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幸福の個体差

自己啓発本を読むのは成長したいからであり、最終的にはそれによってよりよい人生を歩んだり、幸福になりたいと思うからである。

 

しかし、自己啓発本を読んで同じことを実践して、同じだけの達成度を得た場合、人は同じだけの満足感や幸福感を得るのだろうか。要するに人による「個体差」はあるのか、仮にあるとしたらその個体差をもたらす要因は何であろうか?

 

自己啓発本ではないが、本書は幸福についていろいろ考えさせられることを書いている。

 

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

 幸福論:生化学と認知論

ここに二つの対立する軸がある。すなわち生化学と認知論の二つである。

 

生化学は人が幸福をどう感じるかは遺伝子的に決定されていると主張する。仮に幸福度を10段階に分けられるとして、割に幸福度8とか9とか高いレベルで感じやすい人と、外から見ればとてもいいことがたくさん起きているにもかかわらず、幸福度を5程度にしか感じられない人がいるという。幸福感を得難い遺伝子的特徴を持つ人間は宝くじに当たったり、世界平和のような偉業を成し遂げたり、世界でもっとも美しい(ハンサム)なパートナーと結ばれても得られる満足感は乏しいことになる(Kindle版 pp.7312-7401)。

 

この考えは自己啓発本の存在意義を奪うアイデアだ。結局何をやろうが遺伝子的に幸せになれないことがプログラミングされており、そのプログラムを書き換えられないのであれば、いつか自分は変われると信じて努力することにもはや何の意味もない。

もし解決法があるとすれば、それは遺伝子治療であり、技術的に可能ならば、手術によって遺伝子自体を完全に変えてしまえばいいということになる。それが出来ないとしても、セロトニンドーパミンのような人を快楽にさせる成分を注入させてしまうのが最も確実で手っ取り早い方法だ。人間の自由意志に基づいて努力させるなんてことは迂遠で不確実な方法である。

 

普通は自分の遺伝子がどの程度幸福を感じやすくできているなんて知り得ない。そのため、幸福感を得難い遺伝子を持つ人は普通の刺激では幸福を感じられない以上、より強い刺激を求めるようになる可能性が高い。

 

数多の宗教家は生物学的には遺伝子的に幸福感を得難い人たちだったのかもしれない。彼らは人によっては富もあり、モテたかもしれず、趣味もあってとてもリアルが充実していたことだろう。しかし、それほどまでに恵まれていたとしても、なかなか幸福感を得られないとすれば、彼らはその理由を探そうとするわけで、よさらなる刺激を求めて、極限の飢餓状態になろうとしたり、痛みを伴うようなことに走ったのやもしれない。刺激が必要だからこそ、エクストリームな人生を追及したとも考えられそうだ。

 

他方で、人間の認知や意義付けが幸福感に影響するという立場もある(Kindle版pp. 7415-7445)。

本書では子育てが例として挙げられていて、子育てに伴う活動、ご飯食べさせたり、排泄物を交換したりといった作業一つ一つを見ると、けっこう手間だったりして人の幸福感を下げそうなことが多い。それらに要する時間的総量もけっこうなものになる。

 

では、子育てしている人の不幸感が増大するかといえばそうではなく、得てして自分の幸福は子供のお陰と考えている。単に投入した時間を積み上げれば幸福感を減損させても不思議でない行為の積み重ねにもかかわらず、活動によっては不幸どころか人が幸せにするのだ、と逆説的なことが言えそうである。

 

この矛盾は何なのかといえば、幸福というのは活動それぞれから得られるプラスの感情、マイナスの感情の足し算で決まるのではなく、自分が意義があると考えていることに充足感があれば幸福と感じるということになる。子育てで必要な一つ一つの活動は外部から見れば不快に思うようなことでも、当人たちが子育てに意義を見出していれば、当人たちの幸福感が高まるのである。人生の意義を見出し、その意義に沿うような感覚が得られればその人の幸福感は高まるのである。

 

客観的な幸福と主観的な幸福 

実際はこの二つの中間あたりに真実があるのだろう。遺伝子的に決定される部分があってその人の幸福感認知範囲が限定されていたとしても、認知的な満足感によって、範囲の中でより高い幸福感を得やすくなる。

遺伝子的に幸福度を4〜7で感じやすい人がいるとした場合、その人が4の幸福度を得やすいか、それとも7の幸福度を得やすいかは、その人の主観的な要素に委ねられるのだ。

 

幸福とは客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる(Kindle版 p.7249)

 

したがって、主観的な幸福感を追及する努力は決して無駄ではないということになる。あとはそれがいかにして獲得できるかだ。

 

その点、現代社会は中世よりも不利である。生活環境だけを見れば現代の日本のほうが圧倒的に幸せといえる。しかし、幸福感という点ではどうであろうか。かつては幸福を自分の自由意志で判断する必要はなかった。代わりに宗教の教えがあるべき人間像を提示してくれた。聖人のようにはなれなくても、経典の教えに従えば幸せになれたり、人間として立派になれるとされたのだ。

 

だが、現代は宗教の教えを信じていれば事足りるほど単純な世界ではないし、宗教を信じない自由が与えられている。自由を得た反面、われわれは自分たち自身で幸せを見つけなければならない。

 

見つかればいい。しかし、幸せは自分自身で判断すればいいと言われても本当に自分が幸せかどうかを判断する基準なんてないからわれわれは迷うし、不安になるのだ。早くセロトニンドーパミンをうまく打って簡単に幸せになれる社会が来ればそれが一つの理想郷なのかもしれない。

 

ただその社会が到来するまではわれわれはあれやこれや悩んで、自己啓発本を手にとって、それでもなお悩むのだろう。

 

人生は悩みだらけ。そう割り切ることも必要なのだ。現時点でわれわれは幸福になるために遺伝子手術はできないのだから。

 

 

❇︎本記事は、私の別のブログで書いたものの転載です(そのブログを閉鎖したため)。

 

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自分らしく生きるための権力論

 

 

幸福になるために必要ながら、構築するのが難しいのが人間関係 

 

 

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個人の幸福感は少なからず人間関係の満足度に左右される。幸福感と言うと大げさであれば、日々の生活や仕事での快適さは人間関係によって、良くもなれば悪くもなる。日々のストレスの多くは人間関係に由来すると言ってもいい。アドラーは人間関係が幸せになるためのキーと言っているわけだから、それこそ人間関係をいかに形成するかは非常に重要な問題と言える。

 

しかし、この人間関係の構築というのが厄介だ。何が最も厄介かと言えば、相手の脳みその中身が読み取れないからだ。相手とコミュニケーションを取るが、相手の意図が発言として常に表出されるわけではないし、表出された言葉が全て相手の本心とは限らない。意図の伝達について、岡本は以下のように整理している。

 

ことばによる発話によって話し手から聞き手に何かが伝わったときに、半しての意図をどの程度示すかに関して、意図が明確な場合から、全く意図がない場合まで色々なケースがあるだろう。それを次のように分けてみる。話し手が心に抱いたことが聞き手に理解される場合に関しては、次の四パターンがある。

①表現通りにはっきりと 分からせる(表意を意図明示:伝達意図、情報意図あり)

②推測を通じてはっきりと分からせる(推移を意図明示:伝達意図、情報意図あり)

③それとなく示して推測させる(隠意を暗示:伝達意図なし。情報意図あり)

④伝えるつもりがなかったのに、伝わってしまう(見破られ:伝達意図、情報意図なし)

話し手は自分の意図をこのように色々に捉えているし、聞き手も話し手の意図をいろいろに解釈するだろうというわけである。

(下記書籍、102-103頁)

 

悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

悪意の心理学 - 悪口、嘘、ヘイト・スピーチ (中公新書)

 

 

相手の意図が言葉ですべて表明されるのであれば人間関係はだいぶ楽になるに違いない。ギスギスした関係になる可能性もありうるが、相手が何を考えているのか深読みする必要はなくなる。相手が何を考えているか正確に読み取れず、本心では自分のことを嫌っているのではないかとか、いろいろ勘ぐってしまうからこそ人間関係は時に重荷になるし、そこから離れたくもなる。他方で、どんな相手・状況でもああだこうだ考えずに自分の立場を貫けるなら、それはそれで楽に人生を生きられよう。

 
自分らしくいるために

はてブロもそうだが、最近は自分らしく生きたいという意見が多い。

 

私も自分らしく生きたいと思う。できることなら。

 

そもそもどういう状態が自分らしいといえるか、という根本的問題があるが、とりあえずここではその問題はさておいて、人間関係構築は大変という大前提を踏まえた上で、どうすれば自分らしく生きられるのだろうか少し考えたい。

 

自分らしく生きるためには、相手から自分らしく生きることに同意してもらわなければならない。しかし、全ての人が自分らしく生きようとすればかならず摩擦が生じるだろう。摩擦が生じた場合、どちらの自分らしさを優先するか決めなければならない。

一つはそもそも摩擦を避けるために完全なる孤独を選択することだ。摩擦は人間関係によって生じるわけだから、人間関係を断てば自ずと摩擦も消滅する。

人間関係を維持しながら自分らしく生きるにはどうしたらいいか。上にも書いたが、そのためには相手から自分らしく生きることに同意してもらわないといけない。特に自分らしく生きることが、相手の自分らしく生きることを阻害する場合、自分が自分らしく生きることを優先してもらわないといけない。

そのためには権力関係において自分が相手より優越していることが必要である。別の言い方をすれば、相手が自分に依存しているときに、相手からの譲歩を引き出せる。相手がこちらを必要としているのだからこそ、こちらのワガママを聞き入れてくれるのである。

たとえば、売れっ子作家や芸術家のようにその人でないと出来ないことがあると、相手は自分に頼らざるを得ないため、その人は自分らしさを貫きやすくなる。

 作家や芸術家には破天荒な性格の人がいて、それはだいたいその人の天才性を示すエピソードとして語り継がれるが、その人がそうした振る舞いを貫き通せたのは、発注者がその人以外に頼める人がいないから、様々な理不尽を耐えたのである。その作家や芸術家が自分らしく振る舞えたのはそれを相手が許容せざるを得なかったという権力関係が存在することを忘れてはならない。

 

とすると、自分らしく生きたい人がどうすればいいかといえば、その人に頼まざるを得ないような能力や価値を獲得するか、自分より劣る人たちで構成されたコミュニティで生きることを選択するかのいずかになろう。前者のほうがより前向きとも言えそうだが、鶏口となるも牛後となるなかれ、という諺があることからすれば、後者の生き方も十分検討に値するといえそうだ。

 

前者を選びたいのなら、余程の天才でもない限りかなりの努力が必要となる。したがって、もし、自分らしく生きたいという意味が、嫌なことや大変なことはしたくないという意味であれば、その人は自分らしく生きたいという願望をさっさと諦めるべきである。

 

❇︎本記事は、私の別のブログで書いたものの転載です(そのブログを閉鎖したため)。

 

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指針なき時代を生きる

  

遠藤周作氏の幸福論 

遠藤周作氏は次のように言う。

 

周知のように印度人の八〇パーセントを占めるヒンズー教徒は一生を四つの時期にわけるという。

(中略)

そして更に人生の老いに入ると、この世にたいするすべての執着を捨てて、聖地を巡礼して歩く時期がくる。これを遊行期とよぶ。

(中略)

私も数年前、印度を旅している時、そのような年寄りに何回も会った。彼は家を出て聖地巡礼を始めてから既に二年が過ぎた、と語っていた。文字通り、老年を宗教的精進に捧げているらしかった。そして死が近づけば聖なるガンジス河のほとりに行き、そこで自分の遺体の灰を河に流してもらうのが人生の目的だと答えた。

正直、私はその時、自分の人生と彼の人生とを比較して、その大きな違いにびっくりした。しかし歳月がたって時折、その老印度人のことを思い出すと、一体どちらが幸せなのかなぁと考えるのである。

もちろん私は年をとって、死ぬまでに孤独に聖地を巡礼してまわることなどできっこない。しかしあの老人にはヒンズー教徒なりに確たる人生の原則があり、それの則って生きることを疑わぬ幸福があった。そうでなければあのようにホームレスの生活を二年も続けられる筈はないからである。

また私は日本の老人の心にからまる孤独や寂しさや愛のなさを考える時、彼等とあの印度の老人との、どちらが(本当の意味で)幸せかを比較する。そのいずれかが本当に幸せなのか、正直わからない。しかし富ながら生きる意味も目的も多く失ってしまった日本の老人と、生活的にはみじめなほど貧しいが何かを信じ、自分の老いに方向と意味とを持つ印度の老人をくらべる気持はやはり心の底に残っているのである(遠藤周作「富める者と貧しい者」『心の航海図』135ー137頁。

  

心の航海図

心の航海図

 

 

先進国の人間が途上国の、特にそこに住む貧困者に自分たちの持っていないものを見出して羨やむことはよくある。貧困者は富者が忘れてしまった本当の幸福を知っている、目が輝いているなどと褒めそやす言説はそこかしこに溢れている。お金を捨て去るのは簡単なことだから、そんなにそこに本当の幸福があると思うのなら、そこに住んでしまえばいいのに、と思う。お金がもったいないと思うのなら、途上国の貧困者に立場を交換しようと交渉してみればいい。彼らは喜んでその取引に応じてくれるだろう。 

 

幸福を左右するのは貧富ではなく指針を持ってるかどうか

前置きが長くなったが、ここでしたいのはそうした揚げ足取りではない。異議を唱えたいのは、むしろ彼の区分方法にある。

 

彼は金持ちと貧乏人と人を区分し、貧乏人に本当の幸福を見出している。しかし、より重要なのはその人が生きる上での指針を持っているか否かであると思う。インド人であればヒンドゥー教がそれに当たる。

 

人生にどのような意味を見出すか、どのように生きるべきか、その目指すべき方向を見出すのはとても難しい。宗教はしばしばそのための指針を提供してくれる。もちろん、その教義を正しく実践できているか、悩みや葛藤はあるだろう。しかし、教えそのもの、すなわち目指すべき方向性それ自体が疑われることはない。

 

他方で、現代の日本人が悩むのは、そもそもどこへ向かうべきなのか、自分の生き方はこれで正しいのか、それを測るべき指針や評価基準が存在せず、自分の人生の正しさをどう捉えていいかわからないことにあるのだと思う。先のインド人の例に即せば、たとえ裕福であってもヒンドゥー教に深く帰依していれば、とても幸福に見えるのではないだろうか。

 

われわれが生き方に悩むのは、宗教や特定の価値観から解放されたことの裏返しである。われわれは自由を獲得した。少なくとも特定の宗教を強制されることはない。

しかし、自由は不安も伴う。誰も正しい生き方を教えてはくれない。好き勝手に堕落した人生でも気にしない、と悟れればよい。しかし、実際は有意義な意味ある人生を送りたいと多くの人は感じる。だが、そもそもどのような人生が有意義で意味ある人生といえるのか、仮にそうしたものがあるとして、どのようにそれを達成すればいいのか、誰も教えてはくれない。

 

指針がなく漂流せざるを得ないことがわれわれを悩ませるのであり、それゆえにその道を示してあげようと手招きする自己啓発本にわれわれは手を出してしまうのである。

 

❇︎本記事は、私の別のブログで書いたものの転載です(そのブログを閉鎖したため)。

 

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