猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

指針なき時代を生きる

  

遠藤周作氏の幸福論 

遠藤周作氏は次のように言う。

 

周知のように印度人の八〇パーセントを占めるヒンズー教徒は一生を四つの時期にわけるという。

(中略)

そして更に人生の老いに入ると、この世にたいするすべての執着を捨てて、聖地を巡礼して歩く時期がくる。これを遊行期とよぶ。

(中略)

私も数年前、印度を旅している時、そのような年寄りに何回も会った。彼は家を出て聖地巡礼を始めてから既に二年が過ぎた、と語っていた。文字通り、老年を宗教的精進に捧げているらしかった。そして死が近づけば聖なるガンジス河のほとりに行き、そこで自分の遺体の灰を河に流してもらうのが人生の目的だと答えた。

正直、私はその時、自分の人生と彼の人生とを比較して、その大きな違いにびっくりした。しかし歳月がたって時折、その老印度人のことを思い出すと、一体どちらが幸せなのかなぁと考えるのである。

もちろん私は年をとって、死ぬまでに孤独に聖地を巡礼してまわることなどできっこない。しかしあの老人にはヒンズー教徒なりに確たる人生の原則があり、それの則って生きることを疑わぬ幸福があった。そうでなければあのようにホームレスの生活を二年も続けられる筈はないからである。

また私は日本の老人の心にからまる孤独や寂しさや愛のなさを考える時、彼等とあの印度の老人との、どちらが(本当の意味で)幸せかを比較する。そのいずれかが本当に幸せなのか、正直わからない。しかし富ながら生きる意味も目的も多く失ってしまった日本の老人と、生活的にはみじめなほど貧しいが何かを信じ、自分の老いに方向と意味とを持つ印度の老人をくらべる気持はやはり心の底に残っているのである(遠藤周作「富める者と貧しい者」『心の航海図』135ー137頁。

  

心の航海図

心の航海図

 

 

先進国の人間が途上国の、特にそこに住む貧困者に自分たちの持っていないものを見出して羨やむことはよくある。貧困者は富者が忘れてしまった本当の幸福を知っている、目が輝いているなどと褒めそやす言説はそこかしこに溢れている。お金を捨て去るのは簡単なことだから、そんなにそこに本当の幸福があると思うのなら、そこに住んでしまえばいいのに、と思う。お金がもったいないと思うのなら、途上国の貧困者に立場を交換しようと交渉してみればいい。彼らは喜んでその取引に応じてくれるだろう。 

 

幸福を左右するのは貧富ではなく指針を持ってるかどうか

前置きが長くなったが、ここでしたいのはそうした揚げ足取りではない。異議を唱えたいのは、むしろ彼の区分方法にある。

 

彼は金持ちと貧乏人と人を区分し、貧乏人に本当の幸福を見出している。しかし、より重要なのはその人が生きる上での指針を持っているか否かであると思う。インド人であればヒンドゥー教がそれに当たる。

 

人生にどのような意味を見出すか、どのように生きるべきか、その目指すべき方向を見出すのはとても難しい。宗教はしばしばそのための指針を提供してくれる。もちろん、その教義を正しく実践できているか、悩みや葛藤はあるだろう。しかし、教えそのもの、すなわち目指すべき方向性それ自体が疑われることはない。

 

他方で、現代の日本人が悩むのは、そもそもどこへ向かうべきなのか、自分の生き方はこれで正しいのか、それを測るべき指針や評価基準が存在せず、自分の人生の正しさをどう捉えていいかわからないことにあるのだと思う。先のインド人の例に即せば、たとえ裕福であってもヒンドゥー教に深く帰依していれば、とても幸福に見えるのではないだろうか。

 

われわれが生き方に悩むのは、宗教や特定の価値観から解放されたことの裏返しである。われわれは自由を獲得した。少なくとも特定の宗教を強制されることはない。

しかし、自由は不安も伴う。誰も正しい生き方を教えてはくれない。好き勝手に堕落した人生でも気にしない、と悟れればよい。しかし、実際は有意義な意味ある人生を送りたいと多くの人は感じる。だが、そもそもどのような人生が有意義で意味ある人生といえるのか、仮にそうしたものがあるとして、どのようにそれを達成すればいいのか、誰も教えてはくれない。

 

指針がなく漂流せざるを得ないことがわれわれを悩ませるのであり、それゆえにその道を示してあげようと手招きする自己啓発本にわれわれは手を出してしまうのである。

 

❇︎本記事は、私の別のブログで書いたものの転載です(そのブログを閉鎖したため)。

 

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