猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

知性主義はカッコよくなれるのか?そしてフォロワーを獲得できるのか??

内田樹編著の『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)読んだ。

反知性主義についてこれまで知らなかった私にとってとても勉強になった本だが、一方で知性主義者(彼らは否定するだろうが著者たちを知性主義と仮定した場合)になりたいとも思わなかった。

 

理由は単純だ。圧倒的にかっこ悪いからだ。

 

内田の定義によると、知性とは「知の自己刷新」のことであり、反対に反知性主義(者)とは、すでに正解を知っていたような気になっていて、自身の考え方をいささかも変える気がない人たちのことを指す。反知性主義者か否かはその人の持つ知識の量によって決まるのではなく、一般的に知識人とされる人も(こそ)反知性主義に陥りやすい。

 

さらに内田は、知性というのは個人ではなく、集団として発動されるもので、ある人がいると彼(女)の属する集団全体の知的パフォーマンスが高まる場合、その人は知性的な人である。他方で、いかに知的能力が高くても、その人がいると「周囲から笑いが消え、疑心暗鬼が生じ、勤労意欲が低下し、誰も創意工夫の提案をしなくなる」とその人は反知性的である。

 

内田樹反知性主義者たちの肖像」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、23頁)

 

たしかに頭が良くても何があっても自説を変えずに相手を批判ばっかりしている人は一緒にいてもあまり楽しくないし、知的という印象は抱かない。「あぁ、あの人は頭がいいから、、、」とどこか冷めた口調で言われる人は知性があるとは思われていないのだろう

 

と、彼の定義には得心がいきながらも、それでもなお知性主義者をかっこいいと思えないのは、本書でそこかしこに「昔はよかった」的な懐古主義が見られるからだ。明確に「昔はよかった」とは言わない。しかし「今」に批判的であるがために、昔はよかったと言っているように聞こえるのである。

 

たとえば、精神科医の名越と内田の対談で、

 

内田「(略)人類は数千年の歴史を持っているわけです。瞑想とか、呼吸法とか、突き詰めてゆけばどれも人間の生きる力を高めるための方法なわけです。それはできあいのシステムの中で、何かを量的に増大するというのとはぜんぜん違うことなんです。」

名越「そうなんですよね。それを忘れてどんどんバカになっているのかもしれないという。」

内田「実際、現代日本人を見ていると、どんどんバカになっているという気がする。」

名越「そう思いますね。」

内田「知の定義を勘違いしているからじゃないかな。知には二つの層があると思うんです。定量できる知識や情報の層と、そんなふうに数量的には表示できないメタ知性の層。後者こそが知性を知性たらしめているのに。」

名越「そうそう、知性を知性たらしめているものですよ。その段階が見えてないんですよ。」

内田「(引用者注:現代社会は度量衡で格付けされていて、定量的に測定して最も費用対効果が高いものが尊重されるが、数量的に表示できないメタ知性は)エビデンスがないからね」

 

名越康文内田樹「身体を通した直感知を」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、226頁)

 

とか、生命科学研究者の仲野は、

 

「いまから思えば、私が研究をはじめた頃、実験というのは牧歌的でのんびりしたものだった。研究室で受け継がれてきた技術を教えられて、あるテーマをゆっくりと楽しむという感じであった。そして、同時に、それぞれが創意工夫に満ちたものであった。

(中略)

下働きという単純作業をこなしながら、ぼんやりと研究について思いをはせるというのも、ぜいたくな時間の使い方であった。そういうときに不思議といいアイデアが浮かんだものである。一方、教える側からは、そのような作業をさせてみるだけで、きちんと考えるようになる子かどうか、いい研究者になるかどうかおおよその見当がついた。

ずいぶんと状況は違ってきた。ディスポーザブルな器具が主流となり、いまではどんな研究分野もマニュアル化されている。それどころか、サンプルを試薬Aにまぜて何分間反応させて試薬Bを加えるといったように、多くの実験がキット化されるようになった。もちろん、それなりの器用さは要求されるが、原理がわかっていなくても、実験ができてしまうのだ。そんなバカなことはないだろうと思われるかもしれないが、大学院の審査会で、自分の研究にも実験の原理を尋ねられて、きちんと答えられない学生はまれでない。」

 

といった具合である。

 

(仲野徹「科学の進歩にともなう『反知性主義』」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、263-264頁)

 

昔はよかったと懐古している人をかっこいいと思うことはない。カッコ悪すぎだろう。

 

さらに知性主義者のかっこ悪さは本書に収められている小田嶋の章が適切に表現している。

 

彼によれば知性主義者=いけ好かないガリ勉の出木杉くんである。

 

「教師が家父長的であり、学校が軍隊秩序的であり、世間の道徳規範がいまだ儒教的な色彩を強く残していた昭和中期において、『体制』は、『保守反動』の側にあり、それゆえ、『反抗』は、『左翼的』『リベラル的』ないしは『戦後民主主義的』な文脈で育まれ、若者から見た『カッコ良さ』もまた、左側に偏在していた。」

 

ところが、21世紀に入ると、

 

「『偏差値』と『戦後民主主義』は、ともに『優等生くさい』『いい子ちゃんオリエンテッド』『ガッコーのセンセーにほめられるっぽい』『ママのスカートの隠れてやがる的な』『いけ好かない』ガリ勉あっち行って死ね・アイテムに変貌したのである。」

 

小田嶋隆「いま日本で進行している階級的分断について」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、190頁)

 

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なんで私がかっこよさにやたらにこだわるのか。

 

それはかっこ悪いと認識されることが知性主義にとって非常に深刻な危機だと思うからだ。

 

政治学者のイーストンによれば、政治とは「諸価値の権威的配分」と定義される。

 

これは、世の中には多様な価値や利益があって、資源が希少であれば全ての価値や利益を同時に満たすことはできない、よって皆が(消極的同意も含めて)納得できる方法で優先順位を決定して配分する、という意味である。

 

世の中に知性主義と反知性主義の2つの価値観があって、知性主義者が知性主義が優先されるほうが世の中にとってプラスと考えるなら、知性主義が優先されるという決定に同意してくれる人の数を増やさなくてはならない。

 

知性主義は人々の同意(賛成)を獲得して、フォロワーを増やさなくてはならないのである。

 

それでは、そうすれば同意を獲得できるのか。

 

政治学では、その方法は3つあるとされる。すなわち、強制、誘引、説得である。

 

強制は腕っぷしにものを言わせて、相手に無理やり同意させることである。通常、物理的暴力によって達成される。

 

誘引は利益を供与することで相手の同意を買う方法である。お金や地位など相手の利益になるものを供与する。

 

説得は相手の価値観を変えて、自分の主張そのものに同意してもらう方法である。

 

論理的には物理的暴力や金銭の供与によって知性主義者が人々の同意を獲得することも可能だが、通常知性主義者はそのようなやり方は好まないだろうし、そのための暴力や金銭的な資源も十分に持っていないだろう。

 

では、説得に必要な資源は何だろうか。それはすなわち「権威」である。

 

権威とは自発的に同意や服従を促す能力であるが、それはその人の社会的な地位に由来する場合もあれば、その人自身の魅力に由来することもある。社会的地位だけに権威を依存する場合は、その地位が剥奪されるとその人の権威は失われてしまうから、地位ではなくその人自身に魅力に基づく権威のほうがより強固な権威である。

 

ときとして、人は話の内容よりも話し手の魅力に影響を受ける。「何を言っているか」よりも「誰が言っているか」のほうがしばしば大事なのだ。いいことを言っていても、平等に耳を傾けてもらえるわけではないし、政治的決定に影響を与えるわけでもない。

 

廃絶の手順やその実現可能性はともかく、世界から核兵器がなくなったほうがいいに決まっている。だから、誰が「目指せ、核廃絶!」と言ってもその内容の正しさは変わらない。私が言ってもいい。だけど、私がある日路上で「みなさん、核廃絶に向けてがんばりましょう!」と叫んだところで、足を止めてくれる人がどれだけいるだろうか。東京はもちろん、広島や長崎でやっても私の主張に皆が感動し「えいえいおー」となることはまずありえない。ノーベル平和賞ももらえない。

 

でも、オバマ大統領が言えば、より多くの聴衆を惹き付けられるし、ノーベル平和賞ももらえる。オバマ大統領が言ったところで、冷めた人のほうが多かっただろうが、それでも影響力の大きさは私の比ではない。言ってることは同じでも誰が言うかが大事なのだ。

 

オバマ大統領の例だとあまりに例が極端でわかりづらいが、より身近な例で言えば、ハンサムや美人、見てくれが爽やかであったり、美声の人のほうが話の説得力が増すことが多い。少なくともブサイクや服装がだらしない人よりも耳を傾けてもらえる。

 

最近では無条件に支持されているわけではないが、かつてはリーダーシップ研究において、声が大きい、年上であること、身長が高い、容姿が優れていること、高学歴や出身階層、社交性といった特性を持っている人がリーダーシップを発揮できると分析した特性論もあった(桑田耕太郎・田尾雅夫『組織論(補訂版)』有斐閣、2010年、236−237頁)。

 

こうした外見的・性格的に魅力はばかにできないのだ。

 

知性主義者がかっこ悪いと思われているのは、ファッション雑誌の表紙を飾る人を見ても明らかだ。ファッション雑誌の表紙を知性主義的な人が飾ることはまずない。モデルや芸能人のほかであれば、スポーツ選手やミュージシャンが多い。いずれもガッコーでベンキョーがんばってきましたというタイプではない。髪の毛ぼさぼさで服も垢抜けておらず、ぼそぼそしゃべる人に魅力はない。出版社は正直だ。そんなバッチい人に表紙を飾ってもらっても困るのだ。

 

知性主義者がどれだけ裾野を広げたいと考えているかわからないが、それでも反知性主義の拡散を憂いているのであれば、知性主義を広めることを真剣に考えるべきだろう。知性主義のファロワーはいなければ反知性主義が広がるだけである。

 

そして、そのときは自分たちが人々から魅力的に映っているかを本気に考えたほうがいい。知性主義が否定されるのは、単純に自分たちがかっこ悪いからではないかと疑ったほうがいい。知性主義者はそんな見てくれなんて表面的なことに左右されたくないと言うかもしれないが、それは逃げだ。

 

政治学者のメリアムは「権力が暴力を用いる時、権力は最も強いのではなく最も弱いのである。権力が最も強いのはそれが力に代わる魅力を持ち、排除よりは誘惑と参加、絶滅よりは教育などの手段を採用する時なのである」(佐々木毅政治学講義(初版)』東京大学出版会、1999年、67頁より抜粋)と述べているが、知性主義は暴力もなければ、魅力もないのが現状だ。それに、知性主義は私のような一般の人々を誘惑しようとしたり、門戸を開こうとしているようにも見えない。

 

反知性主義よりは知性主義のほうがいい。だからこそ、知性主義者にはかっこよくなってほしい。知性主義に同意していれるファロワーを獲得しない限り知性主義を待つのは絶滅だけだ。そうなっては遅い。

 

知性主義は一刻も早くファッション雑誌の表紙を飾らなくてはならない。知性主義ってかっこいいと思われる日は来るのだろうか。

 

今日はこの辺で。