猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

仲良くするべきなのに仲間なんてウザいんだよとエモーショナルに反発する人たちをどうやったら説得できるのか?

イギリスのEU離脱には本当に驚いた。

 

2014年に行われたスコットランドの独立是非をめぐる住民投票も終盤まで賛否が拮抗したが、結局最後は残留派が約10ポイント引き離して勝利したので、そのアナロジーで捉えてしまって、なんだかんだ結局イギリスはEU残留を選択するのだと思っていた(残留派議員の殺害の同情論もあると思った)。

 

アメリカのトランプやサンダース現象といい、先進民主主義国における既存政治への破壊衝動の大きさに驚く。

 

今回のイギリスの国民投票で離脱に賛成した人が(全員ではないけれど)合理的な判断に基づいて投票したわけではないことは明らかだ。

 

6月24日のワシントンポスト紙の記事「The British are frantically Googling what the E.U. is, hours after voting to leave it」は、国民投票の1時間後にGoogleで検索されたキーワードの上位5位が、①EU離脱の意味は?(What does it mean to leave the EU?)、②EUとは?(What is the EU?)、③EUの加盟国は?(Which countries are in the EU?)、④EUを離脱したら何が起こる?(What will happen now we’ve left the EU?)、⑤EU加盟国は何カ国?(How many countries are in the EU?)であり、いまさらそんなこと検索するなよ、と言いたくなるキーワードが検索され、離脱に投票した人も離脱が意味するところを知らずに投票したのでは?と批判している。

 

記事には他にも投票の翌日の朝に起きたら現実に慄き、再度投票する機会があれば、残留に投票すると答えた離脱派の声を届けている。

 

離脱決定後の新聞記事や識者のコメントを聞くと、労働者や底辺層の怒りを拾い切れていなかったとの分析や反省の弁があったが、しかし、ろくに自分たちで考えようとせずにEUがおれたちの生活を悪くしたんだ!という筋違いの陰謀論を頑なに信じる人たちをどう説得すればいいのだろうか?

 

内田樹は、民主主義のよさを「『わるいこと』が起きた後に、国民たちが『この災厄を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にもない』というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の債務を支払う義務があるという考え方を基礎づけるための擬制が民主制である」と述べている(強調は内田)

 

(出所:内田樹反知性主義者たちの肖像」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、57頁)

 

内田が正しければ、あいまいな判断のもとしかも翌日になってようやく事の大きさを知ってやっぱやめておけばよかったと思う人たちがこの民主主義の基準に達していなかったことは明らかだ。まして離脱支持派の多くは高齢者だというからいよいよシルバー民主主義の弊害というものだ。これではスコットランドがむかついて再度独立したいと言いたくなるのも無理はない。

 

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とはいえ、こういった非合理的な人たちも投票権を持っているのが民主主義だとすれば、彼らを説得する方法などあるのだろうか。民主主義は非合理的な「ホンネ」をありのままに発露するエモーショナルな人々を説得できるのだろうか?

 

民主主義には暗黙の前提がある。

 

すなわち、民主主義のもと政治に参加して欲しいのは、合理的な判断ができる徳のある人物に限られる、と。

 

(以下のアリストテレスジョン・スチュアート・ミルシュンペーターの話は佐々木毅政治学講義』東京大学出版会、1999年の第2部第1章の「民主政治」を参考にしています)

 

民主主義は「開かれた政治」とか「人民の政治」を標榜するけど、実際の民主主義の運営は、中心に政治家がいて、その周りを政治階層(利益団体やメディア)が取り囲み、その周りを合理的で徳のあるエリートや知識人が取り囲み、さらにその周りを教養がなかったり、政治に関心のない一般民衆が取り囲む、という構図で、一番外側の一般民衆は普段政治に関わらないし、関わって欲しいと期待もされていない。というか、むしろ全然関わって欲しくないと実は思われている。

 

アリストテレスが民主主義(democratia)を貧しい人々が数の力をもとに支配する無秩序で過激な政治体制と捉え、悪い政治の1つと評価したことは有名である。民主主義を支持したジョン・スチュアート・ミルでさえ、彼は選挙権の拡大に賛成したが、有識者に複数の投票権を与えて一般民衆の暴走を阻止してほしいと考えた。

 

現在では民主主義を正面から否定する人はいないし、確かに現存する政治体制の中でもっともマシな政治体制だと言えるだろう。

 

しかし、民主主義が「人民による政治」といっても、じゃあ人々ってどんな人となんだという問いに対して、シュンペーターは、一般民衆は自分に直接関係ない世界の出来事を熟慮して合理的な判断を下せず、またそういう出来事について責任感を感じることもできない、無知と判断力に欠如した人々と喝破した。

 

このような人々は偏見や衝動に囚われ、政治の推進力にはなりえず、単なる政治の客体でしかない。一般民衆ができるのは政治への参加ではなく、誰が政治的な決定を行うかの人を選ぶだけに過ぎないのである。

 

一般民衆がただ政治の客体にとどまるなら害はない。しかし、彼らが政治参加を強めたらどうなるか。政治学ではしばしば一般民衆の政治舞台への参加は「民主政治による民主政治の破壊」につながるものと考えられた。ワイマール体制下のドイツにおいて民主的手続きによってヒトラーが選ばれたがごとく、一般民衆の参加は民主主義の安定性を破壊するのである。

 

ミルのようは政治学者にとって、一般民衆も民主主義という政治体制は信奉してほしいが、それ以上の参加はしてほしくない存在だ。そして政治の運営はただ合理性と徳を備えたエリートに任せてくれればそれでいい。一般民衆は政治の中身には無関心であってほしいのである。

 

これまで先進民主主義国で民主主義が安定していたのは、合理的で徳のある市民(合理的市民)が多かったからではないか。

 

合理的市民は二通りの方法で生まれよう。

 

一つは政治学が理想とする意識高い系の人、すなわち政治についてしっかりと勉強して政治を行うべき合理性と徳を備えた人である。

 

もう一つは、本当はホンネではいろいろ不満はあるけど、損得勘定に従って現行政治を支持してきた人である。イギリスのEU参加を支えていたのは二つの合理的人間だったが、数にしてみれば後者のほうが多かったろう。

 

彼らは、ドイツが再び戦争を起こさないよう封じ込める装置としてEUが必要である、冷戦で西側諸国の結束を高めるためにEUが必要である、英国病の治療のためにはEUが必要であると考えた。

 

良いことだとは思うのだが、これらの諸問題が解決したと思われたからこそ、別の問題、すなわちEUの政策協調のため独自の政策の裁量が狭められること、EUに多額の拠出金を提供しなければならないこと、移民の問題といった、国や国際秩序の安定性といった問題と比較するとより卑近な問題がクローズアップされるようになったのだろう。

 

いまさらドイツに第2のヒトラーが現れて再び世界大戦の引き金を引くとは思ってないし、確かにロシアは新冷戦を起こさんばかりにウクライナ問題では強硬だが、とはいえやはり冷戦期に想定されたような熱核戦争が起こるとは思えないし、英国病は治っているし、といった具合にだ。

 

これはイギリスに限られないと思う。第2次大戦の記憶や冷戦という超大国間の対立が今そこにあれば、ちょっとぐらいの不満はガマンできる。しかも、みんなも同じようにガマンしているのであれば、自分だけが不当に不利益を被っているとは感じない。こうやって第2次大戦の記憶と冷戦は意識高い系とは異なるガマンに基づく合理的人間を生み出した。そうした人々はイギリスのEU加盟を受け入れてきたのである。だが、EUに加盟した動機や理由が失われた現在、人々が合理的人間にとどまり続けるのは難しくなっている。

 

一般市民は政治に参加してほしくないとミルのような政治学者は思っていると先に述べた。しかし、現実には一般民衆も政治に入り込んでくる。そして民主主義も政治体制の一つである以上、倫理的な正当性だけではなくて、「諸価値の権威的配分」をしっかり行うという実績に基づいて判断されなければならない。

 

そして一般民衆の中には諸価値の権威的配分がされていないと憤っている人たちがいる。一般民衆が求める価値が一部のエリート(エスタブリッシュメント)たちによって不当に後回しにされている、エリートたちは姑息な手を使って自分たちの利益を優先している、と。あんなやつらが言ってることは信用できない、と(エスタブリッシュメントに言われると無性に腹がたつという気持ちは実はよくわかる。私も中学高校で夏目漱石芥川龍之介など日本の名著を読むよう言われたが、それに反発してしまって今でも読んでいない。絶対読んだほうが人生にとっていいはずなのに(´Д` ))。

 

今回のEU残留派は経済的な利益を根拠に残留のメリットを説明しようとした。しかし、経済的なメリット、すなわちGDPがどれだけ伸びる減るといった議論は論理的には理解できても感覚的には実感しづらい。経済的なモデルを使って国全体の経済的な厚生を算出しても、一般民衆が知りたいのは「で、おれの懐にはどれだけカネが入ってくるの?」ということであろう。外交や安全保障政策の協調の必要性を説明されても、「それはわかったけど、隣に住んでる気味悪い異教徒の移民を追い出してくれよ」って言われても意識高い系の人は処方箋を提供できない。「そんな非民主的なこと言うもんじゃありません」と上から目線でたしなめるだけである。

 

今、「ホンネ」で話す人たちがどんどん政治参加しようとしている。これは従来の民主主義があまり経験してこなかったことではないか。第2次大戦の記憶や冷戦が人々をむりやりガマン系合理的人間にしてきた。冷戦が終わっても、冷戦終結の高揚感や旧ユーゴスラビアなどで悲惨な民族紛争が勃発して共同で対処しなければならなかったことが、意識高い系の再生産やガマン系合理的人間のガマンの期間を引き延ばすというボーナスステージを用意した。しかし、それらの問題解決に成功し、欧州域内では秩序が安定した不戦共同体を達成したことが、かえってEUにとどまらなければならない正当性を侵食してしまった。

 

ガマン系合理的人間が少なくなって、「ホンネ」があちこちで噴出している。これまで意識高い系とガマン系合理的人間を所与としてきた民主主義は新たなステージに入りつつあるのだろう。しかし、今のところ、「ホンネ」を話す人々への有効な処方箋は見つかっていない。2016年はどうやら「ホンネ」で話す人々の反乱元年になるのだろう。

 

今日はこの辺で。