猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

ちょっとした欠落さえ許さない一流信仰VS樹木希林さん的生き方への憧れ

 

「一流の人はなぜ風邪をひかないのか?」という本のタイトルがキライだ

一年以上前に発売された本だが、こんな本があるのを知った。

 

 

ずいぶんアホみたいな本だと思った。いや、ずいぶんアホみたいなタイトルだと思った。本の紹介を信じるなら大反響だったというし、著者はテレビに登場したそうだ。

 

ちょっと前までは、風邪ひかない人=バ○な人だったはずが、いつのまにか風邪ひかない人=一流になったらしい。本書に言われるまでもなく「風邪ひかない人=バ○な人」に科学的根拠があるなんて微塵も信じていなかったけど、この言葉って風邪をひいた人をなぐさめるための優しい言葉だと思うから、「風邪ひかない人=バ○な人」は間違いである、と言い募るのは大人気ないと思う。

 

この本の内容自体は至極まっとうで、まっとうすぎてアマゾンレビューに「常識の範囲内」と書かれるくらいである。だから、本で書かれていることを実践するのは問題ない。風邪をひく確率が本当に減る気もする。

 

それにしても、なんでこんなタイトルにしたのかねぇ。。。

 

経済誌自己啓発本の世界では人間を一流と二流以下を分けることが大流行りだが、風邪さえも一流と二流を分ける基準に持ち出すなんて、人々の成長願望というか、成長強迫観念に漬け込んであの手この手の商材を考えるもんだと呆れてしまう。

 

一流の人だって風邪はひく、と反論したいわけではない。ソフトバンク孫正義氏は日本を代表する一流の人だと思うが、グーグルで、「孫正義、風邪」と検索すれば、孫氏が風邪をひいた事実がたくさんヒットする。彼の経営スタイルに賛成するかどうかはともかく、彼が一流の人物であることに異論を唱える人はほとんどいないはず。その孫正義氏でさえも風邪をひくという事実を持ち出して、この本は嘘つきだ、分析が甘いと批判したいわけではない。

 

私がこの本を見たときに胸に言い知れぬザラつきを覚えるのは、たかが風邪予防の本に「一流」という言葉を持ち出すことと、風邪という小さなバグさえ認めない、というピュリティ信仰を感じ取るからである。風邪による経済的損失はけっこう大きいと本書は言うのだが、風邪を一流と二流に分けることの弊害はゼロ、ないし無視できるほど小さいものなのだろうか。風邪さえひかない一流の人間を皆さん目指しましょうという社会と、風邪くらいひくことあるよ、お大事に、という社会があるなら、私は後者の社会のほうが器の大きさを感じるんだよね。

 

ほんと、なぜタイトルに「一流」なんてワードを使うのか。なぜ、たかが風邪で人々をそこまで煽ろうとするのだ?

 

それはもちろんそのタイトルのほうが売れるだろうと筆者ないし出版社が思っているからで、宣伝を信じれば実際ベストセラーになっているらしい。こういうタイトルが売れるって出版側が思うのは、それだけ世の中には一流願望や一流にならなきゃダメだ、意識高い人間は成長するため努めなければならないという思想が社会に蔓延していると多くの人が思っているからだ。

だからこそ、そもそも自己啓発本やビジネスのハウツー本がたくさん出版され売れるだが、われわれはなんでいつまでもいつまでもこうした本に踊らされるのだろうか?

成長して、自分の限界を突破することに喜びを見出すからだろうか。そういう人もいるだろう。でも、こういう本を買うのは、成長する喜びよりも、成長しないダメな人間になりたくない、自己実現しなければならないんだ、でも自分はどうして成長できる人間になれないんだ、という焦りに駆り立てられた人が大半なんじゃないか、と思うのだ。成長するに越したことはないし、自分のやりたいことができるなら、それはとてもいいことだろうけど、義務感に基づく成長努力はけっこう大変である。

 

この本を見た人が、自分は風邪をひいてしまう、二流のダメな人間なんだ、と勘違いな自己卑下に陥らないことを祈る。風邪をひかないための体調管理はすればいいと思うけど、家庭の医学じゃなくて、自己啓発本としてこういう本が出てくるのは正直キライな風潮である。

 

樹木希林さんの本が売れることに抱く思い

こうした一流信仰に対局にあるのが、「あるがままが(で)いい」信仰である。現代は一流信仰とあるがまま信仰のせめぎ合いの時代だと思うが、昨年他界した樹木希林さんの本が売れるのはあるがまま信仰に帰依する(したい)人がたくさんいるからでもある。

 

一切なりゆき 樹木希林のことば (文春新書)
 

 

あるがままでいい、という発想自体は私も好きだし、そうありたいと思う。しかし、そうでありながら、あるがまま信仰を信じ切れている人はかなり少ないだろうとも思うのだ。だから、多くの人はあるがまま信仰になんの疑いもなく帰依している、というよりは、あるがままでいいんだあるがままでいいんだ、と自分を説得したり信じ込ませようと努力・苦闘しているのではないかと思う。

あるがままの状態をどう定義するかにもよるが、日常生活・社会人生活をしている中で完全にあるがままの状態を維持することは難しいし、悪いことに一流信仰のノイズが街中にあふれている。一流信仰ももっともらしく聞こえるのだ。一流とみなされている人になれるものならなってみたいし、一流の人の範囲を有名人・芸能人まで広げれば、ぶっちゃけ自分たちよりラクして稼いでいるように見える人がわんさといる。ああなれるならなりたい、という気持ちはとても自然な感情だ。

 

このようにあるがまま信仰を貫きとおすのはかなり大変である。信仰がゆらぐことは日常茶飯事だ。だから、誰かにあるがまま信仰が素晴らしい、一流信仰なんてくそくらえ、と言ってほしい。でもその誰かは誰でもいいというはわけにはいかない。私が「あるがままでいいんだよ」と言ったところで、おまえ誰?おまえ何様?という反応をもらって終わりである。

 

「あるがままでいいんだよ」と一流の人に言ってほしいのだ。一流の人だってあるがままでいいんだって言っているから、だからあるがままでいいんだ、とあるがまま信仰を信じられるようになるのである。

精神科医に言われるだけだとちょっと弱い。その世界では有名でも多くの人はその精神科医のことも学会での評判も知らないからだ。でも、樹木希林さんは知っている。樹木希林さんが一流の役者であることも知っている。だから、彼女の言葉を一流信仰に対抗するための錦の御旗に掲げることができるのだ。

 

一流信仰が流行っているからこそ樹木希林さんの本が売れるのである。思想的には対立しながら、ビジネス的には共存関係なのだろうな。

 

悪魔がいるから神を信じる、、、みたいな。

 

おしまい。

 

f:id:mtautumn:20190420120902j:plain