人付き合いのめんどくささが増しているから未婚・晩婚になるとしか思えない
結婚しない人が増えた
年始に若者の草食化と未婚・晩婚の増加は無関係という記事を読んだ。便乗させてもらうと、私も昔の人が結婚できたのはお見合いや職場恋愛といった「社会的お膳立てシステム」があったからだと思っている。
ついでに言えば、昔だって結婚率が示すほどみんながみんな心から結婚したいとは思っていなくて、結婚しないことのコスト(世間から冷たい視線を浴びる、昇進にマイナス等)が大きかったから結婚する人が多かったんじゃないかと思っている。
人間の特徴なんてそうそう変わるものではないし、人間関係がめんどくさいと感じる人の割合だって数十年程度じゃそうそう変わらないだろう。だけど、我々を取り巻く社会環境が変われば、われわれのコスト計算の仕方も変わるわけで、未婚のコストが高ければ結婚を選択するし、未婚のコストが低くなれば(結婚のコストが高くなれば)結婚しない人が増える。ただ、それだけ。
とどのつまり、今の人が結婚しなさすぎるのではなく、昔の人が結婚しすぎていただけなんだよ。
国立社会保障・人口問題研究所の「2015 年社会保障・人口問題基本調査 <結婚と出産に関する全国調査>第15回出生動向基本調査」も「社会的お膳立てシステム」の存在を裏付けている。1940年はお見合い結婚の割合が69.1%、恋愛結婚が14.6%であった。それ以降お見合い結婚の割合は減少し続け、2015年は5.5%、対して恋愛結婚が87.7%。研究所の調査を待つまでもなく誰もが今は恋愛結婚の時代だって思っているけど、統計からもわれわれの実感は裏付けられる。
同調査によると未婚率は過去最高を記録したのだが、今だって結婚したいかしたくないか、と聞かれたら「いずれ結婚するつもり」と答える人がほとんど。
未婚者の生涯の結婚意思
男性 | 1987 | 1992 | 1997 | 2002 | 2005 | 2010 | 2015 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
いずれ結婚するつもり | 91.8 | 90.0 | 85.9 | 87.0 | 87.0 | 86.3 | 85.7 | |
一生結婚するつもりはない | 4.5 | 4.9 | 6.3 | 5.4 | 7.1 | 9.4 | 12.0 | |
不詳 | 3.7 | 5.1 | 7.8 | 7.7 | 5.9 | 4.3 | 2.3 | |
女性 | ||||||||
いずれ結婚するつもり | 92.9 | 90.2 | 89.1 | 88.3 | 90.0 | 89.4 | 89.3 | |
一生結婚するつもりはない | 4.6 | 5.2 | 4.9 | 5.0 | 5.6 | 6.8 | 8.0 | |
不詳 | 2.5 | 4.6 | 6.0 | 6.7 | 4.3 | 3.8 | 2.7 |
出所:国立社会保障・人口問題研究所「2015 年社会保障・人口問題基本調査 <結婚と出産に関する全国調査>第15回出生動向基本調査」、4頁。
だけど、生涯未婚率は過去最高を記録している。二択になればしたいと答える人が多いが、結婚に踏み切る人の割合は減少している。
なぜなのか。
荒川氏はお見合い・職場恋愛等の「社会的お膳立てシステム」の衰退とハラスメント未然防止のためデートに誘いにくくなったからだと言う。荒川氏の著書「超ソロ社会」には他の要因も書いてあるのだろうが、私としてはそれに加えて結婚のコストが上がったことがあると思っている。
モラハラという妖怪が徘徊している
最近、恋愛や結婚と言うと、すぐに連想するのがモラルハラスメント=モラハラだ。では、どういう行為がモラハラになるのか。下記のサイトから家庭でモラハラと認定されうる行為を列挙しよう。
- 家事や育児の否定
- 見下した発言や態度をとる
- 気に入らないことがあれば暴言を吐く
- 過去の失敗を責め続ける
- 離婚や養育権、経済力を武器に相手を脅す
- 舌打ちをする、無視する
- 常にイライラしている
- 人前で馬鹿にする
- 物にあたる
- 悪口を言う
- 責任転嫁し人のせいにする
- 自分の非を認めない
暴言や経済力を武器に脅す、のように誰もがモラハラ認定するものもあれば、え、この程度でも、思うようなものも入っている。
この程度でも、というよりはモラハラとセーフとの境界線がわかりにくい、と言ったらいいかな。現実にはよほどひどくなければ一回や二回程度は許されることのほうが多いと思う。でも、よほどひどい、にせよ、どこからが常習性あり、にせよ、モラハラとセーフとの線引きは難しい。
たとえば、悪口を言う。
言わないほうがいいと思うけど、全く悪口を言わないで一生を終えることなんてあるだろうか。多少なら許される、にしても、じゃあ、どこまでがイエローカードで、どこからがレッドカードかなんて、全然わからない。悪口言うな、というのは理解はできるし、そりゃ、言わないほうがいいけれど、実践しようと思うと聖人君子にならないといけないような、かなりすごいことを要求されているような気がする。
逆に悪口を言ったと受け取られると、相手に「はーい、悪口言った。モラハラー」と言われ、言い争いの中身とは関係なく口を封じられてしまいそうだ。黄門様の印籠のように。
モラハラ、という言葉を作った人に悪意はないと思うし、DV同様、外部からは見えないところで行われる陰湿な暴力を告発したかったのだと思う。だけど、最近この言葉が一人歩きしていて、ただでさえハラスメントが増えてやりづらくなった人間関係をさらにぐちゃぐちゃにしているように思うんだよな。
とにもかくにも、程度はともかく、世の中にモラハラというハラスメント行為が存在し、しばしば家庭でそのハラスメントが行われるということはかなり認知されている。
認知度が上がれば、ハラスメントの防止と発生した場合の告発につながる。いいことだ。でも、あんまりギチギチ言いすぎると、人間関係がめんどくさくなって、濃密な人間関係の最たるものである結婚のコストを引き上げる、というマイナスの効果、というか副作用が出てきてしまう。
さらに言えば、ちょっとした悪口が家庭内で飛び交うだけでも、「うちの家庭はおかしいのではないか、普通ではないのではないか、問題があるのではないか、相手はモラハラなんじゃないか」と感じてしまって、うちの旦那・妻はモラハラ夫(妻)だと思ってしまうと、何やら相手の人格自体に問題があるような気がして、別に問題がなかったり、あったとしてもちょっとした努力で改善できるような場合でさえ、関係修復を難しくしてしまうと私は思うのである。
いくらモラハラがよくないにしても、見下した発言をする、暴言を吐く、舌打ち、無視、イライラ、悪口を言う、物にあたる、責任転嫁する、自分の非を認めないといった行為がまったく発生しない関係は相当珍しいのではないか、と思う。
モラハラはいけないというが、喧嘩は禁じられていない。じゃあ、喧嘩をする中で、上記に挙げた行為をまったくしない恋人・夫婦というのはどのくらいいるものなのか。ほとんどいないはずだ。
喧嘩できて、互いに文句を言える状態ならモラハラじゃないんだろう。相手を恐怖させて反論できないような関係でこそモラハラが発生する。
でも、Google検索で上位に表示される先のサイトにそんなことは書いていない。あくまで、該当しうる行為が列挙されているだけ。モラハラという言葉が生まれた背景やそもそもの定義なんて置き去りにされて、モラハラという言葉と上辺の行為だけが一人歩きしているのだ。人口に膾炙するモラハラの多くは、当初の定義からかけ離れた実態のないもの、妖怪みたいなものなんじゃないのか。
誤用だろうがなんだろうが、それでも言葉だけは広まる。広まれば、どうしたって影響が生じる。
モラハラという言葉が適切に使われるならいいけれど(もっともどこまでが適切な範囲なのかの判断はとても難しいのだが)、わずかでも発生したらうちは問題を抱えている!という判断に至ってしまうのであれば、恋人関係や家族関係は地雷原の中にいるようなものでしょ。
誰がすき好んでそんな関係に入りたいと思うだろうか。本来は安息の地であるはずの恋人・家族関係が気苦労の耐えない空間となる。
そんなものはもはや重荷であって、コストでしかない。ただでさえ昔に比べて従わなくてはならないルールが増えたのだ。今だったらセクハラやパワハラに認定される行為が過去は許されていた。昔の人は昔の人で苦労もあっただろうが、昔の基準に基づいて今の世代の草食化や意気地のなさを責めるのは明らかに筋違いである。
未婚・晩婚を個人の責任にするのはおかしい
未婚・晩婚の原因を個人の責任に求めるなら、こうなるだろうか。
思いを寄せる人に自分の思いを打ち明けたいと思う。しかし、自分の思いを打ち明けても、受け止めてもらえないという事実に直面することを怖れる人がいる。そのような人は、自分の気持ちを打ち明けようとはしない。傷つくことを恐れるのだ。何もいわなければ、相手に自分の気持ちは伝わらない。だが、その人とは関係が生じることもないのだから、傷つくこともないのである。
自分の思いを打ち明けられないと思うための理由はすぐに見つかる。自分のことを自分でも好きとは思えないのだから、他の人が自分のことを好きになってくれるはずがない、そう考えればよいのである。
自分のことを好きになれないことの理由もすぐに見つかる。子どもの頃、親から受けた教育を理由にすることができる。実際には、子どもの頃に受けた教育が対人関係に入れないことの理由ではないにもかかわらず。
恋愛関係に入れない理由を自分に価値がないことではなく、相手に求めることもある。運命的な出会いがないという人は、本当は自分の人生を変えるような出会いをしても、それに気づかないだけである。結婚に憧れている若い人から運命的な出会いがないという話をよく聞くが、そのような人は、出会った人を結婚するパートナーの候補者から外すためにそういっているだけである(下記書、87-88頁)。
この発想自体は面白いし、なるほどと思う。ちなみに冒頭の国立社会保障・人口問題研究所の調査結果だと25歳から34歳までの独身者が結婚できない一番の理由として挙げるのが男女ともに「適当な相手にめぐり合わない」であるが(男45.3%、女51.2%)、もしかしたら岸見氏がいう通り、(もしかしたら本人も気づいていないうちに)いい人がいない、ことを結婚しないことを正当化するために使っているのかもしれない。
しかし、個人の責任はあるにしても、未婚・晩婚が世の中の風潮として定着しつつあるなら、個人の責任には還元できない社会的な要因があると考えるほうがまっとうだと私は思う。
恋愛関係・夫婦関係になったらモラハラに気をつけろ!と言われる世代の人たちにとって、そしてモラハラ認定されると相当なバッシングを受けると感じている世代にとって、恋愛や夫婦は幸福のための手段というより日々採点をつけられる息苦しい場だと恐れても責められないんじゃないだろうか。
昔だって人付き合いのめんどくささはあったはずだ。だが、結婚しないと世間からの視線が厳しいという未婚のコストがそれ以上に大きかったし、お見合い等の結婚を斡旋する仕組みが世の中にあったから結婚を選択した人が多かっただけ。
今ではお見合い等の結婚斡旋の仕組みが壊れ、そもそも結婚しろ、という圧力も減ってきている。昔が結婚しすぎていただとすれば、当然結婚する人は少なくなるよね。
ややオーバーな言い方をすれば、モラハラはいけないにしても、なんの問題も発生してはならない、と感じてしまうような潔癖社会はどうにかならないものだろうか。ちょっとくらい問題があっても構わない、と思えるほうが新たな人間関係をつくりやすくなるのではなかろうか。人付き合い=ハラスメントの地雷原という風潮がなくならない限り、未婚・晩婚の流れは止まらないだろうなあ、と私は思うんだよね。
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