幸福論:生化学vs認知論
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幸福の個体差
自己啓発本を読むのは成長したいからであり、最終的にはそれによってよりよい人生を歩んだり、幸福になりたいと思うからである。
しかし、自己啓発本を読んで同じことを実践して、同じだけの達成度を得た場合、人は同じだけの満足感や幸福感を得るのだろうか。要するに人による「個体差」はあるのか、仮にあるとしたらその個体差をもたらす要因は何であろうか?
自己啓発本ではないが、本書は幸福についていろいろ考えさせられることを書いている。
幸福論:生化学と認知論
ここに二つの対立する軸がある。すなわち生化学と認知論の二つである。
生化学は人が幸福をどう感じるかは遺伝子的に決定されていると主張する。仮に幸福度を10段階に分けられるとして、割に幸福度8とか9とか高いレベルで感じやすい人と、外から見ればとてもいいことがたくさん起きているにもかかわらず、幸福度を5程度にしか感じられない人がいるという。幸福感を得難い遺伝子的特徴を持つ人間は宝くじに当たったり、世界平和のような偉業を成し遂げたり、世界でもっとも美しい(ハンサム)なパートナーと結ばれても得られる満足感は乏しいことになる(Kindle版 pp.7312-7401)。
この考えは自己啓発本の存在意義を奪うアイデアだ。結局何をやろうが遺伝子的に幸せになれないことがプログラミングされており、そのプログラムを書き換えられないのであれば、いつか自分は変われると信じて努力することにもはや何の意味もない。
もし解決法があるとすれば、それは遺伝子治療であり、技術的に可能ならば、手術によって遺伝子自体を完全に変えてしまえばいいということになる。それが出来ないとしても、セロトニンやドーパミンのような人を快楽にさせる成分を注入させてしまうのが最も確実で手っ取り早い方法だ。人間の自由意志に基づいて努力させるなんてことは迂遠で不確実な方法である。
普通は自分の遺伝子がどの程度幸福を感じやすくできているなんて知り得ない。そのため、幸福感を得難い遺伝子を持つ人は普通の刺激では幸福を感じられない以上、より強い刺激を求めるようになる可能性が高い。
数多の宗教家は生物学的には遺伝子的に幸福感を得難い人たちだったのかもしれない。彼らは人によっては富もあり、モテたかもしれず、趣味もあってとてもリアルが充実していたことだろう。しかし、それほどまでに恵まれていたとしても、なかなか幸福感を得られないとすれば、彼らはその理由を探そうとするわけで、よさらなる刺激を求めて、極限の飢餓状態になろうとしたり、痛みを伴うようなことに走ったのやもしれない。刺激が必要だからこそ、エクストリームな人生を追及したとも考えられそうだ。
他方で、人間の認知や意義付けが幸福感に影響するという立場もある(Kindle版pp. 7415-7445)。
本書では子育てが例として挙げられていて、子育てに伴う活動、ご飯食べさせたり、排泄物を交換したりといった作業一つ一つを見ると、けっこう手間だったりして人の幸福感を下げそうなことが多い。それらに要する時間的総量もけっこうなものになる。
では、子育てしている人の不幸感が増大するかといえばそうではなく、得てして自分の幸福は子供のお陰と考えている。単に投入した時間を積み上げれば幸福感を減損させても不思議でない行為の積み重ねにもかかわらず、活動によっては不幸どころか人が幸せにするのだ、と逆説的なことが言えそうである。
この矛盾は何なのかといえば、幸福というのは活動それぞれから得られるプラスの感情、マイナスの感情の足し算で決まるのではなく、自分が意義があると考えていることに充足感があれば幸福と感じるということになる。子育てで必要な一つ一つの活動は外部から見れば不快に思うようなことでも、当人たちが子育てに意義を見出していれば、当人たちの幸福感が高まるのである。人生の意義を見出し、その意義に沿うような感覚が得られればその人の幸福感は高まるのである。
客観的な幸福と主観的な幸福
実際はこの二つの中間あたりに真実があるのだろう。遺伝子的に決定される部分があってその人の幸福感認知範囲が限定されていたとしても、認知的な満足感によって、範囲の中でより高い幸福感を得やすくなる。
遺伝子的に幸福度を4〜7で感じやすい人がいるとした場合、その人が4の幸福度を得やすいか、それとも7の幸福度を得やすいかは、その人の主観的な要素に委ねられるのだ。
幸福とは客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる(Kindle版 p.7249)
したがって、主観的な幸福感を追及する努力は決して無駄ではないということになる。あとはそれがいかにして獲得できるかだ。
その点、現代社会は中世よりも不利である。生活環境だけを見れば現代の日本のほうが圧倒的に幸せといえる。しかし、幸福感という点ではどうであろうか。かつては幸福を自分の自由意志で判断する必要はなかった。代わりに宗教の教えがあるべき人間像を提示してくれた。聖人のようにはなれなくても、経典の教えに従えば幸せになれたり、人間として立派になれるとされたのだ。
だが、現代は宗教の教えを信じていれば事足りるほど単純な世界ではないし、宗教を信じない自由が与えられている。自由を得た反面、われわれは自分たち自身で幸せを見つけなければならない。
見つかればいい。しかし、幸せは自分自身で判断すればいいと言われても本当に自分が幸せかどうかを判断する基準なんてないからわれわれは迷うし、不安になるのだ。早くセロトニンやドーパミンをうまく打って簡単に幸せになれる社会が来ればそれが一つの理想郷なのかもしれない。
ただその社会が到来するまではわれわれはあれやこれや悩んで、自己啓発本を手にとって、それでもなお悩むのだろう。
人生は悩みだらけ。そう割り切ることも必要なのだ。現時点でわれわれは幸福になるために遺伝子手術はできないのだから。
❇︎本記事は、私の別のブログで書いたものの転載です(そのブログを閉鎖したため)。
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