猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

で、結局戦後とはなんだったわけ?(2) —リベラルの居場所—

私はリベラルの民主主義や人権、平和といった価値観に共感しているが、それでもリベラルのことは嫌いである。

 

そのきっかけは国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)への自衛隊派遣に反対する平和主義者たちの抗議デモであった。

 

UNTAC自衛隊が初めてPKOに参加した事例だが、この自衛隊の海外派遣が憲法違反になると社会党や平和主義者たちが反対したのだ。

 

確かに国連PKOには軍事要員が含まれる。しかし、軍事要員は戦争遂行のために派遣されるわけではなく、武器の使用も(少なくとも当時は)自衛の場合に限定されている。UNTACの目的はカンボジアの内戦からの復興と統治能力の回復であった。国連という外部アクターが一国の統治を肩代わりすることを現代版の植民地主義信託統治と見る向きもあろうが、それでも戦争を目的としているわけではないことは明らかである。

 

任務を効果的に達成できたかの評価は分かれようが、UNTACは間違いなくカンボジアの平和を目的としたミッションであった。

 

それこそ平和主義者たちが支援すべきミッションである。にもかかわらず、日本の平和主義者はUNTACへの自衛隊派遣に反対した。自衛隊員の安全を案じたのであればわかる。まだポルポト派の残党が存在しており、事実、日本の中田厚仁国連ボランティアと高田晴行警部補の2名の殉職が出たからだ。

 

だが、社会党や平和主義者たちの反発の根拠は自衛隊の海外派遣は憲法違反であり、軍国主義の復活といった非現実的な懸念であった。

 

当時の平和主義者や社会党の主張が採用されていれば一体誰の平和に貢献したのだろうか。少なくともカンボジアの人々の平和でなかったことは疑いない。

 

一言で言えば、日本のリベラルは「一国平和主義」であることを露呈したのである。

 

以来、私は日本のリベラルを信用してない。民主主義や自由、平等、平和、男女同権、夫婦別姓LGBTの権利保護、日本在住の外国人への参政権付与などなど、リベラルが支持しそうな理念や主張を私はどれも支持している。それでも、私は日本のリベラルが嫌いだ。

 

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日本のリベラルが嫌いなのは私だけではない。近年、日本のリベラルの評判は悪い。

 

安保法制や憲法改正の一連の議論で明らかとなったのは護憲派/リベラル/左翼の主張の説得力のなさだ。

 

なぜこんなにまで彼らに説得力を感じないのだろう。

 

三浦は日本のリベラルは変化に消極的で既存の政策に対する反対ばかりで建設的な役割を果たしてこなかったと指摘する。

 

グローバル化が進み経済や貿易の自由化が必要なのに、自由貿易協定には反対し、銀行を不良債権をつくったと批判しながらその処理の過程における貸し渋りを批判し、公共事業は否定するが産業構造の改革案はなく、福祉の拡大を主張しながら財源の捻出には口をつぐむといった具合に、ただその当時の与党の政策を批判するばかりで実現可能性のある対案を提示してこなかった。

 

そして安全保障で主張するのは憲法(9条)改正反対をただ連呼するのみである。

 

三浦は海外のリベラルは最新の知見の応用に積極的であったとする。たとえば世界では教育や福祉の分野にも経済学の知見を応用し、米国クリントン政権は労働のインセンティブを提供して自立を促す福祉政策を導入したりインターネットを教育に取り入れ、英国ブレア政権は競争原理にインセティンブやガバナンスの仕組みを上積みして成果の上がらない学校や地域には厳しい態度で臨み、ドイツのシュレーダー政権は硬直的な労働規制を改革するなど、世界各国のリベラル政権は最新の知見や技術を応用して政策を変化させた。

 

安全保障面でも、世界のリベラルは人道的介入という新たな武力行使の類型を加えた。虐殺や抑圧によって苦しむ一般市民を救うために武力行使を認めるという人道的介入は伝統的な国家主権概念に抵触する。しかし、カナダ政府が設置した「介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)が提唱した主権観「保護する責任(Responsibility to Protect: R2P)で理論武装して、少なくとも理念レベルでは保護する責任は国際的に受け入れられた概念となっている。

 

国連も変化している。前国連事務総長のコフィ・アナンは保護する責任と人道的介入を支持した。国連憲章2条7項は内政不干渉原則を定めているから、安保理が「国際の平和と安全への脅威」がある認定し武力行使を容認する場合を除いて、基本的に従来の国連憲章の解釈では人道的介入は認められないはずである。

 

それでもアナンは人道的介入を認めた。それは米国や英国といった西側大国がアナンに強要したからではなく、ユーゴ紛争やルワンダ内戦で国連が虐殺阻止に何もできなかったことに対する反省に起因するものであった。旧ユーゴのボスニアルワンダで虐殺が発生した当時、国連の平和維持活動(PKO)が現場に派遣されていた。国連PKOの指揮命令は国連事務局の平和維持活動局(DPKO)が担当しているが、当時のDPKOのトップである事務次長に就いていたのがアナンであった。アナンは虐殺を阻止できなかったことへの反省から人道的介入を認めたり、一般市民保護のために国連PKOの強化に取り組んだ。

 

人道的介入や保護する責任、PKOの強化には賛否両論あるが、それでも大事なのは、世界のリベラルたちは時代の変化に対応するために政策の改革に取り組んできたという事実である。

 

翻って日本のリベラルはどうかといえば、戦後一貫して憲法を守れ、戦争反対、自衛隊の海外派遣反対、ただそれだけである。戦後70年ほぼそれだけ、というのは怠慢としか言いようがない。

 

これにはリベラルやそう目されている人たちからも反省の弁が出ている。

 

上野千鶴子は、改憲派はいろいろアイデアを出してくるのに、護憲派は「対案はありますか」と問われても「いまのままで変えなくてもいい」、だから「何もしなくてもよい」としか言えず守旧派になってしまって魅力がなくなってしまうと指摘する。

 

大澤真幸と木村草太も復古的な思想への危機感がリアルだった世代には9条を守れという訴えは有効だったかもしれないが、敗戦の記憶をもたない世代にとっては民主主義や人権、平和といった普遍的な思想を振りかざす護憲派の態度は上から目線の押し付けに感じられてしまってもしょうがないと言う。

 

上野や大澤、木村らはリベラルは自分たちなりのリベラルの戦略を新たに探さなければならないと訴える。リベラルは変わらなくてはならないのである。

 

もっとも、日本のリベラルは海外のリベラルに比べて不利なことがある。

 

すなわち、日本の保守政党である自民党のリベラルさである。

 

海外のリベラルと保守は外交面でも内政での対立軸がおおざっぱに言えば一致している。リベラルは国際関係を協調可能と捉え、内政も社会保障を重視する大きな政府を志向する。他方、保守派は国際関係を対立的と捉え、内政も自助を重視する小さな政府を志向する。そのため、外交面では国防を重視しても、内政では社会保障を求める有権者であればリベラルを支持する可能性はある。

 

他方、日本では外交はともかく、内政ではリベラルと保守の対立は海外ほど強くない、というかセオリー通りであれば小さな政府を志向すべき自民党が非常に大きな政府を志向し、今日の社会保障制度のほとんどは自民党政権下で整備されてきた。最近はあまりに借金が増えて財政規律を考慮せざるを得ず社会保障制度利用者の負担増が議論されているが、それでも昨日に安倍首相が2019年10月までに消費増税を延期する意向と報道されたように、自民党は国民への負担増に踏み切れない(手厚い社会保障を理念とするというよりは選挙を懸念してだろうが)。

 

セオリー通りであれば、手厚い社会保障と国民の負担軽減はリベラルの縄張りであるはずである。しかし、日本においては自民党が少なからずその役割を担ってきてしまった。内政で保守派を攻撃しようにも、こと内政については日本の保守派は中道かやや左である。リベラルは武器の一つを奪われている状態であって、存在感を示す場が制約されてしまっているのである。

 

意見が決定的に対立するのは憲法しかない(それとて冷戦期は自民党改憲に消極的であった)。リベラルが勢力の縮減を怯えて存在感を示そうとすれば、憲法が争点化せざるをえないが、リベラルが嫌われているから、リベラルが護憲と叫べば叫ぶほど改憲派が増えるという(護憲派から見れば)悪循環が発生している(私は日本が右傾向化しているというよりは反リベラルが増えているといったほうが正解だと思っている)。

 

これからリベラルは日本の中でどこに居場所を見つけるのか。

 

日本のリベラルは護憲(特に9条という戦争・安全保障)と(この記事ではほとんど取り上げなかったが)歴史認識だけに精を出している。

 

今年7月の参議院議員選挙有権者もっとも重視する争点に関するNHK世論調査によると(1月時点)、社会保障景気対策がともに23%で1位、消費税が15%、安全保障が13%、憲法改正が13%、TPPが3%であった。安全保障や憲法改正の割合は決して小さいわけではないが、国民の関心は社会保障景気対策にある。

 

社会保障景気対策においてリベラルは無策である。実現可能性のある対案を示せていない。

 

自民党に侵食されていることが大きな要因であろうが、それでも国民の関心がここにある以上、リベラルは対案を示さなければならない。リベラルは変わらなければならない。そうでなければ、これからの日本にリベラルの居場所はなくなってしまう。

 

三浦は地方や女性、非正規のニーズは十分にくみとられておらず、リベラルが取り組むべきテーマはまだまだあると指摘する。三浦は一言でうまくリベラルの奮起を促している。

 

「闘え左翼、ただし正しい戦場で」

 

リベラルが護憲を超えた存在として日本に根をおろすことができるのか。リベラルの格闘をフォローしたい。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

三浦瑠麗『日本に絶望している人のための政治入門』文藝春秋、2015年

大澤真幸・木村草太『憲法の条件』NHK出版、2015年

上野千鶴子上野千鶴子の選憲論』集英社、2014年