猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

成功体験がのちの政策を束縛する

とある経済新聞は5月末に策定される予定の成長戦略が貧弱なものに終わることを懸念しているようだ。

 

その理由は自動走行やドローンといった流行りの施策が「的」として盛りだくさんに盛り込まれているのだが、それを実現するための「矢」が足りないことにある。

 

しかし、こういった批判はこの成長戦略に限られない。新聞各紙は成長戦略が発表されると大概の場合、その社説に「具体性がない」とか「実行力が大事」といった批判や注文をつけてきた。政府が成長戦略を発表して、新聞各紙が批判をするという光景はもはや恒例行事であり、5月に本当に成長戦略が発表されれば再度こういった批判がデジャブのように浴びせられることだろう。

 

そもそもこういった批判が加えられる背景には成長戦略への期待があるように思われる。実際、景気が低迷すれば政府への施策への期待は高まるわけだが、社会民主主義的な新聞紙が政府の役割を強調するのは理解できるにしても、資本主義や自由主義経済を尊重すると考えられる経済紙までが政府の役割に期待するというのは不思議な現象である。

 

海外の成長戦略に詳しいわけではないが、中国といった社会主義共産主義国新興国・途上国が5カ年計画といった中長期的な国家戦略を策定することは多い一方、自由主義経済の旗手である米国が日本でいうところ成長戦略を策定しているという話はあまり聞かない。もちろん米国とて各分野の発展戦略は策定している。しかし、経済紙は中国の5カ年計画は記事として大きく取り上げることを考慮すれば、米国にも国家全体の成長戦略が策定されれば大々的に報じるはずだが、あまりそういった記事は見かけたことがない。一般教書演説は必ず報じられているが、一般教書演説は日本の成長戦略や新興国の5カ年計画とは趣は違うので、おそらく米国には成長戦略はないものと想像される。

 

成長戦略に期待するのは新聞だけではない。そもそも政府自身、成長戦略をつくることに非常に力を入れているように見受けられる。第2次安倍政権の成長戦略である再興戦略や民主党政権下の成長戦略、小泉政権骨太の方針、村山政権下の構造改革のための経済社会計画、宮澤政権下の生活大国5カ年計画やら各政権ごとに名前は違えど成長戦略が立てられているといってよい。

 

しかし、米国ほどではないにせよ、日本も自由主義経済国かつ先進国なのであり、そのため社会主義国新興国のような成長戦略をいまだに策定しているのは不思議である。

 

なぜ、日本ではいまだに成長戦略に期待してしまう「成長戦略神話」があるのか?

 

これは過去に成長戦略によって成功したという「成功体験」があるからであり、そのはしりは池田政権の「所得倍増計画」であろう。小学校の日本史以降、所得倍増計画は日本の高度成長を実現させた戦略として必ず登場し、そして必ず覚えなければならない必須単語である。経済学の専門家ならいざしらず、一般の人は所得倍増計画が日本の高度経済を実現させた戦略であると脳みそに刷り込まれている。少なくとも学校の授業ではそう習うから。

 

1960年代は、日本が第2次大戦で負けてからわずか20年程度の時代であり、あれほどまでに壊滅的な被害を受けながらも20年程度で先進国の仲間入りをしたのは強烈な成功体験であり、高度成長期に先立って策定された所得倍増計画がそれをもたらしたという鮮烈な記憶が刻み込まれたといえる。こうした所得倍増計画によって高度成長を成し遂げたという成功体験が成長戦略に対する根強い期待を生み出していると考えられるだろう。所得を倍増させると宣言して、実際に所得が倍増した時期と重なっているのだから、そうした記憶が形成されるのはむしろ当然であろう。

 

だが、実際に所得倍増計画がどの程度因果的に日本の経済成長を実現させたかはよくわからない。日本の高度成長を牽引した鉄鋼業や自動車産業などは所得倍増計画やそれに関連した産業政策がなければ成長しなかったかといえば、当時は中国や韓国といった日本のライバルになるような新興国は存在しなかったから、優遇税制や補助金がなんらかの影響を与えたにせよ、政府の政策がなかったとしても十分成長したと考えることもできるだろう。

 

仮に所得倍増計画は日本の経済成長に貢献したとしても、その後の成長戦略は経済成長の目標数値を下げてきているにもかかわらず、その低い目標すら達成できていない。その意味で成長戦略はもはや賞味期限切れの政策といえる。しかし、それにもかかわらず成長戦略に依存するのは所得倍増計画という輝かしい先例が存在するからであり、一度大きな成功があるとその後の方向転換が難しいというのは何も政府に限らず、多くの企業にも当てはまることであろう。

 

組織文化を研究したエドガー・シャインによると、組織の学習には2種類、すなわち「積極的問題解決」に起因する学習効果と「苦痛と不安の軽減」に起因する学習効果があるとされる。

 

前者の積極的問題解決学習は、組織が直面する課題の解決につながった解決案が、その後も問題に直面するたびに思い出され、使用される可能性が高くなるというものである。「効き目をもっている」ことが発見されれば、次に同一の問題が起こった場合に再度繰り返し使用される。

 

その解決法がのちに発生した問題の解決につながらなければ、効果がなくなったとして放棄されるはずである。しかし、現実にはそうなるとは限らない。一時的にしか効果をもたなかった解決策が、その後も長期にわたって維持されることがある。シャインによると、、、

 

「もし何かが一時的に効果をあげる、しかし、どんな偶然的要素が成功、失敗を決定したのかが正確に突きとめられない、といった場合、その何かは、完全に効果がなくなってしまった後も、始終効果のあったものに比べ、はるか長期にわたり試み続けられるであろう。過去の歴史が示唆しているが、すでに効果がなくなっているにせよ、再び効力を示すかもしれないし、集団メンバーは、その解決がかつて、一時効力を失った後、もう一度効力を示したことがあった事実を思い出す」

 

 

成長戦略は所得倍増計画以後、大した成果をあげてはいないが、小泉政権下の骨太の方針は注目を浴び、実際に経済成長をもたらしたかどうかはともかく、政権の支持率浮揚には寄与した。

 

こうした所得倍増計画の輝かしい成功や骨太の方針が関心を集めたことがあるため、経済成長に寄与しなくともいつか効果を発揮するかもしれない政策として、政権が変わるたびに再生産されるのだろう。

 

さらにいえば、民主党政権の成長戦略以降、政権と成長戦略の名前が変わってもその中身には大きな変化はないように思われる。最近の「一億総活躍社会」だって、民主党政権の「日本再生戦略」の「共創の国」と何が違うのか。共創の国では、「すべての人に「居場所」と「出番」があり、全員参加、生涯現役で、各々が「新しい公共」の担い手となる社会である。そして、分厚い中間層が復活した社会である。そこでは、一人ひとりが、生きていく上で必要な生活基盤が持続的に保障される中で、活力あふれる日常生活を送ることができる」とされ、この文章から一億総活躍社会を連想しても、それを誤りと批判することはできない。

 

国が成長戦略を策定するという政策はもう賞味期限が切れていると思われるし、大した成果も上げてきたわけではないのだが、それでも成長戦略が再生産されるのは所得倍増計画という圧倒的な成功例が存在し、その記憶が現在の政治に依然として大きな影響力を与えているのである。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

  • 鈴木明彦「総点検:民主党の政策 成長戦略は必要なのか—成長戦略が経済成長率を高めるという幻想—」『季刊 政策・経営研究』2013年1。
  • H.シャイン(清水紀彦・浜田幸雄訳)『組織文化とリーダーシップ(初版)』ダイヤモンド社、1989年。