政治猫

猫が政治と戯れています

いつから政治家に本音を求めるようになったのだろう

民主主義を担うのは市民である。その市民は投票にあたり合理的な判断ができるのだろうか。

 

伝統的に政治学はこの問いに対して「否」と答えてきた。

 

ウォーラスが『政治における人間性』で人間は衝動や本能、性向によって駆り立てられる存在で、民主主義が理想とする目的合理的に行動できる市民は存在しないと嘆いたのが1908年である。

 

ウォーラスだけではない。アリストテレスがdemocratiaを貧しい人たちによる数を力にした無秩序で過激な政治であるとして民主主義を否定したのは有名な話である。民主主義を支持し選挙権の拡大にも賛成した19世紀の政治思想家のジョン・スチュアート・ミルでさえも有識者に複数の投票権を与えて大衆の暴走を抑えるべきであると主張した。

 

このように伝統的に大衆は本能や衝動にかられる非合理的な存在であり、政治は知識や徳を持った有識者(エリート)が担うべきとされたのである。

 

これは何も国内政治だけではない。外交も(こそ)同様にエリートが担うべきとされたきた。理想的な外交官とは、自身の価値や信条にとらわれることなく国益を最大化するために最適な政策を選択できる人物である。心では共産主義を嫌っていても国益のためなら中華人民共和国と組むことも厭わなかったキッシンジャーなような外交官こそが理想である。キッシンジャーがすごいのは本音では共産主義を嫌っておきながら、国益を最大化させるという目的を達成するうえで合理的な選択を行ったことにあり、彼のように本音と政策を区別できることがまさにエリートの政治家や外交官に期待されるところであった。外交官はナショナリズムといったイズムに左右されるようなことはあってはならないのである。

 

こうしたイズム嫌いは伝統的なリアリストと呼ばれる人に強く、キッシンジャー自身、エリートによる外交が行われていたウィーン体制の信奉者であったし、国際政治学者のモーゲンソーや高坂正堯、イギリスの外交官であったハロルド・ニコルソンらもエリートによる理性的な外交を望んでいた。彼らからすれば大衆の衝動を外交に反映にさせかねないナショナリズムは理性的な外交を脅かす危険な存在でしかなかった。

 

このように政治や外交は衝動的で非合理的な大衆は参加すべきではないか、少なくとも参加は制限されるべき存在だったのであり、その理由は兎にも角にも大衆は本能や衝動によって左右される非合理的な生き物とされたからである。

 

反対によい政治家やよい外交官とは本音に惑わされない人たちを指す。

 

 

にもかかわらず、3月1日のスーパーチューズデーでまさに本能や衝動によって突き動かされているようにしか見えないドナルド・トランプ氏が大勝利を収め、米国大統領選挙の共和党候補へ大きく前進した。

 

トランプ氏は本音で話してくれるから彼を支持する。それがトランプ氏を支持する人の理由である。

 

エリートによる政治を求める人は、政策と本音を区別できることに重きを置いた。しかし、トランプ氏が支持を得た大きな要因が、本音で話している(ように見える)ことだったのである。

 

トランプ氏を支持するのはエリートというよりは白人労働者といった社会における底辺層に位置する人々である。エリート層は相変わらずトランプ氏に手厳しい。エリートから見れば、トランプ氏は実現不可能な政策で排他主義を煽るデマゴーグにすぎず、米国の大統領に就くべき人物ではない。

 

 

しかし、トランプ氏を支持する有権者は彼が本音をしゃべっていると言うが、彼が「本当のこと」を言っているとは思えない。

 

改めて実現性を検証するまでもなく、メキシコにカネを出させて移民を遮る「万里の長城」を築くのは誰がどう考えても不可能である。中国やメキシコからの輸入品に関税を課すことも難しいだろう。10兆ドルの巨額減税の財源を示すこともできない。

 

実現可能性という観点から見れば、彼は何一つ本当のことは語っていない。

 

それにもかかわらず、多くの有権者がトランプ氏は本音を話すと支持をする。

 

本音とは「本心からの言葉」なので本当のことである必要はないのかもしれないが、本当のことを話していなくても本心からしゃべってくれると支持を得るのは何とも不思議な現象である。

 

しかし、これは既存の政治家が本音をしゃべっていないと有権者の少なくない人数が不満を抱いていることの裏返しである。選挙のときは都合のいいことを言うくせに、当選してしまえば選挙時の公約は反故にされる。

 

その意味では、既存の主流派であるエスタブリッシュメント出身の政治家も結局公約を守らないという点ではトランプ氏と変わらない。そうであれば、せめて実現させる気もない美辞麗句を連ねる既存の政治家よりも実現可能性はともかく、少なからぬ有権者が抱く不満を代弁してくれるトランプ氏のほうがいいのかもしれない。

 

エリートから見れば、本音と建前を使い分ける政治家のほうが「大人」の政治家であり、むしろ政治家に必要な資質でさえもある。

 

これまでもエリートと大衆の間の政治に対する亀裂は存在していたのだろう。しかし、民主主義は立候補した候補者しか選べない。特に選挙に多額の費用を要する米国の選挙に一般人が立候補することはほぼ不可能である。

 

多額の費用がかかることは有象無象の人物の立候補を妨げるという意味で一種のスクリーニングの役割を果たし、政治家の質を一定させる効果もある。しかし、スクリーニングの結果、政治の回路に反映されない声が出てくるのはやむをえず、トランプ氏の登場はこれまでたまりたまった不満を一気に放出させる引き金を引いた。

 

この亀裂をふさぐことはできるのか。

 

クリントン対トランプになって、クリントン氏の勝利は既存のエリート政治家への反乱の鎮圧といえるのか。

 

恐らくそうはならない。クリントン対トランプが事実上のエリート対大衆の代理戦争となった場合、仮にエリートのクリントン氏が勝っても敗者たる大衆はむしろエリートたちにしてやられたと思うだけかもしれない。無理やり力でねじ伏せられたと大衆が感じるようなことがあるとむしろエリートと大衆の亀裂は深くなる。

 

さらに以前にも言ったが、トランプ氏およびサンダース氏は過激な発言をすれば一定の支持を得られる事を示してみせた。従来は過激な発言をするトランプ氏は泡沫候補と当初見られていたことが示すように、本能や衝動に従う候補者は泡沫候補者として認知され、とても支持が得られないとこれまで考えられてきた。それは誤りだ、とトランプ氏とサンダース氏は示した。仮にトランプ氏もサンダース氏も大統領になれなくとも、彼らは既存の前提がもはや有効ではないと、ある種の成功体験を示したのである。

 

エリート対大衆の闘いはまだまだ続くのであり、トランプ氏とサンダース氏の「成功」は今後の変化プロセスの創始となるだろう。

 

いかがでしょう?