猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

今の環境がいい —現状が維持されるのは介入がないからではない—

私は日本の自然が好きだ。ゆえに日本の自然はいつまでもこのまま残ってほしいと思っている。

 

ただ、日本の自然を保護すべきという意見に共感できるのは、私が日本の自然を楽しみたいというすぐれてエゴイスティックな理由によるのであって、特段自然保護それ自体に熱い思いがあるからではない。

 

いくらゴクラクチョウが美しても、日本の田園でそれを見たいわけではないのである。

 

さて、話は変わって特定外来生物カナダガン

米原産の大型のガンで、狩猟用や愛玩飼育のためにヨーロッパやニュージーランドから導入されたとのこと。

 

環境省によると、日本国内で定着が確認されている個体を根絶することに成功したそうで、日本に定着した特定外来生物の根絶に成功した初の事例となった。

 

なぜ、カナダガンがいるとまずいかといえば、増殖率が高く、放置しておくと日本の絶滅危惧種であるシジュウカラガンと交雑してしまって生態系が乱されたり、農作物を食べられたりするためである。

 

生態系が破壊されるといった場合、「いつ」の「どの」生態系と比べて?ということがまず決まっていなければならない。地球の歴史上、生物が移動したり、絶滅したりすることは人類が誕生する以前から今日まで何度となく起きているからである。

 

動物は自力で移動するのが、植物だって生息域を拡大するために、動物や鳥に種を付着させて、遠くに運んでもらおうとする。

 

ということは、生態系は変化するほうが自然であるといえる。

 

捕獲されたカナダガンのうち一部は動物園に引き取られたが、残りは殺処分されたとのことで、日経新聞の2016年2月22日の記事のインタビューで「カナダガンに罪はないが、生態系を守るためにはやむを得ない」と獣医が答えている。

 

ここで言いたいのは、人間の都合で殺処分することはけしからん、

 

ということではない。

 

むしろ関心があるのは、「守るべき」生態系の基準を決定するということはいかなる政治的現象なのか、ということである。

 

生態系を守る根拠は、経済の発展に伴い、人間が生態系に与える影響が大きくなり、結果、生態系の破壊や種の絶滅を招いており、そうした生態系に対する人間の活動の影響を極力排除して現在の生態系を保持する必要がある、というものだろう。

 

しかし、勘違いされやすいのは、変化が存在しない、というのはそこに何のパワーも働いていないことを意味するわけではないということである。

 

政治には常に、変化させるか(現状を変革するか)、変化させないか(現状を維持するか)という意思決定がつきまとう。現状維持派と現状変革派のせめぎ合いがあり、両者のやりとりを経て、なんらかの「諸価値の権威的配分」をめぐる決定が行われるのであり、現状維持派と現状変革派がそれぞれ望む配分方法を達成するためにパワーを行使するのである。

 

もし現状を維持する、という結論が出たのなら、それは現状維持派が優位したということであり、現状維持派が現状維持を勝ち取るために大きなパワーを行使し、その後も現状を維持し続けたいと欲するのであれば、引き続きパワーを行使しなければならない。

 

生態系の現状維持も同じことであろう。

 

生態系保護派は、生態系を維持するためには人間の影響を極力弱くすることが必要、という発想が根底にあるような気がするが、そもそもある生態系が破壊されていると評価されるためには、基準となるべき生態系を決定する必要があり、生態系が変化したか破壊されたかは、その基準から判断されることになる。

 

「いつ」の「どの」時代の生態系を守るべき最善の状態と定義するか。この定義を行えるのは、そして行ってきたのは人間のみである。

 

生態系の維持については現状維持が最善ということで人間の間ではコンセンサスが得られている。現状維持に要するコストを誰が負担するか、それが先進国なのか、それとも新興国や途上国も含まれるのかをめぐっては争いがあるが、現在の生態系を維持すべきだ、ということについてはコンセンサスが成立しているように思われる。少なくとも、現状の生態系を変化させるべきだ、と声高に主張するような国や団体は存在しない。

 

現状変革派がいるとすれば、それは生態系の側だろうが、政治的な意思決定の場において生態系側に発言権はない。たまに動物が裁判の当事者適格があるかどうかが問題となるが、通常否定されている。まして、政治的な意思決定の場に彼らの生態系側の意見が反映されることはない。

 

あくまで維持すべき最善の生態系を決めるパワーを持っているのは人間のみである。カナダガンには日本の生息域を広げる権利はない。

 

それは、人間が人為的に持ち込んだものであって、自然現象ではないから、という向きもあるだろう。

 

しかし、植物の種子が別の動物にくっついて生息域を拡大したように、ある特定の種の活動に付随して別の生物の生息域が変化するということは地球の歴史上数多くにあったことを踏まえれば、人間という特定の種の活動に伴って、別の種の生息域が変化するのは、これまでの地球の歴史で発生した類似の現象と何が違うのだろうか。

 

それがいけないというのは、自然科学的に現在の生態系が地球の歴史上客観的に見て最善であったから、というわけではなくて、人間の活動によって生態系がこれ以上変わってはならないという規範的な価値観によるものにすぎない。

 

何がよくて、何が悪いのか。これを判断するには最初になんらかの基準設定が必要なのであり、その基準を決定できる者が大きなパワーを持っているといえる。

 

生態系の保護も同じだ。何が保護すべき生態系で、何がそこからの逸脱なのか。それが決まらない限り、何をすれば保護としてよい活動になり、何が生態系を破壊する行為なのかを判断できない。

 

そしてあるべき生態系の基準を決める決定権を持つのは、唯一人間のみなのである。

 

生態系を保護すべき、という一連の決定を見ても、自然保護派にとっては逆説的なことに、改めて地球における人間の持つ圧倒的なパワーを再確認するのである。

 

いかがでしょう?