猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

日本型家庭制度が社畜を産んだ?

最も流布している「政治」の定義は、イーストンによる「社会に対して行われる諸価値の権威的配分」です。

 

こうした諸価値の権威的配分はなんらかの集団や共同体が成立するところに常に存在してきました。集団の最も小さな単位の1つは家族で、その他、学校や企業、サークルや地域など、そして最も大きな単位として国家や国際社会があるのです。利害や価値観の異なる人たちによって構成される集団のあるところ、常に政治が存在します。ですので、政治学は政府によるものだけ限らず、一般社会における集団の分析すべてにとって有用なツールといえます。

 

政治と不可分の現象が「権力(power)」の行使です。権力とは相手の同意を獲得する力(相手に自分のやってほしいことはやらせる、またはやらせないようにするための力)ですが、「AがBの行動や傾向をある仕方で変える限りにおいて、AはBに対して権力を持つ」というのが最もポピュラーな説明です。AがBにXするよう影響を与えるわけで、Bがある行動をするのはAがBに影響を与えた結果と捉えられるわけです。

 

この権力行使も別に政府の中だけに限られるものではなくて、国家よりも小さな集団であっても権力行使は発生します。

 

この権力行使の概念をなぜ日本人は社畜になるのか、に当てはめてみると。。。

 

 

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そもそも憲法第22条1項は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」として職業選択の自由を保障します。公共の福祉に反しないという一定の制約を守っている限り、人々は職業を自由に選択できるのです。

 

では、なぜ日本人は自らの意思で「社畜」という奴隷になることを選択するのでしょうか。

 

社畜という言葉は、作家の安土敏氏が1992年の著作で使ったのが始まりと言われているように、もともと高度成長期以降のサラリーマン全般の不幸を指す言葉でした。

 

そのため、社畜を産む構造は企業とサラリーマンとの関係における権力構造を見ることによっとその一端が明らかになると思われますが、社畜を産むのは単に会社とサラリーマンの関係だけでなく、その背後にある夫が外で働き妻が専業主婦として家を守るという典型的な日本型家庭制度の存在があるように思うのです。

 

それはなぜか?

 

この日本型家庭制度は、女性を家に縛り付けるものとして男女平等の観点からも問題なのであるが、男から見てもこの家庭制度がハッピーだったかといえば、きっとそうではなかったでしょう。

 

ソファーで横になりスナック菓子をほうばりながらテレビを見る妻に対して、専業主婦ってラクでいいよなって愚痴をこぼす夫、それに対して家事だって大変なのよと文句を言う妻に対して、仕事はもっと大変なんだ、責任も重大だし、と反論する夫というのは昭和を代表する典型的な中間層家庭のイメージではないでしょうか(実際、こうした言い合いが頻発していたのかどうかはともかく)。

 

ときに家事の大変さを理解しない夫の理不尽さを示しているともとられるこのイメージも、夫から見れば決して理不尽な不満なのではなく、切実なホンネだったのかもしれないのです。

 

というのも、日本型家庭制度というのは「家族を会社に人質に取られたシステム」という一面を持っていたからです。

 

冒頭で書いたとおり、権力行使とは「AがBの行動や傾向をある仕方で変える限りにおいて、AはBに対して権力を持つ」です。そして、最もこの権力関係が成立するのはBがAに依存しているときで、依存されているほうAが依存しているBに対して権力行使ができます。

 

そして、どのようなときに最も依存状態が成立するかといえば、およそ↓の条件が成立しているときです。

 

  • BはAから資源を得ている。
  • その資源はBにとって必要不可欠なものである。
  • Aはその資源の配分やアクセスをコントロールできる。
  • Bにとってその資源を入手できる代替的な源泉は存在しない。
  • BはAの資源の配分やアクセスの仕方をコントロールできない。
  • BはAがどのような要求をするか、どのようにそれを決め、適用するかをコントロールできない。
  • Bは生き残ることを望んでいる。

 

日本型家庭制度ではお金を稼ぐのは基本的に夫のみ。お金はその夫の家族を養うのに必要不可欠。そして、妻は働いていないので、副業がなかったり(通常副業は認められていない)実家がお金持ちとかでなければ、そのお金を提供してくれるのは会社だけ。人事権は会社が握っているので、夫がものすごい才能の持ち主で会社にとって夫が必要な不可欠な人材であれば別ですが、そのようなことは非常にまれなので、通常夫は会社の人事権をコントロールすることはできない。会社から見れば夫は代替可能な資源にすぎず、会社は夫に依存はしていません。

 

つまり、、、

 

  • 夫は会社から資源(賃金)を得ている。
  • その資源は夫にとって必要不可欠なものである。
  • 会社はその資源の配分やアクセスをコントロールできる。
  • 夫にとってその資源を入手できる代替的な源泉は存在しない。
  • 夫は会社の資源の配分やアクセスの仕方をコントロールできない。
  • 夫は会社がどのような要求をするか、どのようにそれを決め、適用するかをコントロールできない。
  • 夫は生き残ることを望んでいる。

 

のような状況が成立しているのです。

 

ゆえに夫はお金という家族を養うために絶対に必要な資源を会社に依存しているのです。妻が働いていて他に資金源があれば夫はお金を得る代替的な源泉を持っているわけですが、日本型家庭では妻は専業主婦なので働いていません。絶対に必要な資源は会社からしか手に入れることはできないので、夫は会社にとても依存しているわけで、ゆえに夫は会社の言うことに服従せざるを得ないわけです。

 

家族を養うためにはお金が必要でその源泉は会社のみ。いわば家族が路頭に迷うかどうかの生殺与奪の権利は会社が握っているといえます。となれば、夫の選択の余地はほとんどなく、会社に尽くさざるをえないのです。

 

日本人が自らの選択で社畜という奴隷にならざるをえない背景には、夫のみが働くという日本型家庭制度があったのではないでしょうか。

 

それゆえ夫婦共働きになると資源を入手できる代替的な源泉があるので、社畜は減るといえそうなわけで、そもそも社畜を否定的に揶揄できるようになったのは、会社への依存度が減ったからともいえるのではないでしょうか(終始雇用制度が崩壊しつつあるので、会社に忠誠を尽くそうが尽くすまいが会社が資源を提供してくれなかったから社畜になってもしょうがないというのもあるでしょうが)。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

 

佐々木毅政治学講義[初版]』東京大学出版会、1999年。

大津真作『異端思想の500年—グローバル思考への挑戦—』京都大学学術出版会、2016年。

Pfeffer, Jeffrey and Gerald R. Salancik, The External Control of Organizations: A Resource Dependence Perspective, Stanford Business Books, 2003.