猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

JA全農改革〜改革へ至る選好順位〜

 

 

 JA全農の自主改革

全国農業協同組合連合会JA全農)の自主改革案が公表されました。

 

具体的には、

 

主要肥料銘柄を400から10に集約

中古農機の全国展開

安価な後発農薬を発売

コメの直販を9割にする

 

などが挙げられています。

 

農協は農家の交渉力強化や所得向上のための組織として設立され、実際にそれに貢献してきたといってよいでしょう。

しかし、近年は既得権益化し、自由な農産物取引を妨げ、ときとして農家と消費者の不利益となるケースも出てきています。

 

最近であれば、JA土佐あきが農家に対して生産したナスを全て同農協を通して販売するよう圧力をかけたとして、公取委から再発防止を求める排除措置命令が出されました。組合員であっても出荷先は自由に選べるにもかかわらず、農家の味方であるべきJAが圧力をかけて農家の自由な取引を妨げていました。

 

このように近年ではJAは機能不全を起こしていると思しき行動をとっていたわけで、日本の農業の再興のため、JA改革が求められており、政府も小泉進次郎氏がプロジェクトチームのリーダーとなり、改革案の作成を主導しました。

 

そうした背景の踏まえての今回の自主改革案の発表となるわけです。

 

自ら改革するインセンティブ 

さて、JAは自ら改革をすすめるインセンティブはなかったと思いますが、それでも改革案を作成したのはなぜでしょうか。

まず、JAの選好順位を下記のとおりまとめてみます。

 

現状維持>自主改革>政府主導の改革

 

外部からの改革の強制が必ずしも厳しいものになるとは限りませんが、それでも自身の裁量によるものではないので、かなりの大ナタが振るわれる可能性は否定できません。

 それでも、改革への圧力が存在し、現状維持が困難な状況であり、何かしらの改革は不可避という情勢であったとします。

 

その場合は、自主改革案を作成し、課題に取り組んでいるという姿勢を示すことが次善の策となるでしょう。

 

あまりに内容のない改革案であればかえって叩かれるかもしれませんが、たとえ厳しめの改革案にするにせよ、自身でコントロールできるぶん、過大な改革案を吹っかけられるリスクは回避できます。

 

今日でこそ定着した感のあるCSRですが、当初は似たような動機で進められた側面があると思います。

 

ナイキのスニーカーは途上国で生産されていましたが、そこでは児童労働や劣悪な環境での作業が行われていたことが、NGOの告発によって明らかとなりました。

 

ナイキのスニーカーの不買運動が起こり、ナイキは問題への対処を迫られました。企業活動による負の外部効果は、労働環境だけに限らず、環境問題などもあり、企業とはいえ自由な経済活動だけをしていればいいという考え方が受け入れられないとすれば、それらを取り締まるために公的な規制を導入するという手もあります。

 

http://toyokeizai.net/articles/-/35708

 

ただ、企業としてはそれは困る。特に世論が企業への懲罰を求めているような状況では、過剰に厳格な規制が導入されてしまうかもしれません。

 

とはいえ、何もしないということが許されず何らかの対策は必要ということで、自主的な取り組みが選択されるというわけです。

 

JAがあえて自主改革案を導入した動機としてはそのようなことが考えられるわけで、小泉進次郎氏のもと改革の機運が作られ、現状維持は困難ということをJAが認識したという証拠といえます。

 

今後の行方

今後は改革が実際に実施されるのかに焦点が移ることになります。

 

政府なり世論が改革への圧力をかけ続ければ、JAは改革を実施するコストと、改革しないことによる懲罰、すなわち厳格な改革案導入とのあいだでコスト計算しなければならず、そうであれば改革に向けて取り組むと考えられます。

 

JAの組織改革が進み、JAの政治的動員力が落ちれば、今後のFTA交渉におけるJAからの反対が弱まるかもしれません。

 

もっともTPPご破算後の日米FTA交渉についていえば、農業団体からの反対がなくても、これだけ振り回されながらあっさり米国の要求を呑むのうであれば、政権のメンツにもかかわるので、なかなか難しいとは思いますが。

 

それにTPP交渉が妥結したときの安倍政権の政治的資源は潤沢にありましたが、今は森友学園問題で疲弊していますから、仮に協定の中身がTPPと同レベルでも2年前ほど容易には国内を説得するのは難しいことでしょう。

これまでのやり取りが通じない相手が出てきたら〜なぜにトランプ大統領に振り回されるのか?〜

 

意図をどう正確に誤認させずに伝えるか、それがとても難しい

意図をどう伝え、相手がそれを誤認することなく受け取ってくれるかはなかなか難しい問題だ。

 

国際政治学で有名な安全保障のジレンマや抑止の問題は意図の伝達ととてもよく関わっている。

 

安全保障のジレンマとは、自国の安全保障を高めるための行動が相手国の警戒感を高め、相手国が軍事力を拡大させ、結果として自国の安全保障を高めるという当初の目的が達成されないことを指す。

 

これは自国の意図を相手国を信じることができないことによって生じる悲劇である。

 

たとえばA国が本心から自国の安全保障を向上させるためにミサイルを配備したとする。これは自衛力の向上のためであって、相手国であるB国を攻撃する意図は全くないとする。

 

B国がこれを信じるかどうか。B国も信じようとはするかもしれない。しかし、自衛のためとはいえミサイルは容易に攻撃用兵器に転用できる。もしA国が合理的であれば本心を隠してハト派と振る舞い、B国が油断したところを攻撃しようとするだろうと想像するかもしれない。

 

それでも国内のように中央政府が存在すれば仮に約束が破られても警察や裁判によって約束を破った人は裁かれ、自分の被害も回復してもらえる。それがわかっていれば、相手もわざわざ進んで約束を破ろうとはしない。それゆえ国内では約束が守られる確率が高まるわけだが、世界には中央政府たる世界政府は存在しない。

 

とすれば、B国は約束が破られた場合は自分で自分の身を守らなければならず、それゆえ国家は最悪の事態も想定するといえる。そうなれば、仮にA国が本心から自衛のためにミサイルを配備したのだとしても、もう一方のB国としては簡単にそれを信じることはできないだろう。

 

こうして、B国は自衛のために軍事力を高めて、結局双方とも安全保障を高めることはできない。A国からすれば自国の自衛の意図を伝達することに失敗したといえるわけで、自国の防衛の意図を伝えることがいかに難しいかがわかるだろう。

 

これは程度の差こそあれ、多くの外交交渉に当てはまると考えられる。自国の意図をいかに伝えるか。本心を信じてもらいたい場合もあれば、本心を隠して相手国を騙したいときもあるだろう。騙すことも容易ではない。相手国も警戒しているからだ。自国は実はタカ派だが、相手国にはハト派と信じさせたい。しかし、それをバレずにどうやるかは外交交渉の腕次第である。

 

意図の伝達の難しさについては、シェリングの本がとても面白い。

 

 

トランプの発言に信憑性を感じるのはなぜ?

さて、トランプ大統領は自分の意図を見事に伝えていると思われる。

 

先日のG20は最後の共同声明で「あらゆる形態の保護主義に対抗する」という文言を盛り込むことができず、「経済に対する貿易の貢献の強化に取り組んでいる」という表現にとどまった。

 

www.bloomberg.co.jp

 

みな、米国の出方を気にしているのだ。依然として米国は世界一の超大国だから、米国が反対することを要求するのは確かに容易ではない。

 

そうしたパワーという根本的な要因も重要なのだが、ここではなぜにトランプ大統領にみながそこまで振り回されるのかを、意図の伝達の観点から考えたい。

 

一言で言えば、「トランプならやりかねない」とみなが思うからこそ、彼の発言に(発言が正しいという意味ではなく、発言したことを本気でやると他者が認識するという意味で)信憑性を感じるのである。

 

彼は大統領選挙中から、移民排斥やTPP離脱といった米国全体の利益で考えれば、そして米国が掲げてきた理念からすれば、絶対にやるはずのないことを公約に掲げ、大統領就任後、すぐさまそれらの公約の実現に向けて動き出した。移民問題こそ司法の抵抗に遭って実現していないが、彼はそれらの政策を選挙での勝利のための方便としてではなく、実際にやるということを示した。

 

 正直、アメリカファーストを掲げながら、米国にとって利益とならないような政策を次々に実現させようとするトランプ大統領のやり方はむちゃくちゃとしか言いようがないが、むちゃくちゃだからこそ他国は彼の言動に信憑性を感じてしまうのだ。

 

どの国でも国の指導者は何らかの政治的な経験を積んでから就任することが多い。それゆえ、その過程で政治的なルールだとか方便というのを覚えてくる。

 

国同士が対立する要素を孕んでいたとしても、ウィーン体制や冷戦がそうであったように一定の慣行が成立すれば、あれはホンキ、これを脅し、といったことが判別しやすくなる(もっともだからこそいつもと同じだろうと思っていたら、実は違ったという誤認も起こるわけだが)。

 

しかし、トランプ大統領は違う。従来の米国の大統領だったら絶対に言ったりやったりしないであろうことを公約に掲げ、そして公約を実現しようと大統領令に署名して、行動に移してきた。

 

こういう従来の公式が通じないやり方相手にどう対処するか他国が学習するには時間がかかるだろう。それまではどの国もトランプ大統領の発言は仮に内容が突破なものであっても彼はホンキかもしれないと疑心暗鬼にならざるを得ない。それゆえ、彼の言動がこれまでに影響力を持つのである。

 

もっともそれが米国自身を幸せにするかはわからない。米国を相手にしても埒があかないのであれば、米国抜きで、たとえばFTAなんかを結ぼうとするかもしれない。中国はこの事態を機会主義的に利用しようとする最たる国だろう。

 

せっかくTPPによって高度な自由貿易ルールを構築するチャンスをトランプ大統領はフイにした。他にも態度をコロコロ変えるようなことがあれば、米国は誠実な交渉相手とはみなされなくなってしまうだろう。彼がむちゃくちゃだからこそ彼の言動が信憑性を高めることになり、短期的には外交交渉を有利に進められるとは思うが、長期的にはトランプ大統領は米国の利益にはならないと思うのである。

メディアの議題設定効果とFTA締結への影響

 

TPPが頓挫して

トランプ大統領が撤退の大統領令に署名したことで、環太平洋パートナーシップ(TPP)が事実上のご破算となってはや2ヶ月。TPPへの賛否はあれど、あれほどまでに苦労して妥結した協定がこのようなかたちで葬り去られようとは交渉妥結当時、いったい誰が想像したであろうか。

 

大統領選挙の最中からトランプ氏はもとより、民主党候補のヒラリー氏もTPPには否定的な立場であったから、批准プロセスの難航は予想されていたが、実際に撤退の大統領令が署名された衝撃は大きい。

 

スポンサーリンク

 

 

トランプ氏の外交政策、すなわち中国に対する強硬的な姿勢からすれば、TPP批准はむしろ利益になるべきものであった。TPPには単に貿易自由化という側面のみならず、中国に対抗するための自由民主主義国や資本主義国の事実上の同盟という側面もあったからだ(両方に合致しない国も加盟はしているが)。それにもかかわらず彼がTPPからの撤退を決めたということは、彼は対外政策にはさほど関心がなく、国内の雇用や移民対策のほうにより関心があるということなのかもしれない。

 

トランプ大統領は多国間のFTAではなく、二国間での交渉を望んでいるようだ。二国間のほうがより米国のパワーを使って自国に有利な交渉にできるということなのかもしれないが、北太平洋自由貿易協定(NAFTA)や米英FTA、そして日米FTAなどの重要なFTA交渉が待つなかで、これだけの重要なFTAを同時に進めていけるだけの十分な専門知識を持つ職員が十分に USTRにいるかといえば、そうではないだろう。そのため、仮に大統領が二国間交渉を急ぎたくても現実的にそれを可能にする十分な人的資源はないと考えられる。

 

マスメディアが政策争点に与える影響

さて、今回読んでみたのは谷口将紀氏による『政治とマスメディア』だ。 

 

 

これは通商に関する本ではないが、今回の大統領選の特徴は、通常通商問題が選挙の争点にならない米国において、TPPが争点の一つになった点であり、そもそもある政策が選挙の争点になるかどうかはどのような力学に基づいて決まるのかを考えてみたいからだ。

 

当たり前だが選挙の争点になるにはその問題が注目されなければならない。通商問題ならなんでも注目される争点になるかといえばそうでもない。

 

日本でもTPPは大きな話題となり、賛否両論が吹き荒れた。しかし、日本が締結したFTAはこれが最初ではない。初めてのFTAシンガポールと2002年に締結したものであり、その後メキシコや東南アジア各国、オーストラリア、モンゴルなどと締結してきた。オーストラリアとのFTAはTPP交渉中に妥結し、TPP交渉で米国を牽制する意味合いも期待されていたし、農業国とのFTAという点でも他のFTAに比べると注目されたような気がしないでもないが、基本的に過去のFTAは注目されてこなかったし、まして選挙の争点にならなかった。

 

今回、TPPが注目されたのは、多国間のFTAであり、何より米国という日本にとって安全保障上も経済上も最も重要な国を含むFTAだったからであり、とはいえ米国は日本に最も外圧をかけてくる国と認識されているからであり、そして日本は米国の外圧にこれまで散々屈してきたという思いがあるからと考えられる。

 

当然、メディアでの取り上げ方も過去のFTAの比ではない。メディアで取り上げられれば、それだけ多く人が問題の存在を知るようになる。問題の存在を知り、かつそれが重要な問題なんだと報じられれば報じられるほど、われわれはその問題を重視し、ときにはそれを投票の際の判断基準にするだろう。

 

メディアの持つ影響力としてよく挙げられるのが、議題設定効果とプライミング効果である。

 

議題設定効果とは、

 

議題設定とは、公共に関わる様々な出来事や争点の中で、人びとが何を重要と考えるかという点について、影響力を及ぼすことである。例えば、マスメディアが特定の政策争点について、賛成または反対の立場を取らなかったとしても、それを繰り返し取り上げるうちに、人びとの当該争点に対するする関心が高まることがある(谷口、46頁)

 

一方、プライミング効果とは、

 

議題設定によって、人びとに重要と認識されるようになった問題は、それ以降の政治ー政府、大統領、内閣、首相、政策、候補者などーに対する判断材料となりうる。例えば、テレビが核廃絶問題を集中的に報道して、人びとの核問題に対する関心が高まったとしたら、核戦争が起きるリスクを減らせたかどうかによって、人びとは大統領の業績の良し悪しを判断するようになる。同様に、経済問題に関する報道が多かったら、人びとは経済的繁栄を維持できたかどうかによって、大統領の業績を測るようになる。このように、マスメディアがある事柄に注目させる(あるいは注目をそらす)ことによって、人びとの政治判断の基準を変える効果は、プライミングと呼ばれている(谷口、49頁)

 

ちゃんと新聞の記事数を確認したわけではないが、TPPに関する記事数が他のFTAよりも直感的に多そうだし、おそらくこの直感は外れていないだろう。

 

メディアと大統領選挙の結果

最近は新聞を読む人と減ったというし、米国の大統領選では主要メディアの信頼度が低下して、むしろTwitterといったSNSが影響力を持ったとされる。こうしたトレンドについてはさらに調べてみないとなんとも言えないが、どういう媒体であれ、何らかのメディアを通じて問題がクローズアップして争点化されない限り、注目されず選挙の争点にもなり得ないという基本的なメカニズムには変化がないといえる。

 

ただ、これまではメディアが間に入ることで、良くも悪くも情報の選別がなされていたわけで、SNSであれば、発信者から受信者にダイレクトに情報伝達が可能となる。メディアの議題設定効果とプライミング効果は依然として残るが、誰がそれをやるか、すなわち新聞やテレビといったマスメディアがやるのか、それとも発信者自らがそれをやるのかが大きな変化といえる。

 

またメディアに議題設定効果やプライミング効果があるとはいえ、それはあくまで問題への関心を高める効果であり、それが当該問題への賛否をどう決定するかは別に検討する必要がある。

 

今回の大統領選では特に共和党員の間で自由貿易への支持が減退し、保護主義支持が拡大した(2009年は57%の共和党支持者がFTAが米国にとって良いことと答えたが、2016年10月には24%にまで減少し、反対に悪いことと答えた人は68%になった*1。伝統的に共和党自由貿易支持とされてきたから、この動きは特筆に値するが、情報に接した結果、受信者の当該問題に対する態度がどう影響を受けるかは興味深い論点である。

 

TPPをめぐって経済学者は、自由貿易は国全体の経済厚生を引き上げると主張していたわけだから、TPPを知ることによって自由貿易への支持が高まってもおかしくはないはずだ。たとえば、ブランダイス大学のPetriとジョンズホプキンス大学のPlummerは、TPPによって米国の年間実質所得は約1300億ドル、輸出は約3600億ドル増加すると予測していた*2

 

にもかかわらず、今回の大統領選では自由貿易への支持は減少した。どのようなメカニズムによって、受信者の態度形成がされるかは今後考えていきたい。

 

冒頭の繰り返しになるが、二国間交渉は難航が予想される。米国側でも多方面で二国間交渉をするだけの人材確保は大変であり(さらに言えばNAFTAの再交渉もある)、アメリカファーストを掲げるトランプ大統領が輸入拡大につながりかねない譲歩をするとは考えられない。少なくとも今後4年間は米国が関わる自由貿易交渉は進まないだろう。もし可能性があるとすれば、米国抜きでのFTA網が構築され、競争力低下を恐れる米国産業界が政府や議会に圧力をかけ、それがトランプ大統領の翻意を促すというシナリオであろう。

スポンサーリンク

 

 

*1:Pew Research Center, "Opinions on U.S. international involvement, free trade, ISIS and Syria, Russia and China," 27 October, 2016, http://www.people-press.org/2016/10/27/7-opinions-on-u-s-international-involvement-free-trade-isis-and-syria-russia-and-china/#increasing-gop-skepticism-toward-free-trade-agreements

*2:Peter A. Petri and Michael G. Plummer,"The Economic Effects of the Trans-Pacific Partnership: New Estimates," Working Paper 16-2, 2016, https://piie.com/publications/working-papers/economic-effects-trans-pacific-partnership-new-estimates.

鳥越氏にはリベラル勢力の恥の上塗りをしてほしくなかった

「だから来るところまで来たなというのが僕の実感。その中でリベラル勢力は何してんのか?と。何もしてないわけだよ」

 

というのは、都知事選を振り返った鳥越俊太郎氏のハフポスト紙における、日本のリベラル勢力に対する評価である。

 

「『戦後社会は落ちるところまで落ちた』鳥越俊太郎氏、惨敗の都知事選を振り返る【独占インタビュー】」『The Huffington Post』2016年8月12日 

 

彼に対する読者コメント欄の否定的な意見の多さは、昨今の日本のリベラル勢力の人気のなさを象徴しているけど、リベラル勢力は何もしていなくて、何かをせにゃならん、という彼の心意気はありなんじゃないかと思ったりもする。

 

しかし、だからこそ言いたい。なぜ日本のリベラル勢力の恥の上塗りをする選挙戦をしたのか、と。

 

ハフポスト紙の彼のコメントもかなり情けないものだが、すでに多くの人が批判しているように、待機児童ゼロ、待機高齢者ゼロと原発ゼロ、三つのゼロ、非核都市宣言といった、都の管轄外の政策や都民の優先順位の低い政策を掲げていたのもとてもよろしくない。

 

統計上は国家間の戦争がなくなり、武力紛争において内戦とそこからの復興(平和構築)が国際的な重要課題になったり、中国の東・東南アジアへの進出、北朝鮮のミサイルおよび核実験だったり、そういった国際情勢の変化があったにもかかわらず、相変わらず自衛隊の海外派遣反対!憲法9条反対!ばかりを繰り返す、外部環境にまったく関心を払わない(もしくは適応できない)日本のリベラル勢力の政治オンチさを鳥越氏も示してしまった。

 

参議院選挙で改憲勢力議席の3分の2をとった結果に対して、「日本の戦後社会はここまで来たか。落ちるところまで落ちたな。これはもう、いよいよダメだなと思いました」と鳥越氏は言う。

 

あたかも悪いはリベラル勢力ではなく、それを理解しない国民だ、と言わんばかりである。確かに戦後社会も落ちるところまで来ているのかもしれないが、それはそれとして、同時に彼に考えて欲しいのは、なぜリベラル勢力がこれほどまでに信頼を失っているのか、ということだ。

 

f:id:seijineko:20160814235812j:plain

 

マーク・マゾワーの『暗黒の大陸』は、ヨーロッパにおける民主主義の正統性の変遷を扱った著書である。

 

マゾワーによれば、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の戦間期、民族や階級間の対立が激化し、人々はナチズムやファシズム全体主義を含む権威主義的な政治体制を信頼するようになったとする。

 

当時のヨーロッパ諸国の政党は分裂し、2000年代の日本も驚くほど短期的な政権交代が発生していた。マズロー曰く、1918年以降、ヨーロッパで内閣存続期間の平均が1年を超える国はほとんどなく、こういった弱体化した政府では、憲法や政党綱領で約束した社会経済改革を推し進めるのはほとんど不可能であった。

 

こういった政治社会情勢では民主主義の象徴ともいうべき議会に期待することは難しく、人々は執行権の強化を求めるようになる。

執行権強化は、民主主義や憲法を破壊するのものではなく、政治の有効性を確保することで、民主主義の正統性を維持しようという試みである。しかし、議会の麻痺を補おうと執行権を強化していくと、どの時点で民主主義が終わり、独裁制に移行するのか、その境界線は曖昧になってしまう。

 

当時のドイツ(ワイマール共和政)の憲法では、議会が麻痺したとき、大統領が緊急時に立法権限を行使できるという緊急令が認められていたが、緊急令が頻用されると、いくら憲法で認められた権限といっても、独裁制ではない、と否定するのは相当に困難となる。

 

こうした議会の麻痺とそれに対する人々の不信、一方で膨らむ執行権への期待が、徐々にナチズムを許容する土壌となっていくのである。

 

ナチズムは極端な例だとしても、そもそもこうした極端な政治を受け入れる用意ができていたのは、当時の民主主義への不信感であった。第一次世界大戦が終わり、政治経済体制を早急に回復させなければならないにもかかわらず、議会が混乱し、一向政治が前に進まなければ、議会とそれを理論的に支える民主主義を信頼せよ、と期待するほうが無理難題というものだ。

 

もし、日本のリベラル勢力から見て、今の日本(安倍政権の一強体制)が異常だというのであれば、なぜ異常が受け入れられているのかをしっかり考えなければならない。確かに当時のドイツ国民はよもや執行権の権限強化がナチズムに利するとは想像していなかっただろうから、極端な政治を受け入れるのは国民が愚かだからという評価も的外れではないだろう。しかし、国民は愚かだ、と批判しているばかりではリベラル勢力が懸念する事態を回避することはできない(当時のヨーロッパも国際法学者のケルゼンやフランスの自由主義者のバッシュらは民主主義を擁護したが、そういったエスタブリッシュメントの意見が世論に浸透することはなかった)。

 

鳥越氏ら、戦中や敗戦直後に生まれたり、育った世代は直感的に戦後政治とそれを象徴する平和主義や民主主義を素直に受け入れることができるだろう。なぜなら、戦中の軍国主義は国内外に多くの不利益をもたらし、国民は政治によって多大な犠牲を支払わされたからだ。軍国主義に正統性も有効性もないのは明白であった。それゆえ、軍国主義を否定する平和主義や民主主義の正統性を皆直感的に理解することができたのだ。

 

しかし、今の30代以下、第一次就職氷河期以降の世代は、そこまでナイーブに戦後政治を受け入れることはできない。戦争経験がないから、戦後政治のアンチテーゼである軍国主義の非正統性を実感を伴って理解するのは難しいし、2000年代後半は短期間での内閣の交代とねじれ国家による政治の停滞を目にしてきた。

 

そうした若年層が戦後世代と同じレベル感で戦後政治を信頼するのはほとんど不可能である。学校でちゃんと大人(戦後世代)が言うように勉強しても、ろくに就職もできなかったり、給料は増えなかったり、それによって私生活の充実が阻まれているようでは、民主主義の素晴らしさを理屈では理解しても、現在置かれている苦境を脱する上でなんら解決策を提示してくれない民主主義を感情レベルで共感して支持するのは無理である。

 

若者は低迷する日本の原因を戦後政治に見出しているのである。

 

この因果関係の理解が正しいかどうかはわからない。しかし、この因果関係が誤りだというのなら、リベラル勢力はなぜ誤りなのかをしっかりと説明しなければならない。鳥越氏のように、単に相手の理解不足を批判しているだけでは、戦後政治という現状を変革したいと考える層の不満を解消することはできない。

 

政治では現状維持勢力と現状変革勢力がいる。現状維持が続くのは、現状変革勢力の利益が一定程度反映されて、現状変革勢力が現状の継続を受け入れる場合である(もしくは、現状維持勢力が圧倒的なパワーを持っていて、相手が不満でも屈服させられる場合)。

 

現状(鳥越氏らリベラル勢力にとっては戦後政治)への反発が増えるのは、単に国民の無知ゆえではなく、それなりの政治社会的背景があることをリベラル勢力は理解するべきである。

 

参考文献

マーク・マゾワー(中田瑞穂・細谷龍介訳)『暗黒の大陸-ヨーロッパの20世紀-』未來社、2015年(原著は1998年刊行)

 

暗黒の大陸:ヨーロッパの20世紀

暗黒の大陸:ヨーロッパの20世紀

 

 

座席という希少資源をめぐる戦い—なぜ妊婦さんに冷たいのか?—

マタニティマークを付けた妊婦さんが電車に乗ると様々な嫌がらせを受けるらしい。座席を譲ってもらえないどころか、わざとぶつかってくるとか、「でき婚のくせに」とか「タクシー乗れよ」とか暴言を吐かれたりとか。。。

 

たしかにGoogleマタニティマークと入力すると、関連ワードとして「危険」というワードが出てくる。

 

政府は少子高齢化対策として、6月2日に閣議決定された『ニッポン一億総活躍プラン』で「希望出生率1.8」を目標に定め、「産めよ、増やせよ、地を満たせ」と出産・育児を推奨しているわけだが、そんな政府の思惑とは別に、日本はますます子供を持ちにくい国になりつつある。海外に行くと、子供はとても可愛がられていて、私の経験でも、飛行機で子供がぎゃーぎゃー泣き喚いていると、フライトアテンダントがより快適な席に座っている人に「子供のために席を交換してほしい」と頼み、その乗客も当然とばかりに快く座席を移っていた。日本ではとうてい考えられない光景だ(そのとき声を掛けられたのが私だったら、果たして快く応じられたかどうか。。。器の小さい話で本当に申し訳ないが、長時間フライトのエコノミーシートの通路側座席と真ん中の座席を交換するのはなかなか大変なことだ)。

 

どうして日本人はこんなに妊婦さんに厳しいのか!と呆れる反面、本来、日本人だってそこまで冷たい人間ではないとも思うのだ。子供嫌いの人もいるだろうが、妊婦さんに嫌がらせをする人の中には、決して普段は冷たい人でなかったり、ましてなかなか快く座席を譲れない人の多くは案外人からは優しい人と言われるような人だって多いはずなのだ。

 

そんな普段優しい温厚な人でさえも妊婦さんに厳しい鬼人間に変えてしまうメカニズムとは一体なんなのだろうか。特にそれを社会的なコンテクストから考えたい。

 

単純に疲れているからであったり、少子高齢化が進み、子供が身近にいなくなって子供に慣れていないこともあるだろう。しかし、なぜに電車の中は特に妊婦さんとそれ以外の人たちとの対立が先鋭化しやすいのだろうか?電車という空間の特有の性質はなんだろうか?

 

f:id:seijineko:20160717175208j:plain

 

電車の座席が限られているという点が重要なポイントだ。

疲れていればそれだけ座席に座りたい。特にラッシュアワーともなれば座席に座れるか座れないかは快適な通勤・通学に大きな影響を与える。しかし、座席は乗客すべてが座れるほど十分な数はない。というか、圧倒的に足りない。そのため、電車の中における座席はみなが欲しがる希少資源となっているのであり、日々のラッシュアワーは座席という希少資源をめぐる熾烈な戦いを引き起こしているのである。

 

座席は有限な資源である以上、誰かが座れば他の誰かが座れなくなる。しかし、座席をめぐる戦いが各人平等な条件で行われていれば、座れなくてもガマンはできよう。

 

しかし、平等なゲームの中に優先的に座れる特権階層が現れたらどうか。

みなが妊婦さんを優先するというルールを納得していれば問題ない。しかし、マタニティマークをつけた妊婦さんへのいやがらせが相当数あるということは必ずしもルールへの納得感が大きくないのだろう。いやがらせをしないまでも、席を替わらないことは多い。

 

席を替わらない人は冷血漢なのか、といえばそうではなかろう。彼らも疲れているのだ。疲れているのは仕事や勉強をがんばっているからで、彼らは彼らで自分たちは数少ない座席に座れるだけの正当性を有していると考えている。

 

仕事で頑張っている人は報われるべきというルールがあるならば、妊婦さんを優先すべしというルールは頑張りルールとはルールの原則が異なる。妊婦さんを優先するのは努力とは関係なく、医学的な根拠に基づくからだ。

加えて、家事や出産・育児といった家庭内で行われるプライベートな活動への評価が低いこともあるだろう。仕事に比較して家事や出産・育児が社会的重要性が低い行いと認識されていれば、なぜに妊婦さんを優遇せねばならぬのだ、という反発が起こる可能性は高まる。保育園が迷惑施設として近所から嫌われていることといい、従来家庭内で行われていた行為を社会が肩代わりすることへの理解がまだまだ深まっていないのだろう。共働き家庭の増加という社会環境の変化によって社会として出産や子育てに従来とは異なる対応が必要になっているが、人々の認識の変化は社会の変化ほどスピーディには変化しない。

 

妊婦さんや高齢者やけが人が優先的に座れるべきなのは特権ではなく医学等に基づく合理的な根拠による。妊婦さんは子供を育てるために血液をお腹に集中させる。そのため、長時間立ち続けると脳に血が行き届かず貧血を起こしてしまう。

 

その意味で妊婦さんは長時間立ち続けるには不利な条件を課せられている。しかもそれは本人の努力の問題ではなく妊娠に伴う生物学的な原因による。本人の努力でどうにもならないことを責めるのは責任原則からも逸脱する。責任というのは本人ができることをしなかった、通常の人間ならすべきなことをしなかったせいで、誰かに不利益を発生させたりしたときに問うべきものだ。本人にどうにもできないことを責めてはならない。

 

妊婦さんに優先権を与えずに同じルールを適用するというのは絶対的平等という名の下の悪平等にすぎない。

 

それでは、どうしたら妊婦さんに温かく接するというルールに他の乗客の同意を得られるのか。

 

同意の獲得方法は3つ、すなわち、強制、誘引、説得の3つがある。

 

強制は、力の行使によって無理やり同意させることである。

誘引は、金銭等の利益を供与して相手の同意を買うことである。

説得は、相手の価値観や考え方を変えて、ルール自体の内容に賛成させて同意を得ることである。

 

強制と誘引では、力やカネによって同意を獲得しているだけなので、ルールそのものに本心から同意しているわけではないが、説得ではルールそのものへの同意も得られている。

 

妊婦さんに温かく接するというルールを強制によって守らせるには、たとえば罰則を設けて、妊婦さんに危害を加えた場合に処罰して、その処罰を恐れるためにルールに同意させることになる。

誘引では、妊婦さんに優しくした人に電車賃を割引したり、ボーナスやその他ポイントなどを提供することになる。

説得では、妊婦さんを優先すべき医学的な根拠を説明して、相手の納得感を得ることになる。

 

強制では一部の加害行為については現行の刑法でも処罰できるだろうが、あまりに軽い刑では抑止力にならないし、かといって重すぎる刑罰だと他の犯罪とのバランスが難しい。

誘引は、やろうとしても鉄道会社や政府にそれだけの財源を用意するのが難しい。それに強制も誘引もそれをモニタリングする人的・物的資源を確保しなければならない。仮にルールに違反しても誰も監視してなくてまんまと逃げおおせたり、ルールを守っても誰もそれを評価してくれなくて結局何ももらえないのでは、やはりルールを遵守させるのは難しい。

 

しかし、埼京線の痴漢対策と同様、車両にカメラを設置し、しかも一回見せしめ的にそれで誰かを厳しく処罰すれば、始終チェック指定なかったとしても、そのカメラがパノプティコンとして機能するので、抑止力にはなるかもしれない。

 

だが、できればここは説得で解決したいところだ。だって、処罰への恐怖やカネ欲しさで妊婦さんに優しくする社会なんてあまりにさもしくないですか。。。パノプティコンに頼るほうが成果は上がるかもしれないが、できれば、人間の理性に期待したい。

 

では、どのような説得ならいいのだろうか。すなわち、誰がどのような根拠をもって説得をすれば同意してくれる人を最大化できるのか。

 

一つは医師が医学的な根拠を説明することであり、それを周知させることだろう。私も妊婦さんを優先すべきというのは直感的にはわかるが、その医学的根拠までしっかり知っているわけではない。専門的な知識という専門的権威を持つ医師が説明し、それをしっかり周知することは素人が説明するよりずっと効果的だ。

 

お腹が大きくなっていない初期の妊婦さんはぱっと見、普通の人と見分けがつかない。見た目は健康体に見えるので、あえて優遇しなければいけない理由は視覚的には認知しづらい。そのため、見た目は健康でも医学的根拠によって初期の妊婦さんも(こそ)優先的に座るべきことを知らせるのは同意を獲得する第一歩であり、そういった事実を知らない人はけっこう多いのではないか。

 

さらに構造的な要因として日本人の疲労があるのであれば、疲れにくい環境の創造が必要だ。その意味では「一億総活躍社会」よりは「一億総活躍しない社会」くらいのほうが今の日本にはちょうどいいのだろう。もう私も含めて日本人という雑巾は絞れるだけ絞っている状態なので、正直これ以上がんばるなんてけっこう大変なわけです。自分たちが疲れているのに他人に優しくするのはよほどの聖人君子でもなければ難しい。

 

座席の価値がここまで急騰しているのは、みなが疲れていて座りたいという欲求を強く持つ人が多いからだ。疲労を減らして座る必要が少なくなってみなが座席をそこまでして必要としていない資源になれば、対立に激しさは軽減される。

 

長時間労働の抑制は職場における女性の活躍促進という側面があるわけだが、長時間労働をなくして人の心にゆとりが生まれる社会は、妊婦さんにとっても優しいし、妊婦さんに対して優しくできる心の涵養につながるだろうから、是非とも推進してもらいたい。

 

今日はこのへんで。

参議院選挙を前に参議院不要論を考える—ハイパーアカウンタビリティを避けるために—

トピック「選挙」について

 

10日が参議院選挙の投票日なわけだが、日本って選挙が多すぎはしないかって最近思う。

 

2000年以降で見ると、16年のうち12回選挙が実施されているので、1.3年に1回、衆議院選挙か参議院選挙が実施されている勘定だ。

 

2000年6月(衆議院、解散)

2001年7月(参議院

2003年11月(衆議院、解散)

2004年7月(参議院

2005年9月(衆議院、解散)

2007年7月(参議院

2009年8月(衆議院、解散)

2010年7月(参議院

2012年12月(衆議院、解散)

2013年7月(参議院

2014年12月(衆議院、解散)

2016年7月(参議院

 

これに加えて、都知事選挙統一地方選挙、再選挙や補欠選挙もある。

しかも、衆議院議員の任期は4年なので、本来であれば4年に1回選挙をすれば済むはずが、2000年以降は任期満了による総選挙は1回もなく、Wikipediaで調べてみたら任期満了による総選挙は三木内閣のもとで行われた第34回総選挙だけらしい。

2014年の総選挙は消費税増税を2017年4月に先送りすると言って、衆議院を解散して総選挙をして、そして結局再度消費税増税を延期ってわけなので、1回の総選挙で数百億円の費用を要することを考えると、あれは本当に不要の選挙だったのだろうと思う。

 

選挙自体は悪くない。国民の意思を伝える貴重な機会なのだから。

 

しかし、それもあまりに多いと弊害もあるんじゃない??特に政治家が世論に迎合しちゃうという(もしくは一般市民をバカにして大衆ウケするような政策ばかりを公約に掲げる)。

 

この問題をナイブレイドの論文(ベンジャミン・ナイブレイド(松田なつ訳)「首相の権力強化と短命政権」樋渡展洋・斉藤淳『政党政治の混迷と政権交代東京大学出版会、2011年)をもとに考えてみた。

 

ナイブレイドは「ハイパーアカウンタビリティ」という概念を提示する。ハイパーアカウンタビリティとは、日本の首相が有権者やマスメディアから過剰に世論の評価を問われる現象を意味する。

 

第2次安倍政権は4年弱存続しているが、2000年以降、小泉政権を除けば首相はコロコロ変わった。この首相交代のめまぐるしさは、日本を含む先進民主主義国ではとても珍しい。

 

もちろん他国でも戦争直後などでは頻繁に政権交代が発生することはあるが、国が安定してしばらく経過してから、1年や2年程度で行政府のリーダーが頻繁に交代するのはとても珍しいのである。そして、ナイブレイドは2000年以降の日本で政権交代が頻繁に発生した原因を首相のハイパーアカウンタビリティに求めている。

 

小泉政権以降の第一次安倍政権から野田政権までの短命政権の特徴は、発足直後の支持率はけっこう高いのに、それがあっという間に急降下する点だ。

 

NHK放送文化研究所の「政治意識月例調査」によると、第一次安倍政権時の内閣支持率は、発足直後の2006年10月は65%(不支持は18%)だったが、2007年2月には41%(不支持は43%)まで20ポイント以上下落。続く福田政権の発足直後の2007年10月の内閣支持率は58%(不支持は27%)だったのが、2008年3月には38%(不支持は48%)まで急落した。麻生政権はもっとひどい。

 

民主党政権を見ても、鳩山政権は発足直後の2009年10月には70%の内閣支持率(不支持は18%)だったのに、2010年5月にはわずか21%(不支持は68%)となり、半年強で支持率と不支持率が逆転した。菅政権や野田政権もほぼほぼ同じ道をたどった。

 

発足直後の支持率が高いのはハネムーン期みたいなものでありそうなことだ。しかし、支持率の低下は通常もっと緩やかに起こるもので、数ヶ月のうちに数十ポイント下落するのは珍しく、終戦直後を除けば、戦後40年間は日本もそこまで急激な支持率低下はなく政権交代もさほど頻繁だったわけでもない。

 

ナイブレイドは、首相ポストが不安定になった要因を次にようにまとめる。

 

議席変動と有権者の不満が高まった近年において、頻繁な首相交代は首相ポストの重要性と影響力が増大したこと、選挙での政党名の重要性が高まったことによって生じたものであり、(政治的リーダーシップを強化させる目的で実施された小選挙区比例代表並立制等の;引用者注)改革の意図とは逆の結果をもたらしている 

(中略)

政権政党の多くの陣笠議員の再選が首相の人気と政党のパフォーマンスに対する有権者の評価によって左右されるようになり、不人気な首相を新しい首相、そして新たなハネムーン期(就任直後の高支持率)に取り替えようとするインセンティブが強まるのである。

(ベンジャミン・ナイブレイド(松田なつ訳)「首相の権力強化と短命政権」樋渡展洋・斉藤淳『政党政治の混迷と政権交代東京大学出版会、2011年、248頁)

 

f:id:seijineko:20160709232716j:plain

 

小選挙区制や比例代表制は、日本でそれ以前に導入されていた中選挙区制よりも投票決定の際に政党名が重視されるため、再選を気にする国会議員にとって首相の人気はとても重要になる。

 

しかも小泉政権で首相や政治家の言動がワイドショー等のテレビ番組でも大きく取り上げられるようになって、有権者がテレビ(やインターネットやSNS)をもとに投票行動を決定するようになると、首相にますます注目が集まるようになった。有権者が首相の報道を目にする機会が増えるほど、判断を改める機会が増えるので、内閣支持率も変動しやすくなる。

 

さらに最近は特定の支持政党を持たない私のような無党派層が増えている。支持政党を決めている有権者はテレビやインターネットの情報で支持政党をコロコロ変えることは少ない。しかし無党派層という浮動票はそのときどきの情勢で投票先を変えるため、2005年の郵政選挙や2009年の民主党への政権交代をもたらした選挙など、選挙によって大きな変動が発生する。

 

最近のわれわれ有権者、特に無党派層のリーダーに求める期待は、リーダーシップ、変革、トップダウン(みたいに見える)の改革である。ナイブレイドいわく、「改革が進まなければ、有権者は『この首相は前の首相と同じ』と考えを改め、支持から不支持へと態度を変えるのである」。

 

有権者へのアカウンタビリティを向上させる点は民主主義では肯定的に捉えられるわけだが、ナイブレイドは21世紀の日本に見られるようなハイパーアカウンタビリティという行きすぎたアカウンタビリティは、かえって首相のリーダーシップを損ねていると分析する。

 

すなわち、首相への期待とハイパーアカウンタビリティが高まることで、首相の不支持率が一気に高まるリスクが増え、それによって首相の地位は脆弱化し、結果として首相は人気の維持を最優先に行動しはじめる。

 

そのため、長期的には国全体にといってプラスにはなるけど、短期的にはわれわれ国民に痛みを強いるような政策(消費税の増税)などは、たとえ必要であっても首相の人気向上にはつながらないので、忌避される危険性が高まる。

 

1990年代の選挙改革などは首相のリーダーシップを強化して官僚依存や既得権益を打破してトップダウンで改革を進めるのが目的だった。しかし、首相の動静が注目されればされるほど、それが内閣支持率に直結するため、必要であっても不人気な政策を避けるインセンティブが発生するのである。

 

本来、政権交代に直結すべき選挙は衆議院総選挙だけのはずだが、橋本龍太郎参議院選挙の責任をとって総辞職するなど、参議院選挙はもちろん、都知事選や統一地方選挙、再選挙や補欠選挙も政権の信任投票の様相を呈することがあり、選挙の数が多ければ多いほど首相の人気が問われる機会が増える。首相の人気が重要になる機会が増えるほど、首相の人気のバロメーターである世論の不人気を買う政策を選択することは難しくなるというわけだ。

 

選挙の数が多すぎて首相が世論を気にして本来すべき政策を実施できないのであれば、選挙の数を減らすのも一手だろう。そしてその減らされるべき選挙は参議院選挙であるべきではないか。

 

参議院は「良識の府」と呼ばれることがある。参議院議員の任期は6年で解散もないため、誠実な議論をして政府を監視し、政府に誤りがあれば、それを是正する役割が期待されているためである。

 

二院が存在し、議論をする場が多くなれば、それだけ議論の質と結果として政策の質が高まるというのは論理的にはあり得る話である。

 

ただし、二院制を支持するには論理的な正しさだけではなく、経験的な正しさ、すなわち実際に参議院良識の府として機能してきたかを検証しなければならない。

 

私は参議院良識の府であることを経験的に正しいと証明できる事例を知らない。むしろ、ねじれ国会のもと政局の府として単なる政争の場になった記憶しかない。論理的な正しさと経験的な正しさの2つがともなって初めて参議院の存在意義が証明されるはずであって、もしその証明がなされないのであれば、参議院を廃止するのもありなんじゃないだろうか。

 

当然参議院議員は反対するだろう。であれば、参議院の定数である242議席をそのまま衆議院に上乗せして、議席数717の一院制にしてしまえばいいのだ。ハイパーアカウンタビリティの回避のための参議院廃止は議員歳費削減が目的ではなく、首相や政治家を過剰に世論に迎合させないためである。将来的には717人も議員は不要だから、定数を削減してもいいが、まずは選挙の回数を減らす目的に限定してほしい。

 

今回の参議院選挙を前に安倍首相は消費税増税を先送りした。参議院選挙がなければ恐らく消費税増税は予定どおり実施されただろう。

 

日々の暮らしに直結するから正直消費税は増税されないほうが嬉しい。でも、国の財政は火の車なわけで、将来一気にそのツケが噴出するのを待つよりは、ちょっとずつでも負担を増やしてラディカルなショックを避けるほうがまだマシだ。

 

世論は政治に反映されなければならない。でも、その機会があまりに多すぎて政治家が世論に迎合ばかりしている政治もそれはそれで困るのだ。

 

参議院不要論は、衆議院の「カーボンコピー」化を根拠にすることが多いが、過剰なアカウンタビリティを避けて、首相や政治家を世論迎合的にさせないためにあえて参議院選挙を前に参議院不要論を考えてもいいのかもしれない。

 

もっとも、参議院不要論を言っておいてアレですが、参議院が存在するかぎり選挙には行くつもりです。

 

今日はこのへんで。

 

知性主義はカッコよくなれるのか?そしてフォロワーを獲得できるのか??

内田樹編著の『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)読んだ。

反知性主義についてこれまで知らなかった私にとってとても勉強になった本だが、一方で知性主義者(彼らは否定するだろうが著者たちを知性主義と仮定した場合)になりたいとも思わなかった。

 

理由は単純だ。圧倒的にかっこ悪いからだ。

 

内田の定義によると、知性とは「知の自己刷新」のことであり、反対に反知性主義(者)とは、すでに正解を知っていたような気になっていて、自身の考え方をいささかも変える気がない人たちのことを指す。反知性主義者か否かはその人の持つ知識の量によって決まるのではなく、一般的に知識人とされる人も(こそ)反知性主義に陥りやすい。

 

さらに内田は、知性というのは個人ではなく、集団として発動されるもので、ある人がいると彼(女)の属する集団全体の知的パフォーマンスが高まる場合、その人は知性的な人である。他方で、いかに知的能力が高くても、その人がいると「周囲から笑いが消え、疑心暗鬼が生じ、勤労意欲が低下し、誰も創意工夫の提案をしなくなる」とその人は反知性的である。

 

内田樹反知性主義者たちの肖像」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、23頁)

 

たしかに頭が良くても何があっても自説を変えずに相手を批判ばっかりしている人は一緒にいてもあまり楽しくないし、知的という印象は抱かない。「あぁ、あの人は頭がいいから、、、」とどこか冷めた口調で言われる人は知性があるとは思われていないのだろう

 

と、彼の定義には得心がいきながらも、それでもなお知性主義者をかっこいいと思えないのは、本書でそこかしこに「昔はよかった」的な懐古主義が見られるからだ。明確に「昔はよかった」とは言わない。しかし「今」に批判的であるがために、昔はよかったと言っているように聞こえるのである。

 

たとえば、精神科医の名越と内田の対談で、

 

内田「(略)人類は数千年の歴史を持っているわけです。瞑想とか、呼吸法とか、突き詰めてゆけばどれも人間の生きる力を高めるための方法なわけです。それはできあいのシステムの中で、何かを量的に増大するというのとはぜんぜん違うことなんです。」

名越「そうなんですよね。それを忘れてどんどんバカになっているのかもしれないという。」

内田「実際、現代日本人を見ていると、どんどんバカになっているという気がする。」

名越「そう思いますね。」

内田「知の定義を勘違いしているからじゃないかな。知には二つの層があると思うんです。定量できる知識や情報の層と、そんなふうに数量的には表示できないメタ知性の層。後者こそが知性を知性たらしめているのに。」

名越「そうそう、知性を知性たらしめているものですよ。その段階が見えてないんですよ。」

内田「(引用者注:現代社会は度量衡で格付けされていて、定量的に測定して最も費用対効果が高いものが尊重されるが、数量的に表示できないメタ知性は)エビデンスがないからね」

 

名越康文内田樹「身体を通した直感知を」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、226頁)

 

とか、生命科学研究者の仲野は、

 

「いまから思えば、私が研究をはじめた頃、実験というのは牧歌的でのんびりしたものだった。研究室で受け継がれてきた技術を教えられて、あるテーマをゆっくりと楽しむという感じであった。そして、同時に、それぞれが創意工夫に満ちたものであった。

(中略)

下働きという単純作業をこなしながら、ぼんやりと研究について思いをはせるというのも、ぜいたくな時間の使い方であった。そういうときに不思議といいアイデアが浮かんだものである。一方、教える側からは、そのような作業をさせてみるだけで、きちんと考えるようになる子かどうか、いい研究者になるかどうかおおよその見当がついた。

ずいぶんと状況は違ってきた。ディスポーザブルな器具が主流となり、いまではどんな研究分野もマニュアル化されている。それどころか、サンプルを試薬Aにまぜて何分間反応させて試薬Bを加えるといったように、多くの実験がキット化されるようになった。もちろん、それなりの器用さは要求されるが、原理がわかっていなくても、実験ができてしまうのだ。そんなバカなことはないだろうと思われるかもしれないが、大学院の審査会で、自分の研究にも実験の原理を尋ねられて、きちんと答えられない学生はまれでない。」

 

といった具合である。

 

(仲野徹「科学の進歩にともなう『反知性主義』」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、263-264頁)

 

昔はよかったと懐古している人をかっこいいと思うことはない。カッコ悪すぎだろう。

 

さらに知性主義者のかっこ悪さは本書に収められている小田嶋の章が適切に表現している。

 

彼によれば知性主義者=いけ好かないガリ勉の出木杉くんである。

 

「教師が家父長的であり、学校が軍隊秩序的であり、世間の道徳規範がいまだ儒教的な色彩を強く残していた昭和中期において、『体制』は、『保守反動』の側にあり、それゆえ、『反抗』は、『左翼的』『リベラル的』ないしは『戦後民主主義的』な文脈で育まれ、若者から見た『カッコ良さ』もまた、左側に偏在していた。」

 

ところが、21世紀に入ると、

 

「『偏差値』と『戦後民主主義』は、ともに『優等生くさい』『いい子ちゃんオリエンテッド』『ガッコーのセンセーにほめられるっぽい』『ママのスカートの隠れてやがる的な』『いけ好かない』ガリ勉あっち行って死ね・アイテムに変貌したのである。」

 

小田嶋隆「いま日本で進行している階級的分断について」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、190頁)

 

f:id:seijineko:20160702164556j:plain

 

なんで私がかっこよさにやたらにこだわるのか。

 

それはかっこ悪いと認識されることが知性主義にとって非常に深刻な危機だと思うからだ。

 

政治学者のイーストンによれば、政治とは「諸価値の権威的配分」と定義される。

 

これは、世の中には多様な価値や利益があって、資源が希少であれば全ての価値や利益を同時に満たすことはできない、よって皆が(消極的同意も含めて)納得できる方法で優先順位を決定して配分する、という意味である。

 

世の中に知性主義と反知性主義の2つの価値観があって、知性主義者が知性主義が優先されるほうが世の中にとってプラスと考えるなら、知性主義が優先されるという決定に同意してくれる人の数を増やさなくてはならない。

 

知性主義は人々の同意(賛成)を獲得して、フォロワーを増やさなくてはならないのである。

 

それでは、そうすれば同意を獲得できるのか。

 

政治学では、その方法は3つあるとされる。すなわち、強制、誘引、説得である。

 

強制は腕っぷしにものを言わせて、相手に無理やり同意させることである。通常、物理的暴力によって達成される。

 

誘引は利益を供与することで相手の同意を買う方法である。お金や地位など相手の利益になるものを供与する。

 

説得は相手の価値観を変えて、自分の主張そのものに同意してもらう方法である。

 

論理的には物理的暴力や金銭の供与によって知性主義者が人々の同意を獲得することも可能だが、通常知性主義者はそのようなやり方は好まないだろうし、そのための暴力や金銭的な資源も十分に持っていないだろう。

 

では、説得に必要な資源は何だろうか。それはすなわち「権威」である。

 

権威とは自発的に同意や服従を促す能力であるが、それはその人の社会的な地位に由来する場合もあれば、その人自身の魅力に由来することもある。社会的地位だけに権威を依存する場合は、その地位が剥奪されるとその人の権威は失われてしまうから、地位ではなくその人自身に魅力に基づく権威のほうがより強固な権威である。

 

ときとして、人は話の内容よりも話し手の魅力に影響を受ける。「何を言っているか」よりも「誰が言っているか」のほうがしばしば大事なのだ。いいことを言っていても、平等に耳を傾けてもらえるわけではないし、政治的決定に影響を与えるわけでもない。

 

廃絶の手順やその実現可能性はともかく、世界から核兵器がなくなったほうがいいに決まっている。だから、誰が「目指せ、核廃絶!」と言ってもその内容の正しさは変わらない。私が言ってもいい。だけど、私がある日路上で「みなさん、核廃絶に向けてがんばりましょう!」と叫んだところで、足を止めてくれる人がどれだけいるだろうか。東京はもちろん、広島や長崎でやっても私の主張に皆が感動し「えいえいおー」となることはまずありえない。ノーベル平和賞ももらえない。

 

でも、オバマ大統領が言えば、より多くの聴衆を惹き付けられるし、ノーベル平和賞ももらえる。オバマ大統領が言ったところで、冷めた人のほうが多かっただろうが、それでも影響力の大きさは私の比ではない。言ってることは同じでも誰が言うかが大事なのだ。

 

オバマ大統領の例だとあまりに例が極端でわかりづらいが、より身近な例で言えば、ハンサムや美人、見てくれが爽やかであったり、美声の人のほうが話の説得力が増すことが多い。少なくともブサイクや服装がだらしない人よりも耳を傾けてもらえる。

 

最近では無条件に支持されているわけではないが、かつてはリーダーシップ研究において、声が大きい、年上であること、身長が高い、容姿が優れていること、高学歴や出身階層、社交性といった特性を持っている人がリーダーシップを発揮できると分析した特性論もあった(桑田耕太郎・田尾雅夫『組織論(補訂版)』有斐閣、2010年、236−237頁)。

 

こうした外見的・性格的に魅力はばかにできないのだ。

 

知性主義者がかっこ悪いと思われているのは、ファッション雑誌の表紙を飾る人を見ても明らかだ。ファッション雑誌の表紙を知性主義的な人が飾ることはまずない。モデルや芸能人のほかであれば、スポーツ選手やミュージシャンが多い。いずれもガッコーでベンキョーがんばってきましたというタイプではない。髪の毛ぼさぼさで服も垢抜けておらず、ぼそぼそしゃべる人に魅力はない。出版社は正直だ。そんなバッチい人に表紙を飾ってもらっても困るのだ。

 

知性主義者がどれだけ裾野を広げたいと考えているかわからないが、それでも反知性主義の拡散を憂いているのであれば、知性主義を広めることを真剣に考えるべきだろう。知性主義のファロワーはいなければ反知性主義が広がるだけである。

 

そして、そのときは自分たちが人々から魅力的に映っているかを本気に考えたほうがいい。知性主義が否定されるのは、単純に自分たちがかっこ悪いからではないかと疑ったほうがいい。知性主義者はそんな見てくれなんて表面的なことに左右されたくないと言うかもしれないが、それは逃げだ。

 

政治学者のメリアムは「権力が暴力を用いる時、権力は最も強いのではなく最も弱いのである。権力が最も強いのはそれが力に代わる魅力を持ち、排除よりは誘惑と参加、絶滅よりは教育などの手段を採用する時なのである」(佐々木毅政治学講義(初版)』東京大学出版会、1999年、67頁より抜粋)と述べているが、知性主義は暴力もなければ、魅力もないのが現状だ。それに、知性主義は私のような一般の人々を誘惑しようとしたり、門戸を開こうとしているようにも見えない。

 

反知性主義よりは知性主義のほうがいい。だからこそ、知性主義者にはかっこよくなってほしい。知性主義に同意していれるファロワーを獲得しない限り知性主義を待つのは絶滅だけだ。そうなっては遅い。

 

知性主義は一刻も早くファッション雑誌の表紙を飾らなくてはならない。知性主義ってかっこいいと思われる日は来るのだろうか。

 

今日はこの辺で。