猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

鳥越氏にはリベラル勢力の恥の上塗りをしてほしくなかった

「だから来るところまで来たなというのが僕の実感。その中でリベラル勢力は何してんのか?と。何もしてないわけだよ」

 

というのは、都知事選を振り返った鳥越俊太郎氏のハフポスト紙における、日本のリベラル勢力に対する評価である。

 

「『戦後社会は落ちるところまで落ちた』鳥越俊太郎氏、惨敗の都知事選を振り返る【独占インタビュー】」『The Huffington Post』2016年8月12日 

 

彼に対する読者コメント欄の否定的な意見の多さは、昨今の日本のリベラル勢力の人気のなさを象徴しているけど、リベラル勢力は何もしていなくて、何かをせにゃならん、という彼の心意気はありなんじゃないかと思ったりもする。

 

しかし、だからこそ言いたい。なぜ日本のリベラル勢力の恥の上塗りをする選挙戦をしたのか、と。

 

ハフポスト紙の彼のコメントもかなり情けないものだが、すでに多くの人が批判しているように、待機児童ゼロ、待機高齢者ゼロと原発ゼロ、三つのゼロ、非核都市宣言といった、都の管轄外の政策や都民の優先順位の低い政策を掲げていたのもとてもよろしくない。

 

統計上は国家間の戦争がなくなり、武力紛争において内戦とそこからの復興(平和構築)が国際的な重要課題になったり、中国の東・東南アジアへの進出、北朝鮮のミサイルおよび核実験だったり、そういった国際情勢の変化があったにもかかわらず、相変わらず自衛隊の海外派遣反対!憲法9条反対!ばかりを繰り返す、外部環境にまったく関心を払わない(もしくは適応できない)日本のリベラル勢力の政治オンチさを鳥越氏も示してしまった。

 

参議院選挙で改憲勢力議席の3分の2をとった結果に対して、「日本の戦後社会はここまで来たか。落ちるところまで落ちたな。これはもう、いよいよダメだなと思いました」と鳥越氏は言う。

 

あたかも悪いはリベラル勢力ではなく、それを理解しない国民だ、と言わんばかりである。確かに戦後社会も落ちるところまで来ているのかもしれないが、それはそれとして、同時に彼に考えて欲しいのは、なぜリベラル勢力がこれほどまでに信頼を失っているのか、ということだ。

 

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マーク・マゾワーの『暗黒の大陸』は、ヨーロッパにおける民主主義の正統性の変遷を扱った著書である。

 

マゾワーによれば、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の戦間期、民族や階級間の対立が激化し、人々はナチズムやファシズム全体主義を含む権威主義的な政治体制を信頼するようになったとする。

 

当時のヨーロッパ諸国の政党は分裂し、2000年代の日本も驚くほど短期的な政権交代が発生していた。マズロー曰く、1918年以降、ヨーロッパで内閣存続期間の平均が1年を超える国はほとんどなく、こういった弱体化した政府では、憲法や政党綱領で約束した社会経済改革を推し進めるのはほとんど不可能であった。

 

こういった政治社会情勢では民主主義の象徴ともいうべき議会に期待することは難しく、人々は執行権の強化を求めるようになる。

執行権強化は、民主主義や憲法を破壊するのものではなく、政治の有効性を確保することで、民主主義の正統性を維持しようという試みである。しかし、議会の麻痺を補おうと執行権を強化していくと、どの時点で民主主義が終わり、独裁制に移行するのか、その境界線は曖昧になってしまう。

 

当時のドイツ(ワイマール共和政)の憲法では、議会が麻痺したとき、大統領が緊急時に立法権限を行使できるという緊急令が認められていたが、緊急令が頻用されると、いくら憲法で認められた権限といっても、独裁制ではない、と否定するのは相当に困難となる。

 

こうした議会の麻痺とそれに対する人々の不信、一方で膨らむ執行権への期待が、徐々にナチズムを許容する土壌となっていくのである。

 

ナチズムは極端な例だとしても、そもそもこうした極端な政治を受け入れる用意ができていたのは、当時の民主主義への不信感であった。第一次世界大戦が終わり、政治経済体制を早急に回復させなければならないにもかかわらず、議会が混乱し、一向政治が前に進まなければ、議会とそれを理論的に支える民主主義を信頼せよ、と期待するほうが無理難題というものだ。

 

もし、日本のリベラル勢力から見て、今の日本(安倍政権の一強体制)が異常だというのであれば、なぜ異常が受け入れられているのかをしっかり考えなければならない。確かに当時のドイツ国民はよもや執行権の権限強化がナチズムに利するとは想像していなかっただろうから、極端な政治を受け入れるのは国民が愚かだからという評価も的外れではないだろう。しかし、国民は愚かだ、と批判しているばかりではリベラル勢力が懸念する事態を回避することはできない(当時のヨーロッパも国際法学者のケルゼンやフランスの自由主義者のバッシュらは民主主義を擁護したが、そういったエスタブリッシュメントの意見が世論に浸透することはなかった)。

 

鳥越氏ら、戦中や敗戦直後に生まれたり、育った世代は直感的に戦後政治とそれを象徴する平和主義や民主主義を素直に受け入れることができるだろう。なぜなら、戦中の軍国主義は国内外に多くの不利益をもたらし、国民は政治によって多大な犠牲を支払わされたからだ。軍国主義に正統性も有効性もないのは明白であった。それゆえ、軍国主義を否定する平和主義や民主主義の正統性を皆直感的に理解することができたのだ。

 

しかし、今の30代以下、第一次就職氷河期以降の世代は、そこまでナイーブに戦後政治を受け入れることはできない。戦争経験がないから、戦後政治のアンチテーゼである軍国主義の非正統性を実感を伴って理解するのは難しいし、2000年代後半は短期間での内閣の交代とねじれ国家による政治の停滞を目にしてきた。

 

そうした若年層が戦後世代と同じレベル感で戦後政治を信頼するのはほとんど不可能である。学校でちゃんと大人(戦後世代)が言うように勉強しても、ろくに就職もできなかったり、給料は増えなかったり、それによって私生活の充実が阻まれているようでは、民主主義の素晴らしさを理屈では理解しても、現在置かれている苦境を脱する上でなんら解決策を提示してくれない民主主義を感情レベルで共感して支持するのは無理である。

 

若者は低迷する日本の原因を戦後政治に見出しているのである。

 

この因果関係の理解が正しいかどうかはわからない。しかし、この因果関係が誤りだというのなら、リベラル勢力はなぜ誤りなのかをしっかりと説明しなければならない。鳥越氏のように、単に相手の理解不足を批判しているだけでは、戦後政治という現状を変革したいと考える層の不満を解消することはできない。

 

政治では現状維持勢力と現状変革勢力がいる。現状維持が続くのは、現状変革勢力の利益が一定程度反映されて、現状変革勢力が現状の継続を受け入れる場合である(もしくは、現状維持勢力が圧倒的なパワーを持っていて、相手が不満でも屈服させられる場合)。

 

現状(鳥越氏らリベラル勢力にとっては戦後政治)への反発が増えるのは、単に国民の無知ゆえではなく、それなりの政治社会的背景があることをリベラル勢力は理解するべきである。

 

参考文献

マーク・マゾワー(中田瑞穂・細谷龍介訳)『暗黒の大陸-ヨーロッパの20世紀-』未來社、2015年(原著は1998年刊行)

 

暗黒の大陸:ヨーロッパの20世紀

暗黒の大陸:ヨーロッパの20世紀

 

 

座席という希少資源をめぐる戦い—なぜ妊婦さんに冷たいのか?—

マタニティマークを付けた妊婦さんが電車に乗ると様々な嫌がらせを受けるらしい。座席を譲ってもらえないどころか、わざとぶつかってくるとか、「でき婚のくせに」とか「タクシー乗れよ」とか暴言を吐かれたりとか。。。

 

たしかにGoogleマタニティマークと入力すると、関連ワードとして「危険」というワードが出てくる。

 

政府は少子高齢化対策として、6月2日に閣議決定された『ニッポン一億総活躍プラン』で「希望出生率1.8」を目標に定め、「産めよ、増やせよ、地を満たせ」と出産・育児を推奨しているわけだが、そんな政府の思惑とは別に、日本はますます子供を持ちにくい国になりつつある。海外に行くと、子供はとても可愛がられていて、私の経験でも、飛行機で子供がぎゃーぎゃー泣き喚いていると、フライトアテンダントがより快適な席に座っている人に「子供のために席を交換してほしい」と頼み、その乗客も当然とばかりに快く座席を移っていた。日本ではとうてい考えられない光景だ(そのとき声を掛けられたのが私だったら、果たして快く応じられたかどうか。。。器の小さい話で本当に申し訳ないが、長時間フライトのエコノミーシートの通路側座席と真ん中の座席を交換するのはなかなか大変なことだ)。

 

どうして日本人はこんなに妊婦さんに厳しいのか!と呆れる反面、本来、日本人だってそこまで冷たい人間ではないとも思うのだ。子供嫌いの人もいるだろうが、妊婦さんに嫌がらせをする人の中には、決して普段は冷たい人でなかったり、ましてなかなか快く座席を譲れない人の多くは案外人からは優しい人と言われるような人だって多いはずなのだ。

 

そんな普段優しい温厚な人でさえも妊婦さんに厳しい鬼人間に変えてしまうメカニズムとは一体なんなのだろうか。特にそれを社会的なコンテクストから考えたい。

 

単純に疲れているからであったり、少子高齢化が進み、子供が身近にいなくなって子供に慣れていないこともあるだろう。しかし、なぜに電車の中は特に妊婦さんとそれ以外の人たちとの対立が先鋭化しやすいのだろうか?電車という空間の特有の性質はなんだろうか?

 

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電車の座席が限られているという点が重要なポイントだ。

疲れていればそれだけ座席に座りたい。特にラッシュアワーともなれば座席に座れるか座れないかは快適な通勤・通学に大きな影響を与える。しかし、座席は乗客すべてが座れるほど十分な数はない。というか、圧倒的に足りない。そのため、電車の中における座席はみなが欲しがる希少資源となっているのであり、日々のラッシュアワーは座席という希少資源をめぐる熾烈な戦いを引き起こしているのである。

 

座席は有限な資源である以上、誰かが座れば他の誰かが座れなくなる。しかし、座席をめぐる戦いが各人平等な条件で行われていれば、座れなくてもガマンはできよう。

 

しかし、平等なゲームの中に優先的に座れる特権階層が現れたらどうか。

みなが妊婦さんを優先するというルールを納得していれば問題ない。しかし、マタニティマークをつけた妊婦さんへのいやがらせが相当数あるということは必ずしもルールへの納得感が大きくないのだろう。いやがらせをしないまでも、席を替わらないことは多い。

 

席を替わらない人は冷血漢なのか、といえばそうではなかろう。彼らも疲れているのだ。疲れているのは仕事や勉強をがんばっているからで、彼らは彼らで自分たちは数少ない座席に座れるだけの正当性を有していると考えている。

 

仕事で頑張っている人は報われるべきというルールがあるならば、妊婦さんを優先すべしというルールは頑張りルールとはルールの原則が異なる。妊婦さんを優先するのは努力とは関係なく、医学的な根拠に基づくからだ。

加えて、家事や出産・育児といった家庭内で行われるプライベートな活動への評価が低いこともあるだろう。仕事に比較して家事や出産・育児が社会的重要性が低い行いと認識されていれば、なぜに妊婦さんを優遇せねばならぬのだ、という反発が起こる可能性は高まる。保育園が迷惑施設として近所から嫌われていることといい、従来家庭内で行われていた行為を社会が肩代わりすることへの理解がまだまだ深まっていないのだろう。共働き家庭の増加という社会環境の変化によって社会として出産や子育てに従来とは異なる対応が必要になっているが、人々の認識の変化は社会の変化ほどスピーディには変化しない。

 

妊婦さんや高齢者やけが人が優先的に座れるべきなのは特権ではなく医学等に基づく合理的な根拠による。妊婦さんは子供を育てるために血液をお腹に集中させる。そのため、長時間立ち続けると脳に血が行き届かず貧血を起こしてしまう。

 

その意味で妊婦さんは長時間立ち続けるには不利な条件を課せられている。しかもそれは本人の努力の問題ではなく妊娠に伴う生物学的な原因による。本人の努力でどうにもならないことを責めるのは責任原則からも逸脱する。責任というのは本人ができることをしなかった、通常の人間ならすべきなことをしなかったせいで、誰かに不利益を発生させたりしたときに問うべきものだ。本人にどうにもできないことを責めてはならない。

 

妊婦さんに優先権を与えずに同じルールを適用するというのは絶対的平等という名の下の悪平等にすぎない。

 

それでは、どうしたら妊婦さんに温かく接するというルールに他の乗客の同意を得られるのか。

 

同意の獲得方法は3つ、すなわち、強制、誘引、説得の3つがある。

 

強制は、力の行使によって無理やり同意させることである。

誘引は、金銭等の利益を供与して相手の同意を買うことである。

説得は、相手の価値観や考え方を変えて、ルール自体の内容に賛成させて同意を得ることである。

 

強制と誘引では、力やカネによって同意を獲得しているだけなので、ルールそのものに本心から同意しているわけではないが、説得ではルールそのものへの同意も得られている。

 

妊婦さんに温かく接するというルールを強制によって守らせるには、たとえば罰則を設けて、妊婦さんに危害を加えた場合に処罰して、その処罰を恐れるためにルールに同意させることになる。

誘引では、妊婦さんに優しくした人に電車賃を割引したり、ボーナスやその他ポイントなどを提供することになる。

説得では、妊婦さんを優先すべき医学的な根拠を説明して、相手の納得感を得ることになる。

 

強制では一部の加害行為については現行の刑法でも処罰できるだろうが、あまりに軽い刑では抑止力にならないし、かといって重すぎる刑罰だと他の犯罪とのバランスが難しい。

誘引は、やろうとしても鉄道会社や政府にそれだけの財源を用意するのが難しい。それに強制も誘引もそれをモニタリングする人的・物的資源を確保しなければならない。仮にルールに違反しても誰も監視してなくてまんまと逃げおおせたり、ルールを守っても誰もそれを評価してくれなくて結局何ももらえないのでは、やはりルールを遵守させるのは難しい。

 

しかし、埼京線の痴漢対策と同様、車両にカメラを設置し、しかも一回見せしめ的にそれで誰かを厳しく処罰すれば、始終チェック指定なかったとしても、そのカメラがパノプティコンとして機能するので、抑止力にはなるかもしれない。

 

だが、できればここは説得で解決したいところだ。だって、処罰への恐怖やカネ欲しさで妊婦さんに優しくする社会なんてあまりにさもしくないですか。。。パノプティコンに頼るほうが成果は上がるかもしれないが、できれば、人間の理性に期待したい。

 

では、どのような説得ならいいのだろうか。すなわち、誰がどのような根拠をもって説得をすれば同意してくれる人を最大化できるのか。

 

一つは医師が医学的な根拠を説明することであり、それを周知させることだろう。私も妊婦さんを優先すべきというのは直感的にはわかるが、その医学的根拠までしっかり知っているわけではない。専門的な知識という専門的権威を持つ医師が説明し、それをしっかり周知することは素人が説明するよりずっと効果的だ。

 

お腹が大きくなっていない初期の妊婦さんはぱっと見、普通の人と見分けがつかない。見た目は健康体に見えるので、あえて優遇しなければいけない理由は視覚的には認知しづらい。そのため、見た目は健康でも医学的根拠によって初期の妊婦さんも(こそ)優先的に座るべきことを知らせるのは同意を獲得する第一歩であり、そういった事実を知らない人はけっこう多いのではないか。

 

さらに構造的な要因として日本人の疲労があるのであれば、疲れにくい環境の創造が必要だ。その意味では「一億総活躍社会」よりは「一億総活躍しない社会」くらいのほうが今の日本にはちょうどいいのだろう。もう私も含めて日本人という雑巾は絞れるだけ絞っている状態なので、正直これ以上がんばるなんてけっこう大変なわけです。自分たちが疲れているのに他人に優しくするのはよほどの聖人君子でもなければ難しい。

 

座席の価値がここまで急騰しているのは、みなが疲れていて座りたいという欲求を強く持つ人が多いからだ。疲労を減らして座る必要が少なくなってみなが座席をそこまでして必要としていない資源になれば、対立に激しさは軽減される。

 

長時間労働の抑制は職場における女性の活躍促進という側面があるわけだが、長時間労働をなくして人の心にゆとりが生まれる社会は、妊婦さんにとっても優しいし、妊婦さんに対して優しくできる心の涵養につながるだろうから、是非とも推進してもらいたい。

 

今日はこのへんで。

参議院選挙を前に参議院不要論を考える—ハイパーアカウンタビリティを避けるために—

トピック「選挙」について

 

10日が参議院選挙の投票日なわけだが、日本って選挙が多すぎはしないかって最近思う。

 

2000年以降で見ると、16年のうち12回選挙が実施されているので、1.3年に1回、衆議院選挙か参議院選挙が実施されている勘定だ。

 

2000年6月(衆議院、解散)

2001年7月(参議院

2003年11月(衆議院、解散)

2004年7月(参議院

2005年9月(衆議院、解散)

2007年7月(参議院

2009年8月(衆議院、解散)

2010年7月(参議院

2012年12月(衆議院、解散)

2013年7月(参議院

2014年12月(衆議院、解散)

2016年7月(参議院

 

これに加えて、都知事選挙統一地方選挙、再選挙や補欠選挙もある。

しかも、衆議院議員の任期は4年なので、本来であれば4年に1回選挙をすれば済むはずが、2000年以降は任期満了による総選挙は1回もなく、Wikipediaで調べてみたら任期満了による総選挙は三木内閣のもとで行われた第34回総選挙だけらしい。

2014年の総選挙は消費税増税を2017年4月に先送りすると言って、衆議院を解散して総選挙をして、そして結局再度消費税増税を延期ってわけなので、1回の総選挙で数百億円の費用を要することを考えると、あれは本当に不要の選挙だったのだろうと思う。

 

選挙自体は悪くない。国民の意思を伝える貴重な機会なのだから。

 

しかし、それもあまりに多いと弊害もあるんじゃない??特に政治家が世論に迎合しちゃうという(もしくは一般市民をバカにして大衆ウケするような政策ばかりを公約に掲げる)。

 

この問題をナイブレイドの論文(ベンジャミン・ナイブレイド(松田なつ訳)「首相の権力強化と短命政権」樋渡展洋・斉藤淳『政党政治の混迷と政権交代東京大学出版会、2011年)をもとに考えてみた。

 

ナイブレイドは「ハイパーアカウンタビリティ」という概念を提示する。ハイパーアカウンタビリティとは、日本の首相が有権者やマスメディアから過剰に世論の評価を問われる現象を意味する。

 

第2次安倍政権は4年弱存続しているが、2000年以降、小泉政権を除けば首相はコロコロ変わった。この首相交代のめまぐるしさは、日本を含む先進民主主義国ではとても珍しい。

 

もちろん他国でも戦争直後などでは頻繁に政権交代が発生することはあるが、国が安定してしばらく経過してから、1年や2年程度で行政府のリーダーが頻繁に交代するのはとても珍しいのである。そして、ナイブレイドは2000年以降の日本で政権交代が頻繁に発生した原因を首相のハイパーアカウンタビリティに求めている。

 

小泉政権以降の第一次安倍政権から野田政権までの短命政権の特徴は、発足直後の支持率はけっこう高いのに、それがあっという間に急降下する点だ。

 

NHK放送文化研究所の「政治意識月例調査」によると、第一次安倍政権時の内閣支持率は、発足直後の2006年10月は65%(不支持は18%)だったが、2007年2月には41%(不支持は43%)まで20ポイント以上下落。続く福田政権の発足直後の2007年10月の内閣支持率は58%(不支持は27%)だったのが、2008年3月には38%(不支持は48%)まで急落した。麻生政権はもっとひどい。

 

民主党政権を見ても、鳩山政権は発足直後の2009年10月には70%の内閣支持率(不支持は18%)だったのに、2010年5月にはわずか21%(不支持は68%)となり、半年強で支持率と不支持率が逆転した。菅政権や野田政権もほぼほぼ同じ道をたどった。

 

発足直後の支持率が高いのはハネムーン期みたいなものでありそうなことだ。しかし、支持率の低下は通常もっと緩やかに起こるもので、数ヶ月のうちに数十ポイント下落するのは珍しく、終戦直後を除けば、戦後40年間は日本もそこまで急激な支持率低下はなく政権交代もさほど頻繁だったわけでもない。

 

ナイブレイドは、首相ポストが不安定になった要因を次にようにまとめる。

 

議席変動と有権者の不満が高まった近年において、頻繁な首相交代は首相ポストの重要性と影響力が増大したこと、選挙での政党名の重要性が高まったことによって生じたものであり、(政治的リーダーシップを強化させる目的で実施された小選挙区比例代表並立制等の;引用者注)改革の意図とは逆の結果をもたらしている 

(中略)

政権政党の多くの陣笠議員の再選が首相の人気と政党のパフォーマンスに対する有権者の評価によって左右されるようになり、不人気な首相を新しい首相、そして新たなハネムーン期(就任直後の高支持率)に取り替えようとするインセンティブが強まるのである。

(ベンジャミン・ナイブレイド(松田なつ訳)「首相の権力強化と短命政権」樋渡展洋・斉藤淳『政党政治の混迷と政権交代東京大学出版会、2011年、248頁)

 

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小選挙区制や比例代表制は、日本でそれ以前に導入されていた中選挙区制よりも投票決定の際に政党名が重視されるため、再選を気にする国会議員にとって首相の人気はとても重要になる。

 

しかも小泉政権で首相や政治家の言動がワイドショー等のテレビ番組でも大きく取り上げられるようになって、有権者がテレビ(やインターネットやSNS)をもとに投票行動を決定するようになると、首相にますます注目が集まるようになった。有権者が首相の報道を目にする機会が増えるほど、判断を改める機会が増えるので、内閣支持率も変動しやすくなる。

 

さらに最近は特定の支持政党を持たない私のような無党派層が増えている。支持政党を決めている有権者はテレビやインターネットの情報で支持政党をコロコロ変えることは少ない。しかし無党派層という浮動票はそのときどきの情勢で投票先を変えるため、2005年の郵政選挙や2009年の民主党への政権交代をもたらした選挙など、選挙によって大きな変動が発生する。

 

最近のわれわれ有権者、特に無党派層のリーダーに求める期待は、リーダーシップ、変革、トップダウン(みたいに見える)の改革である。ナイブレイドいわく、「改革が進まなければ、有権者は『この首相は前の首相と同じ』と考えを改め、支持から不支持へと態度を変えるのである」。

 

有権者へのアカウンタビリティを向上させる点は民主主義では肯定的に捉えられるわけだが、ナイブレイドは21世紀の日本に見られるようなハイパーアカウンタビリティという行きすぎたアカウンタビリティは、かえって首相のリーダーシップを損ねていると分析する。

 

すなわち、首相への期待とハイパーアカウンタビリティが高まることで、首相の不支持率が一気に高まるリスクが増え、それによって首相の地位は脆弱化し、結果として首相は人気の維持を最優先に行動しはじめる。

 

そのため、長期的には国全体にといってプラスにはなるけど、短期的にはわれわれ国民に痛みを強いるような政策(消費税の増税)などは、たとえ必要であっても首相の人気向上にはつながらないので、忌避される危険性が高まる。

 

1990年代の選挙改革などは首相のリーダーシップを強化して官僚依存や既得権益を打破してトップダウンで改革を進めるのが目的だった。しかし、首相の動静が注目されればされるほど、それが内閣支持率に直結するため、必要であっても不人気な政策を避けるインセンティブが発生するのである。

 

本来、政権交代に直結すべき選挙は衆議院総選挙だけのはずだが、橋本龍太郎参議院選挙の責任をとって総辞職するなど、参議院選挙はもちろん、都知事選や統一地方選挙、再選挙や補欠選挙も政権の信任投票の様相を呈することがあり、選挙の数が多ければ多いほど首相の人気が問われる機会が増える。首相の人気が重要になる機会が増えるほど、首相の人気のバロメーターである世論の不人気を買う政策を選択することは難しくなるというわけだ。

 

選挙の数が多すぎて首相が世論を気にして本来すべき政策を実施できないのであれば、選挙の数を減らすのも一手だろう。そしてその減らされるべき選挙は参議院選挙であるべきではないか。

 

参議院は「良識の府」と呼ばれることがある。参議院議員の任期は6年で解散もないため、誠実な議論をして政府を監視し、政府に誤りがあれば、それを是正する役割が期待されているためである。

 

二院が存在し、議論をする場が多くなれば、それだけ議論の質と結果として政策の質が高まるというのは論理的にはあり得る話である。

 

ただし、二院制を支持するには論理的な正しさだけではなく、経験的な正しさ、すなわち実際に参議院良識の府として機能してきたかを検証しなければならない。

 

私は参議院良識の府であることを経験的に正しいと証明できる事例を知らない。むしろ、ねじれ国会のもと政局の府として単なる政争の場になった記憶しかない。論理的な正しさと経験的な正しさの2つがともなって初めて参議院の存在意義が証明されるはずであって、もしその証明がなされないのであれば、参議院を廃止するのもありなんじゃないだろうか。

 

当然参議院議員は反対するだろう。であれば、参議院の定数である242議席をそのまま衆議院に上乗せして、議席数717の一院制にしてしまえばいいのだ。ハイパーアカウンタビリティの回避のための参議院廃止は議員歳費削減が目的ではなく、首相や政治家を過剰に世論に迎合させないためである。将来的には717人も議員は不要だから、定数を削減してもいいが、まずは選挙の回数を減らす目的に限定してほしい。

 

今回の参議院選挙を前に安倍首相は消費税増税を先送りした。参議院選挙がなければ恐らく消費税増税は予定どおり実施されただろう。

 

日々の暮らしに直結するから正直消費税は増税されないほうが嬉しい。でも、国の財政は火の車なわけで、将来一気にそのツケが噴出するのを待つよりは、ちょっとずつでも負担を増やしてラディカルなショックを避けるほうがまだマシだ。

 

世論は政治に反映されなければならない。でも、その機会があまりに多すぎて政治家が世論に迎合ばかりしている政治もそれはそれで困るのだ。

 

参議院不要論は、衆議院の「カーボンコピー」化を根拠にすることが多いが、過剰なアカウンタビリティを避けて、首相や政治家を世論迎合的にさせないためにあえて参議院選挙を前に参議院不要論を考えてもいいのかもしれない。

 

もっとも、参議院不要論を言っておいてアレですが、参議院が存在するかぎり選挙には行くつもりです。

 

今日はこのへんで。

 

知性主義はカッコよくなれるのか?そしてフォロワーを獲得できるのか??

内田樹編著の『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)読んだ。

反知性主義についてこれまで知らなかった私にとってとても勉強になった本だが、一方で知性主義者(彼らは否定するだろうが著者たちを知性主義と仮定した場合)になりたいとも思わなかった。

 

理由は単純だ。圧倒的にかっこ悪いからだ。

 

内田の定義によると、知性とは「知の自己刷新」のことであり、反対に反知性主義(者)とは、すでに正解を知っていたような気になっていて、自身の考え方をいささかも変える気がない人たちのことを指す。反知性主義者か否かはその人の持つ知識の量によって決まるのではなく、一般的に知識人とされる人も(こそ)反知性主義に陥りやすい。

 

さらに内田は、知性というのは個人ではなく、集団として発動されるもので、ある人がいると彼(女)の属する集団全体の知的パフォーマンスが高まる場合、その人は知性的な人である。他方で、いかに知的能力が高くても、その人がいると「周囲から笑いが消え、疑心暗鬼が生じ、勤労意欲が低下し、誰も創意工夫の提案をしなくなる」とその人は反知性的である。

 

内田樹反知性主義者たちの肖像」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、23頁)

 

たしかに頭が良くても何があっても自説を変えずに相手を批判ばっかりしている人は一緒にいてもあまり楽しくないし、知的という印象は抱かない。「あぁ、あの人は頭がいいから、、、」とどこか冷めた口調で言われる人は知性があるとは思われていないのだろう

 

と、彼の定義には得心がいきながらも、それでもなお知性主義者をかっこいいと思えないのは、本書でそこかしこに「昔はよかった」的な懐古主義が見られるからだ。明確に「昔はよかった」とは言わない。しかし「今」に批判的であるがために、昔はよかったと言っているように聞こえるのである。

 

たとえば、精神科医の名越と内田の対談で、

 

内田「(略)人類は数千年の歴史を持っているわけです。瞑想とか、呼吸法とか、突き詰めてゆけばどれも人間の生きる力を高めるための方法なわけです。それはできあいのシステムの中で、何かを量的に増大するというのとはぜんぜん違うことなんです。」

名越「そうなんですよね。それを忘れてどんどんバカになっているのかもしれないという。」

内田「実際、現代日本人を見ていると、どんどんバカになっているという気がする。」

名越「そう思いますね。」

内田「知の定義を勘違いしているからじゃないかな。知には二つの層があると思うんです。定量できる知識や情報の層と、そんなふうに数量的には表示できないメタ知性の層。後者こそが知性を知性たらしめているのに。」

名越「そうそう、知性を知性たらしめているものですよ。その段階が見えてないんですよ。」

内田「(引用者注:現代社会は度量衡で格付けされていて、定量的に測定して最も費用対効果が高いものが尊重されるが、数量的に表示できないメタ知性は)エビデンスがないからね」

 

名越康文内田樹「身体を通した直感知を」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、226頁)

 

とか、生命科学研究者の仲野は、

 

「いまから思えば、私が研究をはじめた頃、実験というのは牧歌的でのんびりしたものだった。研究室で受け継がれてきた技術を教えられて、あるテーマをゆっくりと楽しむという感じであった。そして、同時に、それぞれが創意工夫に満ちたものであった。

(中略)

下働きという単純作業をこなしながら、ぼんやりと研究について思いをはせるというのも、ぜいたくな時間の使い方であった。そういうときに不思議といいアイデアが浮かんだものである。一方、教える側からは、そのような作業をさせてみるだけで、きちんと考えるようになる子かどうか、いい研究者になるかどうかおおよその見当がついた。

ずいぶんと状況は違ってきた。ディスポーザブルな器具が主流となり、いまではどんな研究分野もマニュアル化されている。それどころか、サンプルを試薬Aにまぜて何分間反応させて試薬Bを加えるといったように、多くの実験がキット化されるようになった。もちろん、それなりの器用さは要求されるが、原理がわかっていなくても、実験ができてしまうのだ。そんなバカなことはないだろうと思われるかもしれないが、大学院の審査会で、自分の研究にも実験の原理を尋ねられて、きちんと答えられない学生はまれでない。」

 

といった具合である。

 

(仲野徹「科学の進歩にともなう『反知性主義』」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、263-264頁)

 

昔はよかったと懐古している人をかっこいいと思うことはない。カッコ悪すぎだろう。

 

さらに知性主義者のかっこ悪さは本書に収められている小田嶋の章が適切に表現している。

 

彼によれば知性主義者=いけ好かないガリ勉の出木杉くんである。

 

「教師が家父長的であり、学校が軍隊秩序的であり、世間の道徳規範がいまだ儒教的な色彩を強く残していた昭和中期において、『体制』は、『保守反動』の側にあり、それゆえ、『反抗』は、『左翼的』『リベラル的』ないしは『戦後民主主義的』な文脈で育まれ、若者から見た『カッコ良さ』もまた、左側に偏在していた。」

 

ところが、21世紀に入ると、

 

「『偏差値』と『戦後民主主義』は、ともに『優等生くさい』『いい子ちゃんオリエンテッド』『ガッコーのセンセーにほめられるっぽい』『ママのスカートの隠れてやがる的な』『いけ好かない』ガリ勉あっち行って死ね・アイテムに変貌したのである。」

 

小田嶋隆「いま日本で進行している階級的分断について」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、190頁)

 

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なんで私がかっこよさにやたらにこだわるのか。

 

それはかっこ悪いと認識されることが知性主義にとって非常に深刻な危機だと思うからだ。

 

政治学者のイーストンによれば、政治とは「諸価値の権威的配分」と定義される。

 

これは、世の中には多様な価値や利益があって、資源が希少であれば全ての価値や利益を同時に満たすことはできない、よって皆が(消極的同意も含めて)納得できる方法で優先順位を決定して配分する、という意味である。

 

世の中に知性主義と反知性主義の2つの価値観があって、知性主義者が知性主義が優先されるほうが世の中にとってプラスと考えるなら、知性主義が優先されるという決定に同意してくれる人の数を増やさなくてはならない。

 

知性主義は人々の同意(賛成)を獲得して、フォロワーを増やさなくてはならないのである。

 

それでは、そうすれば同意を獲得できるのか。

 

政治学では、その方法は3つあるとされる。すなわち、強制、誘引、説得である。

 

強制は腕っぷしにものを言わせて、相手に無理やり同意させることである。通常、物理的暴力によって達成される。

 

誘引は利益を供与することで相手の同意を買う方法である。お金や地位など相手の利益になるものを供与する。

 

説得は相手の価値観を変えて、自分の主張そのものに同意してもらう方法である。

 

論理的には物理的暴力や金銭の供与によって知性主義者が人々の同意を獲得することも可能だが、通常知性主義者はそのようなやり方は好まないだろうし、そのための暴力や金銭的な資源も十分に持っていないだろう。

 

では、説得に必要な資源は何だろうか。それはすなわち「権威」である。

 

権威とは自発的に同意や服従を促す能力であるが、それはその人の社会的な地位に由来する場合もあれば、その人自身の魅力に由来することもある。社会的地位だけに権威を依存する場合は、その地位が剥奪されるとその人の権威は失われてしまうから、地位ではなくその人自身に魅力に基づく権威のほうがより強固な権威である。

 

ときとして、人は話の内容よりも話し手の魅力に影響を受ける。「何を言っているか」よりも「誰が言っているか」のほうがしばしば大事なのだ。いいことを言っていても、平等に耳を傾けてもらえるわけではないし、政治的決定に影響を与えるわけでもない。

 

廃絶の手順やその実現可能性はともかく、世界から核兵器がなくなったほうがいいに決まっている。だから、誰が「目指せ、核廃絶!」と言ってもその内容の正しさは変わらない。私が言ってもいい。だけど、私がある日路上で「みなさん、核廃絶に向けてがんばりましょう!」と叫んだところで、足を止めてくれる人がどれだけいるだろうか。東京はもちろん、広島や長崎でやっても私の主張に皆が感動し「えいえいおー」となることはまずありえない。ノーベル平和賞ももらえない。

 

でも、オバマ大統領が言えば、より多くの聴衆を惹き付けられるし、ノーベル平和賞ももらえる。オバマ大統領が言ったところで、冷めた人のほうが多かっただろうが、それでも影響力の大きさは私の比ではない。言ってることは同じでも誰が言うかが大事なのだ。

 

オバマ大統領の例だとあまりに例が極端でわかりづらいが、より身近な例で言えば、ハンサムや美人、見てくれが爽やかであったり、美声の人のほうが話の説得力が増すことが多い。少なくともブサイクや服装がだらしない人よりも耳を傾けてもらえる。

 

最近では無条件に支持されているわけではないが、かつてはリーダーシップ研究において、声が大きい、年上であること、身長が高い、容姿が優れていること、高学歴や出身階層、社交性といった特性を持っている人がリーダーシップを発揮できると分析した特性論もあった(桑田耕太郎・田尾雅夫『組織論(補訂版)』有斐閣、2010年、236−237頁)。

 

こうした外見的・性格的に魅力はばかにできないのだ。

 

知性主義者がかっこ悪いと思われているのは、ファッション雑誌の表紙を飾る人を見ても明らかだ。ファッション雑誌の表紙を知性主義的な人が飾ることはまずない。モデルや芸能人のほかであれば、スポーツ選手やミュージシャンが多い。いずれもガッコーでベンキョーがんばってきましたというタイプではない。髪の毛ぼさぼさで服も垢抜けておらず、ぼそぼそしゃべる人に魅力はない。出版社は正直だ。そんなバッチい人に表紙を飾ってもらっても困るのだ。

 

知性主義者がどれだけ裾野を広げたいと考えているかわからないが、それでも反知性主義の拡散を憂いているのであれば、知性主義を広めることを真剣に考えるべきだろう。知性主義のファロワーはいなければ反知性主義が広がるだけである。

 

そして、そのときは自分たちが人々から魅力的に映っているかを本気に考えたほうがいい。知性主義が否定されるのは、単純に自分たちがかっこ悪いからではないかと疑ったほうがいい。知性主義者はそんな見てくれなんて表面的なことに左右されたくないと言うかもしれないが、それは逃げだ。

 

政治学者のメリアムは「権力が暴力を用いる時、権力は最も強いのではなく最も弱いのである。権力が最も強いのはそれが力に代わる魅力を持ち、排除よりは誘惑と参加、絶滅よりは教育などの手段を採用する時なのである」(佐々木毅政治学講義(初版)』東京大学出版会、1999年、67頁より抜粋)と述べているが、知性主義は暴力もなければ、魅力もないのが現状だ。それに、知性主義は私のような一般の人々を誘惑しようとしたり、門戸を開こうとしているようにも見えない。

 

反知性主義よりは知性主義のほうがいい。だからこそ、知性主義者にはかっこよくなってほしい。知性主義に同意していれるファロワーを獲得しない限り知性主義を待つのは絶滅だけだ。そうなっては遅い。

 

知性主義は一刻も早くファッション雑誌の表紙を飾らなくてはならない。知性主義ってかっこいいと思われる日は来るのだろうか。

 

今日はこの辺で。

 

 

 

仲良くするべきなのに仲間なんてウザいんだよとエモーショナルに反発する人たちをどうやったら説得できるのか?

イギリスのEU離脱には本当に驚いた。

 

2014年に行われたスコットランドの独立是非をめぐる住民投票も終盤まで賛否が拮抗したが、結局最後は残留派が約10ポイント引き離して勝利したので、そのアナロジーで捉えてしまって、なんだかんだ結局イギリスはEU残留を選択するのだと思っていた(残留派議員の殺害の同情論もあると思った)。

 

アメリカのトランプやサンダース現象といい、先進民主主義国における既存政治への破壊衝動の大きさに驚く。

 

今回のイギリスの国民投票で離脱に賛成した人が(全員ではないけれど)合理的な判断に基づいて投票したわけではないことは明らかだ。

 

6月24日のワシントンポスト紙の記事「The British are frantically Googling what the E.U. is, hours after voting to leave it」は、国民投票の1時間後にGoogleで検索されたキーワードの上位5位が、①EU離脱の意味は?(What does it mean to leave the EU?)、②EUとは?(What is the EU?)、③EUの加盟国は?(Which countries are in the EU?)、④EUを離脱したら何が起こる?(What will happen now we’ve left the EU?)、⑤EU加盟国は何カ国?(How many countries are in the EU?)であり、いまさらそんなこと検索するなよ、と言いたくなるキーワードが検索され、離脱に投票した人も離脱が意味するところを知らずに投票したのでは?と批判している。

 

記事には他にも投票の翌日の朝に起きたら現実に慄き、再度投票する機会があれば、残留に投票すると答えた離脱派の声を届けている。

 

離脱決定後の新聞記事や識者のコメントを聞くと、労働者や底辺層の怒りを拾い切れていなかったとの分析や反省の弁があったが、しかし、ろくに自分たちで考えようとせずにEUがおれたちの生活を悪くしたんだ!という筋違いの陰謀論を頑なに信じる人たちをどう説得すればいいのだろうか?

 

内田樹は、民主主義のよさを「『わるいこと』が起きた後に、国民たちが『この災厄を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にもない』というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の債務を支払う義務があるという考え方を基礎づけるための擬制が民主制である」と述べている(強調は内田)

 

(出所:内田樹反知性主義者たちの肖像」内田樹(編)『日本の反知性主義晶文社、2015年、57頁)

 

内田が正しければ、あいまいな判断のもとしかも翌日になってようやく事の大きさを知ってやっぱやめておけばよかったと思う人たちがこの民主主義の基準に達していなかったことは明らかだ。まして離脱支持派の多くは高齢者だというからいよいよシルバー民主主義の弊害というものだ。これではスコットランドがむかついて再度独立したいと言いたくなるのも無理はない。

 

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とはいえ、こういった非合理的な人たちも投票権を持っているのが民主主義だとすれば、彼らを説得する方法などあるのだろうか。民主主義は非合理的な「ホンネ」をありのままに発露するエモーショナルな人々を説得できるのだろうか?

 

民主主義には暗黙の前提がある。

 

すなわち、民主主義のもと政治に参加して欲しいのは、合理的な判断ができる徳のある人物に限られる、と。

 

(以下のアリストテレスジョン・スチュアート・ミルシュンペーターの話は佐々木毅政治学講義』東京大学出版会、1999年の第2部第1章の「民主政治」を参考にしています)

 

民主主義は「開かれた政治」とか「人民の政治」を標榜するけど、実際の民主主義の運営は、中心に政治家がいて、その周りを政治階層(利益団体やメディア)が取り囲み、その周りを合理的で徳のあるエリートや知識人が取り囲み、さらにその周りを教養がなかったり、政治に関心のない一般民衆が取り囲む、という構図で、一番外側の一般民衆は普段政治に関わらないし、関わって欲しいと期待もされていない。というか、むしろ全然関わって欲しくないと実は思われている。

 

アリストテレスが民主主義(democratia)を貧しい人々が数の力をもとに支配する無秩序で過激な政治体制と捉え、悪い政治の1つと評価したことは有名である。民主主義を支持したジョン・スチュアート・ミルでさえ、彼は選挙権の拡大に賛成したが、有識者に複数の投票権を与えて一般民衆の暴走を阻止してほしいと考えた。

 

現在では民主主義を正面から否定する人はいないし、確かに現存する政治体制の中でもっともマシな政治体制だと言えるだろう。

 

しかし、民主主義が「人民による政治」といっても、じゃあ人々ってどんな人となんだという問いに対して、シュンペーターは、一般民衆は自分に直接関係ない世界の出来事を熟慮して合理的な判断を下せず、またそういう出来事について責任感を感じることもできない、無知と判断力に欠如した人々と喝破した。

 

このような人々は偏見や衝動に囚われ、政治の推進力にはなりえず、単なる政治の客体でしかない。一般民衆ができるのは政治への参加ではなく、誰が政治的な決定を行うかの人を選ぶだけに過ぎないのである。

 

一般民衆がただ政治の客体にとどまるなら害はない。しかし、彼らが政治参加を強めたらどうなるか。政治学ではしばしば一般民衆の政治舞台への参加は「民主政治による民主政治の破壊」につながるものと考えられた。ワイマール体制下のドイツにおいて民主的手続きによってヒトラーが選ばれたがごとく、一般民衆の参加は民主主義の安定性を破壊するのである。

 

ミルのようは政治学者にとって、一般民衆も民主主義という政治体制は信奉してほしいが、それ以上の参加はしてほしくない存在だ。そして政治の運営はただ合理性と徳を備えたエリートに任せてくれればそれでいい。一般民衆は政治の中身には無関心であってほしいのである。

 

これまで先進民主主義国で民主主義が安定していたのは、合理的で徳のある市民(合理的市民)が多かったからではないか。

 

合理的市民は二通りの方法で生まれよう。

 

一つは政治学が理想とする意識高い系の人、すなわち政治についてしっかりと勉強して政治を行うべき合理性と徳を備えた人である。

 

もう一つは、本当はホンネではいろいろ不満はあるけど、損得勘定に従って現行政治を支持してきた人である。イギリスのEU参加を支えていたのは二つの合理的人間だったが、数にしてみれば後者のほうが多かったろう。

 

彼らは、ドイツが再び戦争を起こさないよう封じ込める装置としてEUが必要である、冷戦で西側諸国の結束を高めるためにEUが必要である、英国病の治療のためにはEUが必要であると考えた。

 

良いことだとは思うのだが、これらの諸問題が解決したと思われたからこそ、別の問題、すなわちEUの政策協調のため独自の政策の裁量が狭められること、EUに多額の拠出金を提供しなければならないこと、移民の問題といった、国や国際秩序の安定性といった問題と比較するとより卑近な問題がクローズアップされるようになったのだろう。

 

いまさらドイツに第2のヒトラーが現れて再び世界大戦の引き金を引くとは思ってないし、確かにロシアは新冷戦を起こさんばかりにウクライナ問題では強硬だが、とはいえやはり冷戦期に想定されたような熱核戦争が起こるとは思えないし、英国病は治っているし、といった具合にだ。

 

これはイギリスに限られないと思う。第2次大戦の記憶や冷戦という超大国間の対立が今そこにあれば、ちょっとぐらいの不満はガマンできる。しかも、みんなも同じようにガマンしているのであれば、自分だけが不当に不利益を被っているとは感じない。こうやって第2次大戦の記憶と冷戦は意識高い系とは異なるガマンに基づく合理的人間を生み出した。そうした人々はイギリスのEU加盟を受け入れてきたのである。だが、EUに加盟した動機や理由が失われた現在、人々が合理的人間にとどまり続けるのは難しくなっている。

 

一般市民は政治に参加してほしくないとミルのような政治学者は思っていると先に述べた。しかし、現実には一般民衆も政治に入り込んでくる。そして民主主義も政治体制の一つである以上、倫理的な正当性だけではなくて、「諸価値の権威的配分」をしっかり行うという実績に基づいて判断されなければならない。

 

そして一般民衆の中には諸価値の権威的配分がされていないと憤っている人たちがいる。一般民衆が求める価値が一部のエリート(エスタブリッシュメント)たちによって不当に後回しにされている、エリートたちは姑息な手を使って自分たちの利益を優先している、と。あんなやつらが言ってることは信用できない、と(エスタブリッシュメントに言われると無性に腹がたつという気持ちは実はよくわかる。私も中学高校で夏目漱石芥川龍之介など日本の名著を読むよう言われたが、それに反発してしまって今でも読んでいない。絶対読んだほうが人生にとっていいはずなのに(´Д` ))。

 

今回のEU残留派は経済的な利益を根拠に残留のメリットを説明しようとした。しかし、経済的なメリット、すなわちGDPがどれだけ伸びる減るといった議論は論理的には理解できても感覚的には実感しづらい。経済的なモデルを使って国全体の経済的な厚生を算出しても、一般民衆が知りたいのは「で、おれの懐にはどれだけカネが入ってくるの?」ということであろう。外交や安全保障政策の協調の必要性を説明されても、「それはわかったけど、隣に住んでる気味悪い異教徒の移民を追い出してくれよ」って言われても意識高い系の人は処方箋を提供できない。「そんな非民主的なこと言うもんじゃありません」と上から目線でたしなめるだけである。

 

今、「ホンネ」で話す人たちがどんどん政治参加しようとしている。これは従来の民主主義があまり経験してこなかったことではないか。第2次大戦の記憶や冷戦が人々をむりやりガマン系合理的人間にしてきた。冷戦が終わっても、冷戦終結の高揚感や旧ユーゴスラビアなどで悲惨な民族紛争が勃発して共同で対処しなければならなかったことが、意識高い系の再生産やガマン系合理的人間のガマンの期間を引き延ばすというボーナスステージを用意した。しかし、それらの問題解決に成功し、欧州域内では秩序が安定した不戦共同体を達成したことが、かえってEUにとどまらなければならない正当性を侵食してしまった。

 

ガマン系合理的人間が少なくなって、「ホンネ」があちこちで噴出している。これまで意識高い系とガマン系合理的人間を所与としてきた民主主義は新たなステージに入りつつあるのだろう。しかし、今のところ、「ホンネ」を話す人々への有効な処方箋は見つかっていない。2016年はどうやら「ホンネ」で話す人々の反乱元年になるのだろう。

 

今日はこの辺で。

リベラルコスモポリタンとナショナリストの相性の悪さ

自由や人権、平和といった普遍主義的なリベラルな価値観を掲げるコスモポリタンと固有の文化や民族的価値観を重視するナショナリストの相性は悪い。

 

コスモポリタンナショナリストの対立はかつてもあった。

その1つが19世紀のウィーン体制とその崩壊である。

 

ウィーン体制は、オーストリアメッテルニヒやフランスのタレイラン、イギリスのカッスルレー、ロシアのアレクサンドル1世らが構築した欧州の国際秩序を安定させるためのレジームであった。当時の意思決定者の中心は貴族たちエリートで、彼らは当時の事実上の国際公用語であるフランス語を解し、貴族的文化を共有していた。他方、教養なき一般市民との間の精神的な結びつきは弱かった。エリートと自国の一般市民との間の垂直的な結びつきは弱かったが、国籍は違ってもエリート同士は貴族的文化も言葉も共有しており、国籍を超えた水平的な結びつきは強かった。垂直的な結びつきがないので今日でいうところのコスモポリタンほどの包含性には欠けるが、とはいえ国境線を越えるという意味でコスモポリタン的な要素を持ち合わせていた。

 

ウィーン体制下の欧州は勢力均衡のもと安定した国際秩序を達成した。勢力均衡とは覇権国の出現に対して、それが普遍的な帝国になって他国を支配するのを防ぐために、他の大国が対抗して合従連衡を組む傾向を指し、5カ国程度の力の均衡する大国によって形成される。しかし、高坂正堯キッシンジャーによれば、それだけでは不十分で、当時のエリート層で共有されていた欧州主義という価値観が重要であった。エリートたちは合意と調和によって行動し、欧州協調(Concert of Europe)が達成された。当時の著名な国際法学者であるヴァッテルは、欧州はある種の共和国で、秩序と自由を維持するための共通利益を有しており、その共通利益維持のために勢力均衡の実現が重要だと述べている。

 

この欧州協調はコスモポリタンなエリートたちによって担われていたが、その協調を壊したのがナショナリズムであった。各地でナショナリズムが興隆すると、エリート間の国境を超えた水平的な結びつきよりも自国民との垂直的な結びつきを強化する要求が強まった。各国が欧州の協調よりも自国の利益を追求するようになった結果ウィーン体制は崩壊し、欧州諸国は第一次大戦という破滅の道へと突き進んだのであった。

 

ナショナリズムが欧州協調を崩したと捉えられているため、高坂正堯キッシンジャーらはナショナリズムといった「〜イズム」を秩序の不安定化をもたらすものとして嫌う。

 

国際秩序の安定をもたらした一方、当時のエリートと一般市民との間の垂直的な結びつきはなかった。そのため、エリートたる貴族は一般市民の利益をさほど考えてはいなかったし、そもそも同じコミュニティに属しているという認識さえなかったであろう。ついでに言えば、当時はほとんどの国が民主主義でなかったか選挙権が一部の金持ちに限定されていため、一般市民の間でも積極的に政治に関わろうという人は多くはなかったであろうから、ウィーン体制下の欧州ではエリートと一般市民との間には互いを同じコミュニティに属しているとは感じていなかったに違いない。

 

翻って現代。相変わらず現代でもコスモポリタンナショナリズムの相性は悪い。

 

現代のコスモポリタンは自由や人権、平和、マイノリティの包含といったリベラルな価値観を掲げ、ナショナリズムといった排他的な思想を嫌う。今日のリベラルの特徴は包含性だろう。

 

もちろん世界には国境はあるから、世界共同体は幻想でしかないが、それでもコミュニティの中でもかつてはマイノリティとして迫害の対象となっていた民族的少数派やLGBTといった人々の権利尊重を求める点において包含性を志向している。コミュニティの境界線といった場合も、領域的な意味での水平的な広がりと、領域内の人々の差異による差別をなくすという垂直的な包含性を高めようとする。

 

コスモポリタンをグローバリゼーション支持者まで広げれば、コスモポリタンのほうがエリートが多いように思える。教養がある人は他者を差別するべきでないという倫理観を持っていることが多いし、たとえグローバリゼーションで他国と競争しなくてはならなくても、能力が高ければ競争自体を恐れず、むしろイノベーションのために競争を支持するだろう。

 

他方で今日の日本におけるナショナリズムの担い手の少なからぬ人たちは自分たちが脅威にされされていると感じている。能力的に自信がなく英語さえもしゃべれない人であれば、外国人との競争の激化は歓迎できる状況ではない。能力という土俵での闘いでは負ける可能性が高い。そういう人たちにとってはコミュニティが民族的基準によって決まるほうがありがたい。日本人であることそれのみが敬意の資格要件であれば、外国人のほうがどんなに能力が高かったとしても日本人であるというその事実自体が外国人よりも上の地位を保証してくれるからである。

 

だからこそコミュニティの境界線をどこに設定するかがとても重要なのであって、このコミュニティの境界線をどこに設定するかで、コスモポリタンナショナリストとの間で意見の相違があるように思える。

 

コミュニティの境界線は可変的であり、しかし一度コミュニティの境界線に関する人々の認識が形成されればその境界線がのちのちまでコミュニティ再生の基準となる。

 

たとえばヨーロッパ。ローマ帝国は今日の西欧や中央のほとんどを支配し、その意味で汎ヨーロッパ的な国家であった。ヨーロッパではしばらくこのローマ帝国の版図がヨーロッパのあるべき単位であると認識され、だからこそ800年のフランク国王カール1世の戴冠や962年にオットー1世が戴冠されて神聖ローマ帝国が誕生したりしているのだ。

 

カール1世やオットー1世はローマ教皇に戴冠されることで、再びカトリックに基づくローマ帝国の復活の役目を負った。実際に彼らとその子孫たちがローマ帝国を復活させることはできなかったが、ローマ教皇による戴冠というイベントは復活されるべき対象としてローマ帝国という単位がヨーロッパでは認識されていたことを示している。

 

しかし、1618年に始まった三十年戦争が非戦闘員の死者数が歴史上初めて戦闘員の戦死者数を上回るという悲劇を生んだため、単一宗教(カトリック)による統一的なヨーロッパの復活は諦めて、主権国家によるヨーロッパの分有へとシフトしたのである。

 

他方で、中国は分裂しても復活する。

 

中国の基本的な領域としての単位は漢の版図によって決定された。三国時代南北朝時代など何度となく中国の王朝は滅亡し分裂の時代を迎えるわけだが、それでも新たな王朝が誕生すればおよそ漢の時代の版図が基準になっている。どんなに分裂しても清のように他民族の王朝になってもおよそ漢の領土を基準に再生するから不思議だ。あれほど広大な領土なのだから複数の国に分かれてもいいはずだし、今日でいうところ主権国家になったのを中華民国以来だとみなしても、それ以前から中国人の中での中国のあるべき姿として漢が基準とされていたといえる。

 

コミュニティの単位は領域によってのみ決まるわけではなく、先に述べたようにエリート対一般市民のように文化や言語といった属性によってもコミュニティの境界線が決定される。

 

コミュニティの範囲は可変的であり、しかし他方でいずれかの時点であるべきコミュニティの単位に関する人々の認識が確立されていく。

 

 

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さて、『これからの「正義」の話をしよう』で一躍時の人となったマイケル・サンデルは政治哲学でいうところの「コミュニタリアニズム」に属する人である。

 

コミュニタリアニズムはその名のとおり自らの属する共同体の価値観から道徳や善の判断は無縁ではありえず、自己は家族や部族、都市、階級、民族、国家といった個人よりも広い共同体の中で発展していくとする。

 

サンデルは何の制約もなく自由に善を取捨選択している主体を「負荷なき自己」として、実際には個人はそのような存在ではなく、共同体に関係づけられた「位置付けられた自己」であるとする。

 

哲学の学界における論争はともかく、われわれの実感からすればコミュニタリアニズムの言っていることは納得感がある。

 

コミュニティの価値観に自己が束縛されているとすれば、コミュニティの範囲はどこまでなのだろうか?要するに自己が属する共同体と他者を分ける境界線はどこに引かれるのだろうか?

 

共同体という以上、一定の境界線が想定されるべきで、もちろん地球上全て=コミュニティという可能性も論理的にはありえるが、そうなってはもはやコミュニタリアニズムではなくコスモポリタンだ。

 

哲学者に言われずともわれわれはコミュニティが重要だということを実感として知っている。特に日本は村八分とか空気を読むといった言葉があるくらいで、共同体の影響力の大きさをとても感じている(閉鎖性や束縛というネガティブな意味も含めて)。

 

コミュニタリアニズムリベラリズムやリバタニアリズムよりも他者との関係を考慮するので、その意味では他者との共存を重視する点では協調的とも言えるが、共同体外の人との関係をどうするかが問題となろう。

 

サンデルは、コミュニティは多層的であり、またコミュニタリアニズムは開かれたものでなければならないと主張することで排他性を回避しようとしているように思えるし、他のコミュニタリアンもリベラルな政治体制自体を否定する区分けではないから、共同体外の人々との共存を主張するだろう。

 

しかし、全ての人々との共存は誰しもが理想とするだろうが、実際の政治となるとそうはいかない。なぜなら資源は有限だからだ。

 

資源が無限なら他者の利得は自分の不利益にはならない。しかし資源が有益で希少なら他者が得ることは自分の損失になりうる。

 

だからこそ誰が同じコミュニティの人々で誰がコミュニティ外の人々なのかが重要な意味を持ってくる。そして自分が脆弱な立場にあればあるほど他のコミュニティの人々への利益配分が苦々しく思えてくるのである。

 

貧すれば鈍するとはよく言ったもので、限られた資源を争うとき、そして自分が脆弱でその資源を獲得できるかどうかが自分の生活に大きな影響を与える場合、コミュニティの境界線が自分にとって有利になることを期待する。

 

普遍的な思想や能力によってコミュニティの境界線が設定されるよりも日本人というそれだけがコミュニティの構成員たる資格要件であるほうがありがたい。ただ日本人であるというだけでその要件は満たされ、優秀であっても外国人であればその時点で弾いてくれるからだ。

 

そんなとき、幅広い人々を包含するようにコミュニティを設定すべきという主張は受け入れられにくい。ましてコスモポリタンな普遍的思想は不人気というものだろう。

 

普遍主義的なコミュニティ資格と脅威を認識している人が理想とするコミュニティ資格との相性はすこぶる悪い。

 

もっともリベラルなコスモポリタンのほうが差別に反対するし、どこの国でもリベラルのほうが社会保障を重視するので弱者保護的であるはずなのだが、その手を差し伸べる先があまりに幅広いと一人一人の分け前が減ってしまうように感じられるため、コスモポリタンは自分たちを味方してくれないと感じてしまうのだ。

 

コミュニタリアニズムにシンパシーを感じると言う小川仁志は、共同体の美徳を体現していないルールはみんなで考え直す必要があるという。ルール自体に問題があり、時代にそぐわなくなっているケースではルールだからと無理に押し付けるのではなく、ルールは外に向かって開かれているべきで、みなで話し合うことでルール自体をも変えることができる寛容さと柔軟さがコミュニタリアニズムからは導き出されるとする。

 

しかし、小川自身がコミュニタリアニズムは閉鎖的なムラ社会やゲイティッド・コミュニティのイメージがあると誤解されると危惧するように、最近はルール、特に憲法自体が時代にそぐわないとか共同体の美徳にそぐわないと主張する人たちが日本らしさを守るべきとか日本的と彼らが主張するところの価値観を道徳の授業などで広めようと気張っている。

 

垂直的な包含性が欠ける意見が幅を利かせ始めているが、それは何より脅威認識を感じ、競争でも勝てないと考えている人が増えているからだ。そういう人にとっては日本人であるという事実それ自体が敬意の資格要件となるようなコミュニティを望み、他者を排除してくれるほうがありがたい。

 

そういった人たちをなんて器の小さいと一蹴することがは簡単だが、それではコスモポリタンへの支持は高まらない。反対に自分の国や国民を第一に考えるという偏狭な政治家のほうが支持を得やすい。

 

同じ国に住んでいてもコスモポリタンナショナリストは互いが同じコミュニティに属しているという仲間意識はないのではないだろうか。ナショナリストへの期待が高まっているのは脅威を感じる人が増えていて、コミュニティに守って欲しいと思っている人が増えているからである。脅威を感じている人にそんな偏狭なことを言うなと叱りつけても無意味だ。リベラルなコスモポリタンは守ってくれないと態度をさらに硬化させてしまうだけだ。

ナショナリストに安心供与をして同じコミュニティに帰属している感を感じてもらうことがコミュニタリアンナショナリストを近づける第一歩であるように思う。

 

今日はこのへんで。

 

参考文献

小川仁志『はじめての政治哲学』講談社現代新書、2010年。

小川仁志『「道徳」を疑え!ー自分の頭で考えるための哲学講義ー』NHK出版、2013年。

取り残された層からどうやって支持を再獲得するか?

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民主主義のよさの一つは勝者の流動性である。

今回の選挙で敗北しても次の選挙で勝利できる可能性があるから、今回の敗北を受け入れられる。それは政治家や政党にとってもそうだし、その政治家や政党の支持者にとってもそうだ。次回政権を取れる可能性が保障されているから、民主主義という政治体制を受け入れられる。

 

その意味で民主主義は勝者と敗者が流動的で、制度に対する不満を出にくい政治制度といえるが、それでも民主主義という政治制度への不満は存在するし、それはラディカルな政党の躍進や民主主義制度自体を否定(独裁や軍事政権の容認)というかたちで表出されることがある。

 

それは時代や国を問わない。

 

米国大統領選挙のトランプ、サンダース現象はまさにそれであるし、日本にだって起こる。

 

戦前まで遡れば、1936年の総選挙は、立憲政友会の大敗、民政党の大勝という結果となったが、それ以上に大きな特徴だったのは、労農系の革新的政党が躍進であった。

 

当時のジャーナリストはこの結果を、階級闘争として捉え、ブルジョア政党への不信票が無産政党に向かったと分析した。

 

対して、三輪公忠は中央対地方という図式で捉えるべきとする。当時の日本の知的エリートは、「大正デモクラシー」を西欧流の「近代化」と同一線上に歴史の発展と捉えていた。日本の中央の文化がコスモポリタン的性格を持ち西欧議会民主主義に親和感を抱き、反面、日本国内の都市と地方との構造的な対立を忘れていたと指摘する。労農系政党の躍進は中央の政治から参加するものとしては考慮されたことがなく単に統治の対象としてしか認識されていなかった地方からの批判票であったとする。

 

また、大正デモクラシー以後の日本政治ではしばしば大物政治家がテロや軍部によって排除されてきた。たとえば、原敬首相は金権政治を批判する国鉄職員によって暗殺され、ロンドン軍縮条約に反対する青年によって浜口雄幸首相が狙撃されたり、5・15事件で犬養毅首相が殺害されたりしている。

 

だが、こうした非民主的な行動はしばしば国民の支持を得た。この現象を阿部真之助は、政党政治が時間の経過にしたがって一般民衆の利害から遊離するようになり、政党が世の中の要求に沿わなくなってきたため、軍部が民意を代表しているかのごとくになったとしている。

 

三輪は、地方では政党政治への批判があり、そこから軍部への期待が生まれていたが、中央のジャーナリズムは議会制民主主義を支持していたことから、その政党政治への反発が、軍部との連携によって農村の難局の打開を図ろうとする山形県置賜農民運動などの決起計画といった過激な方向性に進んでいることに思い至ることはなかったとする。その上で、もし地方の反発を中央の政治に反映する方法を西欧的なリベラリズムに思想の枠組みのなかで処理できるような独創的な構想を思い当たることができていたなら、と指摘する。

 

しかし、中央なジャーナリズムはそのように理解しなかった。地方の農村部だったこともあり、地方の農村部の中央への反発は前近代的な価値観と同一視され、反知性的な動きと捉えられてしまった。

 

前述のとおり、1936年の選挙での革新系政党の躍進はブルジョア政党への反発と評価されてしまった。しかし、三輪はブルジョア政党への批判としてのみ捉えるのは一面的であるとする。というのも、ブルジョア政党への批判というだけでは、あくまで問題なのはその政党であって民主主義や政党政治という制度そのものへの反発とまでは発想が及ばなくなってしまうからである。

 

トランプが共和党の大統領候補になったことやサンダースの躍進をほとんどの専門家は予想できなかったが、その要因としてワシントンDCの政局ばかりを追っていると、それ以外の地域での動きが見えにくくなるとの指摘を聞いた。ワシントンDCの所得平均は他の地域よりも高く人々の政治的意識も高い。その意味でワシントンDCの人々はトランプやサンダース現象を支えた非エスタブリッシュメント層がもっとも嫌う層の人々だったのかもしれない。永田町の常識は国民の非常識といった表現もあるが、政治の中心や首都といった中心部にいると周辺地域(都市部の底辺層や地方)の動きが見えなくなって、彼らを包摂する思考が失われ、気がつけば周辺で制度自体への反発が高まっていることになりかねない。

 

冒頭で民主主義の長所は勝者の流動性と書いたが、周辺部から見れば、周辺部が勝者になる可能性をほとんど感じていなかったかもしれない。日本でいえば、自民党民進党、米国であれば民主党共和党、いずれも結局が政治に関心がある意識高い系や政府に圧力をかける資金力のある圧力団体を有する業界にしか反応しないんでしょ、と周辺部が冷めていれば、制度自体への反発や制度自体の破壊をもたらしそうな過激な政党を支持したくもなるのだろう。

 

いつまでたっても勝者になる順番が来ないと冷めてしまえば、制度自体への支持も冷めてしまうものだ。制度の維持(憲法も含めて)を求めるのであれば、制度に挑戦する可能性がある人々をどう包摂するか、何度かこのブログで言っているが、この問いに対する答えを見つけなければならない。

 

今日はこのへんで。

 

参考文献

三輪公忠『共同体意識の土着性』三一書房、1978年。