猫山猫之介の観察日記

猫なりに政治や社会について考えているんです。

で、結局戦後とはなんだったわけ?(3) —西洋的政治思想の中に非西洋性を見出すよりも重要なこと—

現行憲法および今日の日本政治の根幹となる価値観である「自由」や「民主主義」、「人権」などは西洋から輸入された外来思想である。

 

この事実はこれらの価値観に親近感を抱く人であれ嫌う人であれ否定できない。

 

外来思想が流入して、日本はどうなったのか?もしくは、どうなったのか、を考える上でどういった視座があるだろうか?

 

「アカルチュレーション」(文化触変)という言葉がある。

 

異なる文化をもつ集団が、持続的な直接接触を行って、いずれかの一方または両方を集団の元の文化の型に変化を発生させる現象を指す。

 

政治思想と文化は異なるものであるが、非物質的なものが他国から入ってきて受け手の非物質的な要素に影響を与えるという点では共通しており、頭の体操には有益ではないだろうか。

 

外来文化の侵入によって、受け手文化には以下の4つのタイプの結果が発生する。

 

一つは、受け手文化による外来文化の「編入統合」で、外来文化要素を受け手文化に適応させるように再解釈しながら受け入れて、受け手文化が変化する。

 

二つ目は、外来文化による受け手文化の「同化統合」で、外来文化が在来文化要素に置き換わり、在来文化の中心部分まで外来文化に適合するよう変化する。

 

三つ目は、受け手文化と外来文化の「隔離統合」で、同一機能をもつ受け手文化と外来文化が隔離されたかたちで並存する。

 

四つ目は、受け手文化と外来文化の「融合統合」で、在来文化と外来文化を融合させ、第三の新しい文化要素に作り変えて、統合度の高い文化体系が創造される。

 

日本の西洋的政治思想の受容のタイプを見ると、一つめの「編入統合」ないし「同化統合」だろうが、比較的ゆるやかなペースで日本が取捨選択しながら西洋的政治思想を導入してきた明治維新〜戦前が「編入統合」、敗戦により選択肢がない状態で自由民主主義的な国づくりを余儀なくされた戦後は「同化統合」といったところだろう。

 

ただ、文化触変では当然に在来文化支持者からの抵抗が予想される。なぜなら在来文化から利益を得ていたり、在来文化それ自体を愛する人が存在するからだ。特に「同化統合」ではより外来文化が在来文化の奥深くまでの変化を要求することから、在来文化支持者からの抵抗がより強くなる。

 

ただ、抵抗の態度も様々である。

 

外来文化に抵抗する態度としては、「ヘロデ主義」と「ゼロト主義」がある。

ヘロデ主義とは、敵対的文化触変抵抗の態度の一つで、侵入してくる外来文化を部分的に取り入れることで在来文化を守る態度である。

他方、ゼロト主義は侵入してきた異文化を全面的かつ熱狂的に排斥する態度で、在来文化を固守することで、在来文化を守ろうとするものである。

 

メディアでの論調を見ていると、最近の日本はヘロデ主義からゼロト主義へと転換しているように見える。

 

抵抗する相手への説得方法に、自己の在来文化と外来文化との共通性を強調することで、外来文化要素が自己の伝統的文化に含まれていると主張するのであれば、現在の護憲派やリベラルがやっていることがこれに近い。だが、彼らの試みは論理的ではなく、また成功しているようにも見えない。

 

今日の改憲論の一つの根拠が、現行憲法GHQ主導でつくられた「押し付け憲法」であるということである。

 

護憲派であってもこの事実は否定できない。ただ、誰が現行憲法をつくったのか、そしてそれが日本人でない、ということが重要な争点となっていることから、護憲派は現行憲法の「日本製」の部分を探そうとする。

 

護憲派の希望の星が「鈴木安蔵」だ。

 

GHQ占領下、日本人の間でも憲法草案をつくる動きが活発化し、そのうち最も有名なのが鈴木安蔵憲法研究会である。憲法研究会作の憲法草案が現行憲法によく似ていて、それがGHQ憲法草案に大きな影響を与えたとされる。

 

鈴木安蔵のもう1つの功績が、憲法第25条で規定されている「生存権」である。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がある」という生存権憲法案に書き込んだ初めての人が鈴木安蔵とされる。

 

また、憲法第14条の「法の下の平等」に「性別による差別を受けない」という「男女平等」条項を入れたのはベアテ・シロタ・ゴードンという占領軍勤務の若い女性であったことから「ベアテの贈りもの」と呼ばれることについても、日本にはすでに男女同権思想は十分に発達していたので、贈りものというのは言い過ぎだと上野千鶴子は言う。

 

婦人参政権幣原喜重郎内閣がマッカーサーから婦人参政権を含む憲法改正を示唆された1日前に閣議ですでに決定されていたのであって、占領軍がもらしたものではない。1931年にも貴族院が反対したために成立はしなかったが、婦人公民権法案は衆議院では可決されていた。そして、そこまでこぎつけたのは市川房枝を筆頭とする婦人参政権運動であった。このように、現行憲法で規定されている進歩的な思想は、決してGHQの贈りものではなく、日本人がすでに育んできたと彼女は指摘する。

 

しかし、すでにこのブログで何度も繰り返しているが、鈴木安蔵らの存在によって現行憲法の押し付け性を否定するのはやはり難しいと思う(が、私は多くの日本人がその後現行憲法を自らの意思で受け入れているのだから、事後的な承認はあったと思っている)。

 

というのも鈴木安蔵らが好き勝手に憲法草案を考えてそして政府(GHQ)に送付することができたのは、何よりGHQが政治的権力を握っていたからにほかならない。戦前の日本であれば草案を送付することがムリかとても危険を伴う行為だった。

 

それに市井の憲法草案を参考にするかどうかの生殺与奪の権利はGHQが掌握していた。そもそもGHQ憲法作成を主導するのは当初の松本(重治)案があまりに大日本帝國憲法から変わっていなかったからであって、GHQが仮に松本案を受け入れていれば、そもそも鈴木安蔵らの意見が顧みられることはなかった。したがって、鈴木安蔵らの意見が採用されるかどうかは完全にGHQの判断次第であったといえよう。

 

さらに言えば、鈴木安蔵らがいなければ現行憲法は存在しえなかったか、といえばそんなことはないはずだ。鈴木安蔵らがいなくてももともとGHQは自由や民主主義を導入した憲法を作成するつもりだったのであり、自由民主主義国の米国主導で作った憲法自由民主主義に憧れた人たちがつくった憲法案は確率的に似るほうが当然だ。

 

鈴木安蔵らがいなくても現行憲法は誕生し得たが、GHQがいなければ現行憲法は存在し得なかった。政府がつくった松本案の存在がGHQなしに現行憲法が存在し得なかったことを雄弁に物語る。

 

因果関係を間違えてはいけない。鈴木安蔵らの憲法案はGHQの思想と似ていただけである。

 

自由や民主主義を支持するうえでこれらの思想の非西洋性を強調する主張は他にもある。

 

たとえば、山脇はアマルティア・センを引用して、紀元前三世紀のインドのアショカ王アリストテレスのように女性や奴隷を排除せず、前農業期状態の共同体に住む「森人」にも自由の権利を認めたことを強調して、自由の価値を特殊近代ヨーロッパ的とみなす考えを退ける。

 

人権についても、人間の幸福という意味での「福祉」という点で、孟子の「恒産なくして恒心なし」という言葉があったことや、メアリー・カルドーを引用して、14世紀のイブン・ハルドゥーンがグローバルな市民社会を論じていたとする。

 

ただ、どんなに西洋的思想における非西洋性を発見しようとしても、その試みには限界があるように思う。

 

というのも、それはあくまで自由や民主主義といった理念を基準に過去を振り返っているだけで、自由や民主主義という理念が確固たる概念として固まってはじめて可能になるのであり、じゃあ誰がそれらの理念を体系化したの?と問われれば、それは西洋の政治思想家をおいて他にはいないのである。いってみれば特許のようなものであって、同じような考えを持つ人がいても、ちゃんと体系化して公に認められない限り、極論他の考えは存在しないのと同然だ(もっとも以前の米国の特許制度のように先発明主義なら過去を発掘する意義もあるが)。

 

西洋の政治思想家が体系化してくれたから、それらの思想の非西洋性を主張する人たちが過去の思想から共通する要素を発掘できるようになったのである。ある意味早い者勝ちであって、体系化して世に広く知らしめた人こそがオリジナルとなるべきで、仮にそれより先に同じようなことを考えた人がいても、あたかも特許料を支払うかのように、先に体系化した人を引用しなければならない。それがいやなら、その思想を使うのをやめるか、それ以上のオリジナルな概念を発明するしかない。

 

それに、西洋思想における非西洋性を発見したからといって「だから?」という感もある。

 

というのは、たとえば憲法改正論議でいえば、鈴木安蔵が引用されるのは現行憲法を維持するための方便にすぎない。現行憲法GHQの押し付けじゃないんです、だって鈴木安蔵がいたじゃない、だから押し付けじゃないんだから、今の憲法を変える必要はないでしょう?って言うための方便だ。

 

先週のブログで書いたように、これまでの和製リベラルの欠点、すなわち対案を提示せずにただ現状維持を繰り返す訴える、という問題の根本的な解決にはなっていない。実は日本や東洋にも似たような思想はあったんです!って言うことは現状の不満層への応答にはなっていない。

 

和製リベラルは西洋思想の非西洋性の発見以上のことをする必要がある。

 

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。。。。

 

ただ、一方でその難しさもよくわかる。

 

というのは、現行憲法は十分進歩的であるからだ。現実性はないが憲法9条の理念そのものは決して悪くない。もしあくまで「べき論」で世界がどこに向かうべきか、と問われれば、それは当然に戦争(というか武力行使全般)がない世界を目指すべきなのは自明だ。ただ、問題は現代ではその条件が整っていないに過ぎず、理念自体が否定されるべきではない。

 

自由や民主主義、平等、人権といった他の理念だってそうだ。現在の政治体制で民主主義以上の政治体制は存在しないし、自由や平等、人権が保障される社会のほうが素晴らしいに決まっている。

 

理念レベルで現行憲法以上のものをつくるのは難しい。むしろ現行憲法が保障すべき理念が十分に実現していないと考えるのであれば、護憲=進歩である。

 

和製リベラルは隘路にぶち当たっている。

 

現行憲法の理念は十分進歩的だから進歩的であろうとすれば現行憲法支持であってもおかしくない。ただ、現行憲法を維持するというのは現状維持には違いないから、その意味で「保守」でもある。ただ、現状を維持しましょうって主張するだけでは、現状に不満を持っている現状変革派に対してはなんら魅力的な回答にはならない。

 

こうした問題に直面しているのは日本だけではない。米国のトランプ現象や欧州における極右勢力の伸張も同じだ。進歩的な理念を守る行為が「保守」になってしまい、現状変革派への魅力的な回答を提示できていないのである。

 

現状維持派は勇ましさがない。どうしても守勢に回りがちだ。現状があったから今の問題が発生したと現状変革派が主張するなら、現状を維持しようというのは欺瞞にしか映らない。現代の政治思想がある種の理想点に達してしまったからこそ発生したジレンマだといえよう。

 

加えて、日本は欧米よりも難しい状況にある。自由民主主義的な価値観は欧米発の思想だから、思想の出処は大きな問題にはならない。議論は思想そのものの内実をめぐって争える。

 

ただ、日本ではそうとはならない。というのも、自由民主主義的な思想は西洋発であるがゆえに、思想の中身の論争に加えてナショナリスティックな色合いが付いてしまうからだ。すなわち、外来の思想が日本固有の文化や価値を脅かしているという具合に。だから、思想の中身自体よりも思想の出自という表面的な要素の対立に重点が移ってしまう。

 

欧米では自由民主主義思想の文化触変性はそもそも存在しないか、その葛藤はだいぶ小さい。日本では自由民主主義思想に文化触変の要素が付加されてしまうため、より問題が複雑化してしまうのだ。

 

では、どうしたらいいのか。

 

現状維持VS現状変革の部分にだけ的を絞って、少しだけ考えてみる。

 

国際関係論の知見では、現状が維持されるのは、支配的な大国を含む現状に満足してる勢力が現状に不満を抱く勢力の力を圧倒しているときに保たれるというものだが、改憲派護憲派勢力分布を比較すると護憲派の力が改憲派を圧倒しているようには見えない。

 

もう一つは、支配的大国の柔軟性である。支配的大国が挑戦国に対して秩序を受け入れられるような調整をどのくらいするか。

 

現状、護憲派改憲派の不満に答えていない。むしろ、普遍的な思想を足がかりに改憲派を攻撃しているようにしか見えない。

 

これではかえって改憲派の不満を煽るだけだろう。護憲派は対案を出さなければならない。それも現状不満派の不満に答えるように。

 

しかし、それは何であろう?答えはどこにあるのか?そもそも答えはあるのだろうか。。。?理想だけでいえば、「融合統合」を目指して新たな第三の道を考え出すべきなのだろうが、では具体的にそれが何かは難しいなぁ。。。

 

今日はこのへんで。

 

参考文献

上野千鶴子上野千鶴子の選憲論』集英社、2014年

山脇直司『社会思想史を学ぶ』筑摩書房、2009年

平野健一郎『国際文化論』東京大学出版会、2000年

田中明彦「パワー・トランジッションと国際政治の変容—中国対等の影響—」『国際問題』No.604、2011年

で、結局戦後とはなんだったわけ?(2) —リベラルの居場所—

私はリベラルの民主主義や人権、平和といった価値観に共感しているが、それでもリベラルのことは嫌いである。

 

そのきっかけは国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)への自衛隊派遣に反対する平和主義者たちの抗議デモであった。

 

UNTAC自衛隊が初めてPKOに参加した事例だが、この自衛隊の海外派遣が憲法違反になると社会党や平和主義者たちが反対したのだ。

 

確かに国連PKOには軍事要員が含まれる。しかし、軍事要員は戦争遂行のために派遣されるわけではなく、武器の使用も(少なくとも当時は)自衛の場合に限定されている。UNTACの目的はカンボジアの内戦からの復興と統治能力の回復であった。国連という外部アクターが一国の統治を肩代わりすることを現代版の植民地主義信託統治と見る向きもあろうが、それでも戦争を目的としているわけではないことは明らかである。

 

任務を効果的に達成できたかの評価は分かれようが、UNTACは間違いなくカンボジアの平和を目的としたミッションであった。

 

それこそ平和主義者たちが支援すべきミッションである。にもかかわらず、日本の平和主義者はUNTACへの自衛隊派遣に反対した。自衛隊員の安全を案じたのであればわかる。まだポルポト派の残党が存在しており、事実、日本の中田厚仁国連ボランティアと高田晴行警部補の2名の殉職が出たからだ。

 

だが、社会党や平和主義者たちの反発の根拠は自衛隊の海外派遣は憲法違反であり、軍国主義の復活といった非現実的な懸念であった。

 

当時の平和主義者や社会党の主張が採用されていれば一体誰の平和に貢献したのだろうか。少なくともカンボジアの人々の平和でなかったことは疑いない。

 

一言で言えば、日本のリベラルは「一国平和主義」であることを露呈したのである。

 

以来、私は日本のリベラルを信用してない。民主主義や自由、平等、平和、男女同権、夫婦別姓LGBTの権利保護、日本在住の外国人への参政権付与などなど、リベラルが支持しそうな理念や主張を私はどれも支持している。それでも、私は日本のリベラルが嫌いだ。

 

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日本のリベラルが嫌いなのは私だけではない。近年、日本のリベラルの評判は悪い。

 

安保法制や憲法改正の一連の議論で明らかとなったのは護憲派/リベラル/左翼の主張の説得力のなさだ。

 

なぜこんなにまで彼らに説得力を感じないのだろう。

 

三浦は日本のリベラルは変化に消極的で既存の政策に対する反対ばかりで建設的な役割を果たしてこなかったと指摘する。

 

グローバル化が進み経済や貿易の自由化が必要なのに、自由貿易協定には反対し、銀行を不良債権をつくったと批判しながらその処理の過程における貸し渋りを批判し、公共事業は否定するが産業構造の改革案はなく、福祉の拡大を主張しながら財源の捻出には口をつぐむといった具合に、ただその当時の与党の政策を批判するばかりで実現可能性のある対案を提示してこなかった。

 

そして安全保障で主張するのは憲法(9条)改正反対をただ連呼するのみである。

 

三浦は海外のリベラルは最新の知見の応用に積極的であったとする。たとえば世界では教育や福祉の分野にも経済学の知見を応用し、米国クリントン政権は労働のインセンティブを提供して自立を促す福祉政策を導入したりインターネットを教育に取り入れ、英国ブレア政権は競争原理にインセティンブやガバナンスの仕組みを上積みして成果の上がらない学校や地域には厳しい態度で臨み、ドイツのシュレーダー政権は硬直的な労働規制を改革するなど、世界各国のリベラル政権は最新の知見や技術を応用して政策を変化させた。

 

安全保障面でも、世界のリベラルは人道的介入という新たな武力行使の類型を加えた。虐殺や抑圧によって苦しむ一般市民を救うために武力行使を認めるという人道的介入は伝統的な国家主権概念に抵触する。しかし、カナダ政府が設置した「介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)が提唱した主権観「保護する責任(Responsibility to Protect: R2P)で理論武装して、少なくとも理念レベルでは保護する責任は国際的に受け入れられた概念となっている。

 

国連も変化している。前国連事務総長のコフィ・アナンは保護する責任と人道的介入を支持した。国連憲章2条7項は内政不干渉原則を定めているから、安保理が「国際の平和と安全への脅威」がある認定し武力行使を容認する場合を除いて、基本的に従来の国連憲章の解釈では人道的介入は認められないはずである。

 

それでもアナンは人道的介入を認めた。それは米国や英国といった西側大国がアナンに強要したからではなく、ユーゴ紛争やルワンダ内戦で国連が虐殺阻止に何もできなかったことに対する反省に起因するものであった。旧ユーゴのボスニアルワンダで虐殺が発生した当時、国連の平和維持活動(PKO)が現場に派遣されていた。国連PKOの指揮命令は国連事務局の平和維持活動局(DPKO)が担当しているが、当時のDPKOのトップである事務次長に就いていたのがアナンであった。アナンは虐殺を阻止できなかったことへの反省から人道的介入を認めたり、一般市民保護のために国連PKOの強化に取り組んだ。

 

人道的介入や保護する責任、PKOの強化には賛否両論あるが、それでも大事なのは、世界のリベラルたちは時代の変化に対応するために政策の改革に取り組んできたという事実である。

 

翻って日本のリベラルはどうかといえば、戦後一貫して憲法を守れ、戦争反対、自衛隊の海外派遣反対、ただそれだけである。戦後70年ほぼそれだけ、というのは怠慢としか言いようがない。

 

これにはリベラルやそう目されている人たちからも反省の弁が出ている。

 

上野千鶴子は、改憲派はいろいろアイデアを出してくるのに、護憲派は「対案はありますか」と問われても「いまのままで変えなくてもいい」、だから「何もしなくてもよい」としか言えず守旧派になってしまって魅力がなくなってしまうと指摘する。

 

大澤真幸と木村草太も復古的な思想への危機感がリアルだった世代には9条を守れという訴えは有効だったかもしれないが、敗戦の記憶をもたない世代にとっては民主主義や人権、平和といった普遍的な思想を振りかざす護憲派の態度は上から目線の押し付けに感じられてしまってもしょうがないと言う。

 

上野や大澤、木村らはリベラルは自分たちなりのリベラルの戦略を新たに探さなければならないと訴える。リベラルは変わらなくてはならないのである。

 

もっとも、日本のリベラルは海外のリベラルに比べて不利なことがある。

 

すなわち、日本の保守政党である自民党のリベラルさである。

 

海外のリベラルと保守は外交面でも内政での対立軸がおおざっぱに言えば一致している。リベラルは国際関係を協調可能と捉え、内政も社会保障を重視する大きな政府を志向する。他方、保守派は国際関係を対立的と捉え、内政も自助を重視する小さな政府を志向する。そのため、外交面では国防を重視しても、内政では社会保障を求める有権者であればリベラルを支持する可能性はある。

 

他方、日本では外交はともかく、内政ではリベラルと保守の対立は海外ほど強くない、というかセオリー通りであれば小さな政府を志向すべき自民党が非常に大きな政府を志向し、今日の社会保障制度のほとんどは自民党政権下で整備されてきた。最近はあまりに借金が増えて財政規律を考慮せざるを得ず社会保障制度利用者の負担増が議論されているが、それでも昨日に安倍首相が2019年10月までに消費増税を延期する意向と報道されたように、自民党は国民への負担増に踏み切れない(手厚い社会保障を理念とするというよりは選挙を懸念してだろうが)。

 

セオリー通りであれば、手厚い社会保障と国民の負担軽減はリベラルの縄張りであるはずである。しかし、日本においては自民党が少なからずその役割を担ってきてしまった。内政で保守派を攻撃しようにも、こと内政については日本の保守派は中道かやや左である。リベラルは武器の一つを奪われている状態であって、存在感を示す場が制約されてしまっているのである。

 

意見が決定的に対立するのは憲法しかない(それとて冷戦期は自民党改憲に消極的であった)。リベラルが勢力の縮減を怯えて存在感を示そうとすれば、憲法が争点化せざるをえないが、リベラルが嫌われているから、リベラルが護憲と叫べば叫ぶほど改憲派が増えるという(護憲派から見れば)悪循環が発生している(私は日本が右傾向化しているというよりは反リベラルが増えているといったほうが正解だと思っている)。

 

これからリベラルは日本の中でどこに居場所を見つけるのか。

 

日本のリベラルは護憲(特に9条という戦争・安全保障)と(この記事ではほとんど取り上げなかったが)歴史認識だけに精を出している。

 

今年7月の参議院議員選挙有権者もっとも重視する争点に関するNHK世論調査によると(1月時点)、社会保障景気対策がともに23%で1位、消費税が15%、安全保障が13%、憲法改正が13%、TPPが3%であった。安全保障や憲法改正の割合は決して小さいわけではないが、国民の関心は社会保障景気対策にある。

 

社会保障景気対策においてリベラルは無策である。実現可能性のある対案を示せていない。

 

自民党に侵食されていることが大きな要因であろうが、それでも国民の関心がここにある以上、リベラルは対案を示さなければならない。リベラルは変わらなければならない。そうでなければ、これからの日本にリベラルの居場所はなくなってしまう。

 

三浦は地方や女性、非正規のニーズは十分にくみとられておらず、リベラルが取り組むべきテーマはまだまだあると指摘する。三浦は一言でうまくリベラルの奮起を促している。

 

「闘え左翼、ただし正しい戦場で」

 

リベラルが護憲を超えた存在として日本に根をおろすことができるのか。リベラルの格闘をフォローしたい。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

三浦瑠麗『日本に絶望している人のための政治入門』文藝春秋、2015年

大澤真幸・木村草太『憲法の条件』NHK出版、2015年

上野千鶴子上野千鶴子の選憲論』集英社、2014年

 

 

で、結局戦後とはなんだったわけ?(1)—嫌われものの戦後を好きになるには—

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安保法制や憲法改正をめぐって護憲派の旗色が悪い。憲法9条を擁護しようものなら、お前は売国奴か、国際情勢がわかっていない愚か者か、平和ボケか、ネトウヨから相当な罵詈雑言を浴びてしまう。

 

メディアやネットニュースのコメント欄を見れば、安保法制反対を唱えたSealds(自由と民主主義のための学生緊急行動)には相当強い批判が寄せられている。首相に「バカ」と言ったりちょっと口汚かったりして無用に批判を煽ったところもあるが、相当な嫌われようである。

 

右寄りな人がSealdsや9条を擁護する憲法学者に否定的ななのは、まぁ、よくわかる。しかし、サイレントマジョリティの多くは憲法を支持していると私は思っているし、そして私も9条を含めて憲法を支持しているが、それでもSealdsや憲法学者の主張に心から賛同できるかと言われれば、留保せざる得ない。

 

やっぱりSealdsや憲法学者の主張って「絵空事」だよねっていう感覚が拭えないからだ。

 

在特会在日特権を許さない市民の会)のようなレイシスト的な右は下品でイヤだが、さりとて護憲派も上辺だけの胡散臭い感じがするという大多数の人びとの疑問や不満に右も左も有効な回答をくれていない。

 

護憲派憲法9条を改正すると日本が戦争をする国になるというが、9条的な憲法の存在と武力紛争との因果関係はよくわからない。ウプサラ大学の紛争データベースを見ると、少なくとも統計的には戦争や武力紛争の発生件数は減少していて、特に国家間の武力紛争である戦争にいたっては今日ではほぼ存在しない。

 

しかし、それは世界中に9条的な憲法が増えてきたからではない。国際法レベルでは国連憲章第2条4項が武力行使を禁じているが、憲法レベルでは9条のような武力行使の放棄を定める憲法は増えていない。それでも世界から戦争の数が激減したということは、9条的な憲法と戦争との発生には因果関係がないことを示している。

 

したがって憲法9条の改正と戦争するかしないかについては、因果関係はおろか相関関係させなさそうであるが、護憲派憲法9条改正と戦争の蓋然性との因果関係をきちんと説明してくれたりはしない。

 

また、こうした問題に護憲派が解を提示してくれないということに加えて、「民主主義」とか「自由」とか「平和」といった憲法が掲げる理念に対するどこか胡散臭さを感じる人は多いのではないか。戦争を経験した世代は身をもってその重要性(特に平和)を理解しているが、そうでないもっと若い世代はもう少し冷めているのではないだろうか。

 

民主主義や自由、平和という価値観に反対という意味ではない。そうではなくて、民主主義や自由、平和って日本人的な価値ではなくて、敗戦によって他者から否応なく認めさせられた価値観じゃない?っていう意味だ。

 

日本はアジアの中でも早くに民主主義国になった国だ。だから、われわれは胸を張って自由民主主義国ですって言ってもいいと思うのだが、対中国戦略の一環で価値外交を進める上で日本が民主主義や法の支配を信奉する国だってアピールすることはあっても、日本人自身がそれらの価値観を日本のものとして内面化しているかといえば、ちょっと心もとない。その点、(人口という意味で)世界最大の民主主義国インドのほうがよほどわれわれは民主主義国だって自信に満ちているように見える。

 

やはり民主主義とか自由とか、平和って借り物感が拭えないのだ。

 

幕末・明治の志士たち、すなわち、坂本龍馬勝海舟西郷隆盛大久保利通伊藤博文高杉晋作たちの人気は根強い。なぜなら、明治維新はわれわれ日本人の手で成し遂げたと胸を張って言えるからだ。自分たちで国づくりをしたって自信満々に言えるのは幕末・明治まで遡らなくてはならないのだ。だからこそ、右寄りの人は戦前の日本への憧憬があるのだろう。

 

反対に第2次大戦後、日本の復興に尽力した日本人を挙げるのは難しい。吉田茂はよい。すぐに名前が挙がる。しかし、その次になると途端に難しくなってくる。幣原喜重郎東久邇稔彦片山哲芦田均重光葵などなど、幕末・明治の志士に比べると知名度の低さは圧倒的である。尊敬する偉人に坂本龍馬が挙がっても、幣原喜重郎を挙げる人はよほどのマニアだと思う。

 

実際、日本テレビで放映された「超大型歴史アカデミー 史上初!1億3000万人が選ぶニッポン人が好きな偉人ベスト100」(2006〜2007年放映)では、幕末・明治の偉人は、坂本龍馬土方歳三西郷隆盛高杉晋作近藤勇大久保利通沖田総司勝海舟吉田松陰伊藤博文らが入っている一方、敗戦直後の政治家は吉田茂ただ一人である。戦後政治家の存在感は限りなくゼロに等しい。

 

現在の日本の礎を築いた敗戦直後の政治家の存在感が薄いことは、戦後という時代を日本人自身がイマイチ自分たちが築いてきたものと意識しきれていないことを象徴しているように思える。

 

過ぎたことを悔いてもしょうがないし当時の時代背景を鑑みれば他に選択肢はなかったのだが、米国によって日本の戦後体制が構築されたのは大きな問題だったのだろう。戦争犯罪の裁判も日本人自身がやるべきだった。むちゃくちゃな憲法でもいいから日本人の手によってつくって、それで失敗すればよかったのかもしれない。

 

そういう意味では民主主義への自信という面では日本よりも韓国のほうが強そうな気がする。韓国は戦後開発独裁の時代を経験し、1987年に国民の直接投票による大統領選挙を導入することで民主化を実現する。そのため韓国は自らの手で民主化を成し遂げたといえ、日本人よりも民主主義を内面化している可能性はある。

 

鈴木安蔵ら左派のインプットがあったとはいえ、憲法GHQ主導で作成されたのは間違いない。そもそも鈴木安蔵らが意見を言えたのもGHQが占領していたからであって、戦前に左派が憲法案について物申すことは不可能であった。どのようなアイデアを採用するかの生殺与奪の権利はGHQに委ねられていたのである。

 

私的には戦後多くの日本人は憲法を支持してきたので、われわれの意思で事後的な承認を与えてきたと思っている。しかし、GHQ主導であったことが、今の憲法がどこか日本人のものじゃない感じを生み出してきたことも間違いない。

 

別にこれは日本人特有の感情ではない。たとえば、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所ICTY)がそれだ。1990年代初頭の旧ユーゴ紛争後、国際人道法違反を裁くためにICTYが設立された。旧ユーゴ紛争(ボスニア紛争)ではセルビアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナが紛争当事者であり、紛争は最終的に北大西洋条約機構NATO)によるセルビア空爆によりセルビアが停戦を受け入れ終結する。スレブレニツァの虐殺など相対的にセルビアが加害者として認識されたため、多くのセルビア人が訴追されている。ICTYセルビア人が受け入れているかといえば、そんなことはなくICTYは勝者による不公平な裁判であると認識されている。

 

旧ユーゴ紛争のように外部からの武力介入がないまでも、冷戦終結後は内戦が終結した国に国連等の国際機関や外国が関与して民主化が進められることが多い。カンボジアモザンビークコソボシエラレオネなどなど。しかし、これらの国で民主主義が根付いた国はない(もちろん民主主義の定着には何十年もかかるだろうから評価するには時期尚早という面もあるが)。カンボジアモザンビークは秩序は安定しているので、内戦からの復興(平和構築)の成否という面では成功例といってもいいと思うが、民主化が進んでいるかと言われれば、ちょっと厳しい。

 

やはり外部主導の民主主義の定着は難しいのか、と悲観的になってしまう。

 

しかし、現在存在する政治体制のうち自由民主主義に優るものはないのであって、憲法を改正しようがしまいが、われわれは戦後体制に付き合い続けなければならない。先述のとおり、たしかに今の憲法GHQ主導でつくられたものだが、一方でわれわれ自身が支持してきた一面もあるはずだ。その戦後を「外部から押し付けられてしょうがなく受け入れた時代」と切り捨ているのは少し寂しい。戦後をどう捉えるべきか、もう少し考えてみたいと思う。

 

多数で決めるは悪いのか? —どんな決め方ならいい?—

「多数で決めて何が悪いのか」

 

5月2日の朝日新聞の「憲法を考える」という論説の一文である。朝日新聞自体が「多数で決めて何が悪いのか」と言っているのではなく、安倍政権の政治を多数の専制と捉えての一文である。

 

朝日新聞によると安倍政権によって立憲主義が危機にさらされているという。具体的な根拠としては、2014年7月の集団的自衛権の行使容認の閣議決定で歴代内閣の憲法解釈を首相の一存で変えたことや、憲法学者違憲との判断を示す中で安保関連法案を国会で通したことが挙げられている。

 

「数の力がすべてだ。◯か×か、多数で決めて何が悪いのかーー。ぎすぎすした政治が広がっている」

 

とのこと。

 

確かに憲法9条を擁護する立場からすれば、昨今の安倍政権下で進む安保関連法の整備や憲法改正に向けた動きに危機感を抱くのは当然である。

 

他方で、多数決によらないとすると、いかなる意思決定方法を理想とすべきなのだろうか。それがわからないとこの議論は先に進めないが、この問いに対する明確な答えを出すことは非常に困難である。

 

そもそも、1996年に衆議院議員選挙で採用された小選挙区比例代表並立制は、小選挙区では勝者総取りとなるため、得票率以上に議席を獲得できる可能性が高くなる。そのため、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に移行した時点である程度は選挙で勝利した政党が大幅に議席を獲得することは予想されたことである。

 

また、議院内閣制は議会の多数派政党と行政府のリーダーの出身政党が同一になるのが通常であるため、内閣が強力なリーダーシップを発揮しやすい制度である。

 

そのため、小選挙区制や議院内閣制を導入すると、首相が自分の望む政策を強力に推進できる環境が整いやすい。

 

では、それが立憲主義や民主主義の否定を意味するか、といえば、そうではなかろう。

 

小選挙区制度は米国や英国で採用されており、議院内閣制も英国で採用されている制度である。だからといって、米国や英国が非立憲主義国だとか非民主主義国とはならない。それと同様に、日本で多数の議席を獲得する政党が現れ、政権主導の政治が行われたからといって、それが立憲主義や民主主義の否定に即つながるわけではない。

 

だが、朝日新聞の懸念を無視してもいいということにはならない。なぜなら十分に議論すべき重要な論点、すなわち「誰が支配すべきか、誰の選好を優先させるべきか」という民主主義の制度化にとってとても重要な問いが込められているからである。

 

佐々木毅は、民主主義の制度を「多数派支配型」と「合意型」の2つに分けている。多数派支配型は、多数派の意向に合致する政治が少数派の意向に配慮するよりも民主主義の理念に適うという立場で、他方、合意型は、政治から排除される集団を限りなく少なくすることが民主主義にとって望ましいと考える立場である。

 

多数派支配型の代表格は米国と英国で、特に英国は議院内閣制、小選挙区制、厳格な党の規律に支えられ、首相がリーダーシップを発揮しやすい制度であり、それゆえ、多数派支配型はウェストミンスター型とも呼ばれている。現在の日本の制度もイギリス型を志向しており、であれば、首相がリーダーシップを発揮する局面があることはもはや所与のことといえる(小泉元首相を除いて、1996年以降も歴代首相はリーダーシップを発揮してきたとはいえないが、それは議院内閣制や小選挙制という制度に由来する原因というよりは、中選挙区制の名残で派閥が自民党に残っていたり、旧民主党選挙互助会的に多くの政党を統合したことで党内の意見を統一できなかったりすることによる)。

 

合意型は排除を避けて包摂を重視する一方で、多数支配型は意思決定がスムーズでリーダーシップを発揮しやすいので、政治が停滞するリスクは下げられる。どちらも一長一短で、どちらかの制度が優れているということはない。だからこそ悩ましいのである。

 

望ましい民主主義のあり方を問うた点で朝日新聞の論説は意味のあるものだ。

 

だが、もう一方で付け加えておきたいのが、変化を起こすほうが注目を浴びやすいため現状変革派はしばしば修正主義者とみなされやすい。現状変革派のほうが積極的にパワーを行使しているように見えるが、現状を維持の場合にはパワーが働いていない、、、なんてことはない。

 

現状維持かそれとも現状変革か、は互いのパワーの優劣によって決まるのであって、現状が維持されるのは、争点がないからでもパワーが行使されていないからでもなく、現状維持派が現状を維持という目的を達成するためにパワーを行使しているためである。

 

朝日新聞は安保関連法や憲法改正を、安倍政権や自民党サイレントマジョリティーが憲法9条の維持を望んでいるのに、それを無視して独断でことを進めているように理解しているのかもしれないが、現状維持の場合であってもそれは一部の人たちの選好には違いないのである。

 

安倍政権が憲法を改正しようとしなければ朝日新聞は文句を言わなかっただろうが、それはダブルスタンダードな態度である。議会の多数派が憲法を改正しないことを選択したとしても、それも議会の多数派による意思決定であり、多数派支配の一例には違いないからである。

 

「誰が支配すべきか、誰の選好を優先させるべきか」

 

もし、現状維持派が現状を維持するという選好を優先してほしいと考えるならば、なぜその選好が優先されるべきかを説得的に示すか、政治を支配できる「誰か」になる必要がある。

 

安倍政権で右寄りの政策が進むことに対する懸念は理解できるが、なぜ現状維持派の主張が説得力を失ったのかも考える必要があるだろう。そして、安倍政権の行動が多数派の専制だというなら、どういった制度ならいいのか提示する必要があるのではないか。

 

小選挙区制をやめて比例代表制を導入するのも一手だが、そうすると一党が議会の過半数を握ることが難しくなり、複数政党による連立政権になる可能性があり、決められない政治が惹起される可能性がある。もちろんドイツのように比例代表制を採用しても政治が進む国もあるが、ドイツでも移民排斥を主張する極右政党「ドイツのための選択肢」が台頭しつつある。比例代表制であれば極右政党が議会の過半数を占めるリスクは避けられるかもしれないが、一定の議席数を確保する場合、連立の一角を占め、事実上のキャスティングボートを握る可能性もある。多数だからといってそれが立憲主義や民主主義の否定になるとは限らない。圧倒的な多数派を生みにくくする制度であっても、それがかえって立憲主義や民主主義を否定する勢力を意思決定の場への参加を後押しすることもある。

 

多数派支配型を採用するか、合意型を採用するか、そしてそれが立憲主義や民主主義のあり方にどのような影響を与えるかは、簡単には回答の出せない難しい問いなのである。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

佐々木毅政治学講義[初版]』東京大学出版会、1999年。

成功体験がのちの政策を束縛する

とある経済新聞は5月末に策定される予定の成長戦略が貧弱なものに終わることを懸念しているようだ。

 

その理由は自動走行やドローンといった流行りの施策が「的」として盛りだくさんに盛り込まれているのだが、それを実現するための「矢」が足りないことにある。

 

しかし、こういった批判はこの成長戦略に限られない。新聞各紙は成長戦略が発表されると大概の場合、その社説に「具体性がない」とか「実行力が大事」といった批判や注文をつけてきた。政府が成長戦略を発表して、新聞各紙が批判をするという光景はもはや恒例行事であり、5月に本当に成長戦略が発表されれば再度こういった批判がデジャブのように浴びせられることだろう。

 

そもそもこういった批判が加えられる背景には成長戦略への期待があるように思われる。実際、景気が低迷すれば政府への施策への期待は高まるわけだが、社会民主主義的な新聞紙が政府の役割を強調するのは理解できるにしても、資本主義や自由主義経済を尊重すると考えられる経済紙までが政府の役割に期待するというのは不思議な現象である。

 

海外の成長戦略に詳しいわけではないが、中国といった社会主義共産主義国新興国・途上国が5カ年計画といった中長期的な国家戦略を策定することは多い一方、自由主義経済の旗手である米国が日本でいうところ成長戦略を策定しているという話はあまり聞かない。もちろん米国とて各分野の発展戦略は策定している。しかし、経済紙は中国の5カ年計画は記事として大きく取り上げることを考慮すれば、米国にも国家全体の成長戦略が策定されれば大々的に報じるはずだが、あまりそういった記事は見かけたことがない。一般教書演説は必ず報じられているが、一般教書演説は日本の成長戦略や新興国の5カ年計画とは趣は違うので、おそらく米国には成長戦略はないものと想像される。

 

成長戦略に期待するのは新聞だけではない。そもそも政府自身、成長戦略をつくることに非常に力を入れているように見受けられる。第2次安倍政権の成長戦略である再興戦略や民主党政権下の成長戦略、小泉政権骨太の方針、村山政権下の構造改革のための経済社会計画、宮澤政権下の生活大国5カ年計画やら各政権ごとに名前は違えど成長戦略が立てられているといってよい。

 

しかし、米国ほどではないにせよ、日本も自由主義経済国かつ先進国なのであり、そのため社会主義国新興国のような成長戦略をいまだに策定しているのは不思議である。

 

なぜ、日本ではいまだに成長戦略に期待してしまう「成長戦略神話」があるのか?

 

これは過去に成長戦略によって成功したという「成功体験」があるからであり、そのはしりは池田政権の「所得倍増計画」であろう。小学校の日本史以降、所得倍増計画は日本の高度成長を実現させた戦略として必ず登場し、そして必ず覚えなければならない必須単語である。経済学の専門家ならいざしらず、一般の人は所得倍増計画が日本の高度経済を実現させた戦略であると脳みそに刷り込まれている。少なくとも学校の授業ではそう習うから。

 

1960年代は、日本が第2次大戦で負けてからわずか20年程度の時代であり、あれほどまでに壊滅的な被害を受けながらも20年程度で先進国の仲間入りをしたのは強烈な成功体験であり、高度成長期に先立って策定された所得倍増計画がそれをもたらしたという鮮烈な記憶が刻み込まれたといえる。こうした所得倍増計画によって高度成長を成し遂げたという成功体験が成長戦略に対する根強い期待を生み出していると考えられるだろう。所得を倍増させると宣言して、実際に所得が倍増した時期と重なっているのだから、そうした記憶が形成されるのはむしろ当然であろう。

 

だが、実際に所得倍増計画がどの程度因果的に日本の経済成長を実現させたかはよくわからない。日本の高度成長を牽引した鉄鋼業や自動車産業などは所得倍増計画やそれに関連した産業政策がなければ成長しなかったかといえば、当時は中国や韓国といった日本のライバルになるような新興国は存在しなかったから、優遇税制や補助金がなんらかの影響を与えたにせよ、政府の政策がなかったとしても十分成長したと考えることもできるだろう。

 

仮に所得倍増計画は日本の経済成長に貢献したとしても、その後の成長戦略は経済成長の目標数値を下げてきているにもかかわらず、その低い目標すら達成できていない。その意味で成長戦略はもはや賞味期限切れの政策といえる。しかし、それにもかかわらず成長戦略に依存するのは所得倍増計画という輝かしい先例が存在するからであり、一度大きな成功があるとその後の方向転換が難しいというのは何も政府に限らず、多くの企業にも当てはまることであろう。

 

組織文化を研究したエドガー・シャインによると、組織の学習には2種類、すなわち「積極的問題解決」に起因する学習効果と「苦痛と不安の軽減」に起因する学習効果があるとされる。

 

前者の積極的問題解決学習は、組織が直面する課題の解決につながった解決案が、その後も問題に直面するたびに思い出され、使用される可能性が高くなるというものである。「効き目をもっている」ことが発見されれば、次に同一の問題が起こった場合に再度繰り返し使用される。

 

その解決法がのちに発生した問題の解決につながらなければ、効果がなくなったとして放棄されるはずである。しかし、現実にはそうなるとは限らない。一時的にしか効果をもたなかった解決策が、その後も長期にわたって維持されることがある。シャインによると、、、

 

「もし何かが一時的に効果をあげる、しかし、どんな偶然的要素が成功、失敗を決定したのかが正確に突きとめられない、といった場合、その何かは、完全に効果がなくなってしまった後も、始終効果のあったものに比べ、はるか長期にわたり試み続けられるであろう。過去の歴史が示唆しているが、すでに効果がなくなっているにせよ、再び効力を示すかもしれないし、集団メンバーは、その解決がかつて、一時効力を失った後、もう一度効力を示したことがあった事実を思い出す」

 

 

成長戦略は所得倍増計画以後、大した成果をあげてはいないが、小泉政権下の骨太の方針は注目を浴び、実際に経済成長をもたらしたかどうかはともかく、政権の支持率浮揚には寄与した。

 

こうした所得倍増計画の輝かしい成功や骨太の方針が関心を集めたことがあるため、経済成長に寄与しなくともいつか効果を発揮するかもしれない政策として、政権が変わるたびに再生産されるのだろう。

 

さらにいえば、民主党政権の成長戦略以降、政権と成長戦略の名前が変わってもその中身には大きな変化はないように思われる。最近の「一億総活躍社会」だって、民主党政権の「日本再生戦略」の「共創の国」と何が違うのか。共創の国では、「すべての人に「居場所」と「出番」があり、全員参加、生涯現役で、各々が「新しい公共」の担い手となる社会である。そして、分厚い中間層が復活した社会である。そこでは、一人ひとりが、生きていく上で必要な生活基盤が持続的に保障される中で、活力あふれる日常生活を送ることができる」とされ、この文章から一億総活躍社会を連想しても、それを誤りと批判することはできない。

 

国が成長戦略を策定するという政策はもう賞味期限が切れていると思われるし、大した成果も上げてきたわけではないのだが、それでも成長戦略が再生産されるのは所得倍増計画という圧倒的な成功例が存在し、その記憶が現在の政治に依然として大きな影響力を与えているのである。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

  • 鈴木明彦「総点検:民主党の政策 成長戦略は必要なのか—成長戦略が経済成長率を高めるという幻想—」『季刊 政策・経営研究』2013年1。
  • H.シャイン(清水紀彦・浜田幸雄訳)『組織文化とリーダーシップ(初版)』ダイヤモンド社、1989年。

 

国際合意の束縛的効果と危機に瀕する日韓慰安婦合意

なぜ政府は他国と合意を結ぶのか。

 

その理由は多岐にわたろうが、理由の1つがのちの政権の意思決定の拘束にある。

 

ある政治指導者が自身の望む政策をのちの世代まで残したいとしよう。政権交代の際に次の政権に残すよう頼むことも可能だが、次の政権がその約束を反故にするかもしれない。少しでも反故にする可能性を下げるには、約束の反故に伴うコストを引き上げることが必要である。

 

その1つの手段が法制化やルール化である。

 

一度法律として成立してしまえば口約束に比べるとはるかにそれを変えることが困難となる。法制化やルール化の外交バージョンが条約や条約にその他多様な国際合意である。

 

前の政権が勝手に締結した合意だからといって、次の政権が簡単にその約束を反故にすると、その政権や国に対する国際的な信用を失ってしまいかねない。そのため、次の政権がその約束に不満をもっていたとしても、国際的な信用を維持するために約束を守らざるをえなくなる。

 

前の政権としてはそれを狙って自身の信条に沿った国際的な合意を締結するのである。

 

次の政権としては前政権が締結した合意を前提に対外政策を運営しなければならないという経路依存性効果に直面するわけである。

 

とはいえ、前政権の合意が反故にされることは当然ありうるし、過去の国際政治においても多々発生してきた。

 

そして、今まさに反故にされようとしている国際合意が存在する。

 

すなわち、昨年12月に締結された慰安婦に関する日韓合意である。

 

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慰安婦支援に日本が10億円を拠出する財団の設立や、日本大使館の前に設置された少女像の撤去問題は韓国の総選挙後に持ち越されていたが、4月13日に行われた韓国総選挙で朴政権の与党セヌリ党が野党「共に民主党民主党)」に大敗してしまったことにより、今後の見通しが不透明になっている。

 

民主党は日韓合意に反対する元慰安婦を陣営の顧問に就けるなど、同党は日韓合意の無効や再協議を求める可能性が否定できない。

 

冒頭で述べたように国際合意を反故にすることは国際的な信用を失うリスクを伴うのであり、同党の中にも再協議に否定的な向きはあるようであるが、予断は許さない。

 

せっかく改善を見せはじめた日韓関係がこれで再び歴史認識問題をめぐって悪化するのは残念である。

 

もっとも歴史認識問題をめぐって前の政権の考えをくつがえしたいと考えるのは韓国ばかりではなく、日本も同様である。

 

昨年は第2次大戦終戦後70年の節目の年であったが、戦後50年の「村山談話」や戦後60年の「小泉談話」のように「植民地支配と侵略」と「痛切な反省と心からのおわび」という文言を踏襲するかどうかをめぐって、しばらく安倍首相は態度を明確にしなかった。というか、村山元首相の個人的な歴史観に日本がいつまでも縛られる必要はないと述べるなど、否定的な態度をとっていた。

 

最終的には「全体として引き継ぐ」となったように村山談話を踏襲したといえるわけだが、村山談話から20年という短くない年月が経過したせいか、合意(談話なので他国との合意とはいえないが、自主的な約束を宣言したと捉えることはできるだろう)の拘束力はだいぶ低下しているように思われる。

 

日本も韓国も(そして中国も)、こと歴史問題になると合意の拘束力が弱まるように思われる。それは日韓両国に合意を快く思わない層が一定程度存在するのであり、彼らからの支持が見込まれる以上、合意をやぶるインセンティブが政治家にあるからであろう。

 

どの国でも右寄りな層は存在するわけで、特に昨今の歴史認識問題をめぐっては、日本では日本の侵略性や慰安婦南京大虐殺を否定する意見が、韓国では日本の侵略・植民地統治や第2次大戦時の行いを批判する論調がかなりの支持を得やすい。そのため、本当の右派のみならず、選挙や支持目当てに右寄りな言動をする政治家が現れることになる。

 

そのため誰が本当の右派なのかどうかはわからなくなってしまうわけだが、われこそが本当の右派であることを証明するために、日本であれば靖国神社に8月15日に参拝したり、日本の植民地統治や第2時大戦時の行いを否定するような言動をし、韓国であれば日韓慰安婦合意を否定するような言動をするインセンティブを政治家が持つようになるのである。

 

しかし、みなが靖国神社に参拝したり日韓慰安婦合意を否定したりすると自身と他の政治家との差別化ができなくなるため、より過激な言動に走る者も現れる。すべては選挙での支持獲得のために、誰が本当の右派かわからない中で自身が「本当の右派ですよ!」をアピールしようとする行為なのである。

 

村山談話については、踏襲されるかどうかの危機に瀕しながらも、それでもなお踏襲されたのは合意の拘束力ゆえであろうから、その意味では冒頭で述べたように、のちの政権が自身の信条に即した約束を反故にするような意思決定をさせないようにするために国際的な合意を締結するというロジックは機能しているといえる。それでもその効果は万全ではない(し、国民の利益にそぐわない約束であればむしろ変えられなければ困ってしまうから、のちの政権の意思決定が拘束されすぎるのも問題である)。

 

しかし、慰安婦の日韓合意は日韓関係改善の第一歩になる合意である。日韓合意が反故にされて、再び謝罪した、いやしていない、もっと謝れといった不毛な対立によって日韓関係が悪化するのは避けてほしいと思う。

 

いかがでしょう?

 

参考文献

Michael Barnett and Raymond Duvall, eds., Power in Global Governance, Cambridge University Press, 2005.

 

たとえ話の誤謬と認識の政治

ベンサム功利主義、特に最大多数の最大幸福という概念はほぼ全ての哲学の教科書に載っている。

そして、しばしば彼の功利主義を説明(批判)する際に次のようなたとえ話がなされる。

 

すなわち、一人の生贄を犠牲にすることで、他の多くの人々が救われるのであれば、あなたはそれに賛同するか、と。もしくは、ボートが漂流し、一人を殺してその人肉を食べると他の乗員全てが救われるのであれば、その殺人は許されるのか、と。

 

このたとえ話を聞かされればたいていの人が倫理的な葛藤に悩みつつ、このような冷たい判断を要求する最大多数の最大幸福という考えに否定的な印象を持つ。

 

では、次のようなたとえ話ならどうだろうか?

 

大資産家の財産を処分して、それを人々に広く配分する(大資産家は正当なビジネスで一財産をなしたとする)。

 

大資産家の例も最大多数の最大幸福の例である。

 

アンケートをとって確かめたわけではないが、このたとえ話なら最大多数の最大幸福という考えに賛同する人が増えるのではないだろうか?

 

米国の大統領選挙で、富者への課税強化を掲げる社会主義バーニー・サンダース氏が善戦していることを見るに、思わずそう考えてしまう。

善戦としているとはいえ、彼が民主党の指名を得ることがほぼないといえるが、彼の社会主義思想を広めることには成功し、少なからずヒラリー・クリントン氏の選挙公約にも影響を与えているように思われる。

 

数の上では富裕者<非富裕者であり、その意味で彼の主張は最大多数の最大幸福的である。

 

人肉や殺人の例だと冷たい印象を与える最大多数の最大幸福の話が、大資産家の話だと途端に社会保障的な印象となる。

 

生贄のたとえ話とともに最大多数の最大幸福論にあなたは賛成ですかって言われたら多くの人は反対するけれど、最大多数の最大幸福という名前を出さずに、大資産家の資産を非富裕層に配分するというアイデアとともにあなたはこの案に賛成しますかって言われたら、多くの人は賛同するだろう。

 

生贄のたとえのときは美しい少女の写真を、大資産家のたとえのときは肥え太った脂ぎった中年男性の写真を見せれば、大資産家の資産配分案への賛同者はさらに増える違いない。

 

もともと最大多数の最大幸福論を提示したベンサムとて生贄の話のような極端な事例を想定していたわけではないだろう。むしろ、少数の貴族によって多数の被支配者が抑圧されていることに対する異議なのであって、その意味で功利主義者という印象とは裏腹にベンサムとサンダースのほうが話が合うのかもしれない。

 

この例は理論を正しく説明するのが難しいという問題と同時に政治が認識やイメージによって左右されることを示している。

 

環境保護自由貿易をめぐる政治を考えてみよう。

 

環境保護を訴えたい政治的起業家(リーダー)がいるとする。環境保護を利益の観点からPRすることは難しい。というのは、漠然と環境が悪化すると困るとは思うかもしれないが、環境保護のために利便性が失われるのであれば、個人的な利得という観点からは環境保護への支持は得にくい。

 

人々の利益関心に訴えるのが難しいとすれば、その政治的起業家はどうするか?

 

答えはイメージに訴える、である。伐採される森林や崩れ落ちる氷河、大気汚染や水質汚濁によって傷つく動植物の映像を流せば、人々の直感に訴え、環境保護への支持も得やすくなる。

 

他方、イメージ化が難しければたとえ全体の利益になる政策であっても世論の支持を得られない。

 

自由貿易政策(WTOTPPを含む自由貿易協定(FTA)を通じた貿易の自由化)はまさにそれであろう。実際に自由貿易による恩恵を計算することは難しいが、ここは教科書通り自由貿易によって国全体の厚生は増加すると仮定しよう。

 

TPPをめぐる日米での議論を見るように、自由貿易政策は必ずしも世論の支持を得られるとは限らない。いくつか原因はあるだろうが、イメージ化が難しいことがその一因であるように思われる。

 

TPPの利益をイメージ化するとどうなるか?需要曲線と供給曲線をひいたグラフや数式がすぐに思いつくが、そのグラフをもって人々の直感に訴えることができるだろうか、と問われれば、それはかなり難しいような気がするのである(少なくともわたしは算数や数学が苦手だったこともありむしろ拒否反応さえ起きてしまう)。

 

他方、自由貿易によって農家が苦しむと言われたらどうなるだろうか。優しそうなおじいさんやおばあさんの顔とともに、この人たちが苦しむことになるんです、と言われたらどうだろうか。自由貿易で利益を得るのは大企業であり、大企業は環境規制や労働規制が甘い途上国で公害や児童労働を引き起こすと言われたらどうだろうか(それももくもくと煙をあげる工場ややせ細った子どもの映像とともに言われたら)。

 

これは自由貿易支持派には不利である。

 

いかにして人々の直感に働きかけるか。それが政策の不支持を分ける大きなメルクマールなのである。

 

いかがでしょう?

 

 

参考文献